あぁ、釣竿が沈んでいく!

road tsukubadai all
秋から冬にかけては、ロードバイクの季節です。この日は筑波山の麓まで軽く飛ばしてきました。風も心地よく、空は青く、隼は空を悠々と飛び、木々は紅葉を始め、快走するには絶好の季節となりました。


 最低気温となる予報が出た朝。久しぶりの釣りに出かけました。

 今日は、コマセを撒いて、魚を引き寄せる「フカセ釣り」で、クロダイを狙おうとの算段です。
 早朝の仕事を終えて、8時に家を出ました。
 鹿島の港内に突き出た桟橋に設置された釣り場についたのは10時です。平日で、仕事の車が多く、思ったより時間がかかりました。

 一方、釣り場の駐車スペースはガラ空きです。
 釣り用の防寒着に身を固めた体には、あまり寒さは感じられません。

 さてと、これからが大変です。
 コマセを作ります。仕掛けを作ります。あたりを見回して、何が釣れているか情報収集をします。
 この日は、投げ釣りの方が釣果が上がっているようです。
 一人の懐っこい顔をした青年が、投げ釣りで結構なものを釣り上げているようです。

 小一時間かかって、釣りをする準備が整いました。
 コマセを自分の釣りをする場所に撒き散らします。

 ここには美味しい餌があるよ、ここに来ると、美味しい餌がタダで食べられるよと、クロダイを騙すのです。結構な量のコマセをまきしばらく様子を見ます。

 クロダイもきっと警戒をしているはずです。
 ぼちゃんと音がすれば、それは罠に違いありません。耳をすませて、それが好意的な餌なのか、それとも、悪意のある餌なのかを、きっと見極めているはずです。

 私は、持参したおにぎりを取り出し、戦の前の腹ごなしとそれを頬張ります。
 
 その時です。
 予期しない強い風が吹いてきました。まったく突然に起こった風です。

 準備万端整った私の竿が、ガラガラと音を立てて、ひきづられ、まるで、スローモーションのように、5メートル下の海に落ちていったのです。

 竿は、横になって、漂っています。
 そして、やがて、魚雷攻撃を受けて船腹を折られた船が、船首を高らかにあげて、垂直に沈んでいくように、私の竿は、直立し、沈んでいったのです。
 海面には、黄色丸いウキが漂っているだけでした。

 私は、そのウキをなんとか掴み取り、竿を引き上げようと、たも網を伸ばしますが、うねりがそのウキを少しづつ沖へと運んでいきます。
 
 なんという失態、なんという不幸が起きたのかと茫然自失の状態です。

 世の中には、ありうべからざることがまま起きます。
 アメリカ大統領選挙でさえも、それは起こりうるのです。

 しかし、私の身に起こるとは……。

 財布をなくしたことも、今回のことも、きっと何かの因縁なのかしらと、ふと、脳裏をよぎります。
 そのことを都合のいい方に考えれば、自分や周辺のものに忍び寄る災厄を財布や釣竿が代わって犠牲になったと思えばいいのですが、目の前で、沈下していく、自分の竿を見るのは、なんともやるせないことです。

 その時、ちょっと離れていたところで投げ竿で釣りをしていた、あの青年が、一本の竿を持って、こちらにやってきました。

 「やっちまいましたね。」と、笑顔で言ってきます。
 「ウキはラインとつながっていますよね。」と。手にした竿の先に、何やら、黄色の傘のようなものを取り付けています。

 私がキョトンとしていると、これですか、こういう時のためにある仕掛けですというなり、それを海に投げ入れたのです。
 そして、3度目の投げ入れで、その「黄色の傘」は、私の黄色のウキをキャッチしたのです。

 あとはもう引き上げるだけです。
 私の直角に沈んで行った竿は、ものの見事に私の手元に戻ってきたのです。

 青年は、良かったと一言言って、自分の釣り場に戻っていきました。

 今日はなんという日なのか。
 釣り人の少ない堤防で、釣り人が釣竿を失うという失態を、それをうかがい知った青年が走り寄ってきて、窮地を救ってくれる。

 今日の私にはクロダイはなかったけれど、釣り仲間の気持ちいい思いやりと助太刀を得たことでよしとしよう、そんな晴れがましい気持ちでした。

 気温がだいぶ冷え込んだ夕方、帰り際に、その青年の元にいき、持参したバナナをお礼にわたし、釣果を見せてもらうことにしました。
 釣り人にとって、他の人に釣果を見せることは、実は楽しみなのです。

 こういう心を持った青年には、やはり、いい釣果がありました。

 あと少し、頑張ります。せっかくきたので。
 と、彼は笑顔で言います。

 きっと、この青年は、釣りが好きで、人が好きで、平日に釣りに来るくらいだから、日曜あたりに出勤する会社員か、それとも、夜勤のある会社に勤務しているのかと一人思い、わずかに取れた休日を思い切り釣りに集中しているのだなと、一人勝手に想像しました。

 そうそう、海に潜った竿は、堤防の端に据えられている水道水で洗いました。
 塩っけがついていると、使い物にならなくなりますから、今日は帰って、竿の整備をし、次回の釣りに使えるようにしたいと思うのです。

 かつて、鹿島の東電の排水口で、大きなメジナを釣り上げた「同志」ですから。


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この世の片隅で、篤実で、謙虚で、慎み深く生きるもの

kabenosedafsda
人の思考は、時に、メルヘンの世界、ありうべからざる世界に及びます。それは、ふとしたことから起こるようです。



 蒸し暑い晩のことでした。
 少々、釣り物があって、夕方遅くまで釣りに励んでいました。
 釣り場を出たのは、7時を回った頃合い。

 いつものように、ソフトクリームとアイスコーヒーを求めて、釣り場の近くのコンビニに立ち寄りました。魚を手にして、心地よい疲れにはソフトクリームは最高のプレゼントです。
 コーヒーは、これから1時間弱のドライブの眠気覚ましです。

 車に入って、ソストクリームを舐め始めると、バチッ、バチッとかなり大きな音がしているのに気がつきました。
 頭を低くして、フロントガラス越しにその音のする方を見ると、店の角に「電殺捕虫機」がぶら下がり、青白い光を放つその円筒形の機械に虫が吸い寄せられ、電気で打たれている音なのです。

 それにしても、随分とすごい音がするものだな、と思いました。

 私たち日本人は、害虫と言われるハエ、蚊、ゴキブリに対しては、執念くその撃退法を考案し、「清潔」を保とうと努力してきた歴史を持っています。

 むかし、むかし、のことですが、家々の台所には、「ハエ取りリボン」なるものがありました。
 天井から、接着剤のついたリボンを垂らして、そこにハエや蚊がくっついてしまうと言う原始的なアイデアのものです。

 これ、最近ではほとんど見なくなりました。
 その流れを汲むのが、かの有名な「ゴキブリホイホイ」でしょう。
 この製品、なかなかの優れものということで、今、アジア各国で人気の品だと聞いたことがあります。

 風情のある害虫退治も、我が国にはあります。

 それが「蚊遣器」というやつです。
 今、我が家で使っているのは「蚊遣豚」というべきものです。
 陶器で作られ、豚ちゃんの姿をしています。その中で蚊取線香を炊くのです。
 今はどの家庭でも見ることがなくなった「蚊帳」なども、夏の風情を醸し出すには絶好の道具でした。

 ところで、虫は、害を及ぼすものばかりではありません。

 明治23年と言いますから、1890年のことです。
 4月に来日、その夏8月に、松江に英語教師として赴任した「ヘルン」というギリシャ系アメリカ人がいました。

 彼は学校から与えられた家に戻ってきたとき、部屋中に、ありとあらゆる虫が入りこんでいてびっくりします。
 部屋に虫が入って、その虫がくつろいでいるなんて、アメリカでは考えられないことでした。
 そんな「ヘルン」さんが、次第に虫にほだされていくのです。

 『いつも日が暮れると、この微小の魂は目をさます。
  すると、部屋じゅう、名状しがたい妙なる美しい音楽――この上ない小さな電鈴のような、かすかに鳴 
  りひびく音でいっぱいになる。』

 『草ひばり』という彼の綴った一文です。
 草ひばりというのは、コオロギの一種です。
 コオロギは、卵のまま越冬して、翌年の夏、成虫となり、子孫を残すため、つがいの相手を求めて、オスが鈴のような美しい声で鳴くのです。

 秋の夜長に、虫の音に耳をかたむける風情に感じ入るのが、私たち日本人なのです。

 「ヘルン」さんは、虫類を真に愛する人種は、日本人と古代ギリシャ人だけであるとも綴っていますから、きっと、古代ギリシャ人にも、この風情が通じるなんらかの感情があるのかもしれません。

 『草ひばり』を読んでいくと、虫を愛でる人間の切なさを感じ取ることができます。

 「ヘルン」さんは、この小さなコオロギが、メスを得たら鳴くのやめると聞かされ、カゴに入れたまま、つがいを与えず、その「鳴き」を楽しむのです。
 「ヘルン」さんのコオロギは、晩夏から秋、そして、11月の初冬まで鳴き続けました。

 しかし、餌を与えることを怠ったため、このコオロギは自らの足を食べて、命をつなぎ、そして、死ぬのです。

 『小さな籠にいる微小な魂と、わたしの内なる微小な魂とが、実在の広大な深淵にあって永遠に同一のものであると……』

 「ヘルン」さんのこの一文から、遠く、あまりに遠く、異国の地日本、さらにその奥地にある松江にあって、彼はきっと自分はなぜこのようなところで生きているのかと考えたはずに違いないのです。

 ……この世の片隅で、篤実で、謙虚で、慎み深く生きるもの……

 それをコオロギに重ね合わせていたのに違いないのです。

 『歌うために、自分の心まで食らわねばならない、人の形をしたこおろぎさえいるのである。』
 
 この一文の末尾にあるこの文言には、「ヘルン」さんの心の一端が如実に表現されているような気がするのです。

 「ヘルン」さんとは、ラフカディオ・ハーンのことです。翌年、小泉せつさんと結婚、小泉八雲を名乗ります。

 さて、ソフトクリームも食べ終えた。
 コンビニの美味しいアイスコーヒーを飲みながら、そして、コーヒーの中にある氷を口の中でもてあそびながら、帰るとしますか……。


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釣仙人

sunaasobisa
夢中になって遊んでいる子供達、一体、何を考えているのでしょうか。大人は、子供は無心だと言いますが、私はそう思いません。未来のこと、自分のことを思っているはずです。根拠は、あります。私自身がそうだったからです。松本清張ばりの強引な根拠でした。


 どの分野にも、秀でた技を持ち、神がかった行動をする人がいるものです。
 その超越した技は、端から見ると、まるで、仙人が行っているようなもの、なのです。
  そんな「仙人」に出会ったのは……。


 釣り場は、鹿島の釣り公園です。
 
 公園と名のついていることからもわかるように、この夏休み、親子連れや老父婦がたわいもない釣りに興じる姿を幾度となく目にしました。
 しかし、この釣り公園、並々ならぬ釣り師たちも来ているのです。

 その日、私は、クロダイをターゲットにウキ釣りに興じていました。
 それは、前回来た時に、隣に座したある親父さんから教わった釣りを真似たものでした。

 「隣、入っていいかい。」

 釣り場での挨拶です。
 この挨拶もなしに、竿を出す釣り人が、最近は多くなりましたが、釣り場でもどこでも、最低限のマナーがあって、楽しく釣りができます。

 「エビもいいけど、高いからな。
  俺みたいなジジイは、練り餌さで安く仕上げるんだよ。」
 と、この親父さん、私の釣り姿を見ながら、声をかけてきました。

 さらには、こちらが聞いてもいないのに、いろいろなことをしゃべります。
 早く、釣りの支度をして、始めればいいのにと思いつつも、愛想笑いを浮かべて、対応している自分がいます。

 年齢は七十を超えたこと、鹿島の住金で働いていたこと、ウエイトリフテイングをやっていたこと、奥さんと二人暮らしということ。

 しまいには、私のところに来て、腕まくりをして、その腕を触れと言います。見事な筋肉だというのが、その腕の硬さからわかります。

 釣り場に座った親父さんは、ゆっくりと竿を出します。第1投でメジナが2匹もかかってきました。
 その手わざに、少々、唖然としてしまいます。

 「今日は、調子がいいや、型は小さいが、メジナが今日の本命。よしよし。」
 と、大きな声で独り言を言います。

 そして、私の釣りを見ながら、もっと撒き餌をしろと促します。
 潮が上がってきているから、魚をおびき寄せるんだというのです。

 その言い草に、なんのことはない、撒き餌を持ってきていない爺さんがこちらの撒き餌で魚を釣ろうという魂胆に違いないと少々不愉快に感じたくらいでした。
 
 しかし、その言葉通り、私のウキがスーッと海中に引っ張って行かれたのです。

 そら、来たと、その親父さんが声をあげます。自分のウキより他人のウキを見ていたのかと思えるくらいの喜びようです。

 タモはいらない、浮かせて、さっとあげればいいと、こちらの行動を予測し、先手を打って、横柄に言います。
 私は、柔らかい磯竿の穂先を、空中に勢いよく持ち上げて、堤防にクロダイをあげました。

 ちょっとした興奮を抑えて、その親父さんの方を見ると、なんということもない風で、自分ではメジナを手際よく釣り上げています。

 「小さいメジナだけど、これを開いて、一夜干しにするんだ。食べきれないものは冷凍して、ゆっくりと食べる。これがおいしんだ。家内なんて、メジナほど美味しい魚はないと言っているよ。」
 と、こちらの視線を感じ取ったのかどうかわかりませんが言うのです。

 その針先につけているのはなんですかと、私は小気味好く釣り上げるその親父さんの姿を見て尋ねました。
 冷凍のアミエビを解凍して、それに、ぬか、パン粉。
 それを、ほれ、さわってみなと、私に差し出しました。

 それは、小さい柔らかい団子でした。

 「これがゆっくりと溶けて、コマセの役目をする。メジナはそれにつられて、やってきて、針をくわえる。そこをいただきというわけだ。」
 と、自慢げに言います。

 かつて、鹿島の東電の排水口の橋の上から、大きめのウキを流して、大きなメジナを釣った話を私はしました。

 「ああ、あれね。
  あれはね。俺が始めたの。
  最初は、橋の上から釣ったら、周りの釣り師たちに笑われると思ったけど、構うこっちゃない、釣れた  
  方が勝ちよという気持ちでやったの。
  それから、たくさんの人があそこで釣りを始めたの。」

 そう言うのです。

 そして、不思議な縁を感じながら、その人から、練り餌の作り方を教わって、この日はその釣りを実践しに来たというわけです。

 しかし、針に付けるには、どうも硬さが安定しません。
 ボロボロとこぼれてしまったり、海に入れるや針の周りから餌が無くなっていくのがよくわかります。
 おまけに、手がベトベトです。
 
 いや、だめだな。
 まるきし、釣りにならない。

 何度やっても、針に、自家製の練り餌がつかないのです。
 おまけに、風にあおられて、糸が絡んでしまいます。
 せっかく、クルマを駆って来たけれど、すっかり釣りをする気合を失ってしまいました。

 それにしても、前回、隣に座した釣り師は、一体何者なんだ。

 ひょっとしたら、あの人こそ「釣り仙人」だったのかしらと、私は思ったのです。
 この日、いくつもある大きな風力発電のプロペラが、ブンブンと音を立てて回っていました。


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なんで、こうなのだろう。

nonohana27
初夏、クモの活動が活発になります。クモは仏の使いと聞いたことがありますが、その形相は凄まじいものがあります。クモの巣も厄介です。なぜ、仏様の使いなのだろうかといつも考えてしまうのです。


 一旦は丁寧にしまいこんだ釣具ですが、ひょんなことからそれを引っ張り出しました。
 ロッドにリールをつけ、糸を通します。ロッドを軽く振ってみます。見事なしなりです。ガレージの棚に埃をかぶったままの小物ケースも引っ張り出します。おもりも、仕掛けも、高価なハリスも健在です。しかし、それにしても、こんなに多くの仕掛けを買って、使ってもいないなんて、随分と贅沢な遊びをしていたと我ながら呆れ返ります。

 夢中になって小物を整理していると、時間の過ぎるのを忘れてしまいます。
 お昼を食べてから始めた作業はもう夕刻になっていました。

 そうだ、釣りに行こう、と西日が差し込むガレージで、思いました。

 一旦思い込んだら、居てもたってもいられません。
 iPhoneで明日の天気予報を見てみます。
 雨はなし、気温はさほど暑くない。気になるのは風です。少し風力があるようです。数値は4です。東京湾で釣りをするには大して影響のない強さです。でも、今回は船には乗りません。私が整えたのは陸っぱりの道具です。

 さて、鹿島か、磯崎か、はたまた、大洗か。
 釣りをするには万全の天候とは言えませんが、止むに止まれず、明日、行くことを決めました。

 おにぎりを持って、ぶどうを持って、気持ちはピクニック気分です。
 霞ヶ浦大橋を越えるあたりで、車窓から見える樹木が風に吹かれている様が見えるようになりました。
 一抹の不安が心をよぎりしました。

 海の天気は、予報と違って、急激に変化するのです。
 この風は、釣り場の状況が決してよくないことを暗示しています。でも、おにぎりを持って出かけてしまったのです。行くしかありません。
 鹿島の工場群が、アントラーズのホームグラウンドを過ぎるあたりから見え出します。そこの煙突から上がるけむりは、真横になびいているではないですか。
 ああ!としか言いようがありません。

 今日は平日、港で釣りをするのは気が引けます。
 なぜなら、働いている人たちがきっといるからです。その人たちを横目にして悠長に釣りなどできません。ですから、今日は県営の釣り公園に行く算段をしていたのです。あそこなら、きっと風は吹いていないなどと非科学的な推測をして、車はその釣り公園に到着しました。

 先着の車が2台駐車しています。よし、やれるぞと思うものの、周辺に停泊している漁船のロープがブンブンと風で揺れています。嫌な予感がしてきました。
 車を降りると、事務所のガラス窓の向こうで、女性が両手を上に上げて、ばつ印を作っています。
 それでも、私は事務所に、向かっていきます。
 一縷の望みを託して……。

 「今日は風がこのようなので閉鎖です。今度来られる時はあらかじめ電話してきてください。無駄足にならなくて済みますから。」

 丁寧に言われました。

 なんでこうなのだろう。
 居てもたってもいられず、浮き足立った軽率な行動が、この結果です。

 風の吹き寄せる港で、漁船がゆらゆらと揺れるのを見ながら、一人、でかいおにぎりを頬張りました。

心ウキウキ、陸っぱりの支度

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門の脇に、毎年咲いてくれるクレマティス。何のせ話もしていないのに律儀に花を咲かせてくれる。最高の花です。


 ひょんなことがきっかけで、ガレージの奥にしまいこんでいた釣具を再び出すことになりました。
 あるはあるは、それも丁寧に梱包して、埃で汚れないようにしまいこんでありました。
 東京湾での沖釣りにはまって、それまでの陸っぱりの釣りをしなくなったので、きっと、それまでの道具に敬意を表してしまいこんだのでしょう。

 本当にひょんなことからなのです。

 もっこりとあの陸っぱりの楽しさが私の中に湧き上がってきてしまったのです。
 沖釣りのように、百戦錬磨の船頭が魚のいるところに連れて行ってくれる釣りと違って、陸っぱりの釣りは、今、どこで、何が釣れているかを調べ、そこへ行く時間も調整しなくてはなりません。そうしないと釣り人がいっぱいで釣りどころではなくなくなるからです。
 
 沖釣りなら、餌も仕掛けも、氷も何もかも、釣りを終えた後の一杯の暖かい味噌汁も用意されていますが、陸っぱりはそうはいきません。仕掛けも作り、必要な道具も揃え、しかも、釣りが成立するかどうかの確約などないのです。つまり、生体反応のない海で数時間を費やすこともあるのです。

 でも、それが実は面白いということも、陸っぱりの魅力なのです。

 釣りをしない人は、なんだ獲物はないのかと笑いますが、海の景色、波の音、潮の匂いを浴びる心は、最高の癒しとなるのです。それが陸っぱりの釣りなのです。
 陸っぱりは、「漁」ではないのです。「釣り」なのです。

 先ほど、ひょんなことと書きましたが、そのひょんなことというのは、ロードバイクで、近くを流れる桜川周辺を走っていた時のこと、「田土部堰」という場所にたまたま行き合い、そこで釣りをする人たちを見かけたことが発端となります。

 鯉を釣っているようにも見えません。ルアーを飛ばしては、かかった魚をリリースしています。外来魚でしょうか。近くに看板がありました。そこには、「遊漁料」を払って釣りをしようと書いてありました。この川では、鮎などの魚の稚魚を放流しているので、漁協に釣りをする許可を求めなくてはならないのです。 
 帰宅してネットで調べると、年間8千円、1日1500円がかかるとありました。

 釣りは自由でなくてはならない。もちろん、そこに暮らす漁師たちの迷惑になることはいけないし、危険な箇所に入ってもいけない。その上で、自由に魚を取り(リリースしない)、持ち帰るというのが釣りだと私は信じているのです。
 もう車も運転できない、そのため、海にもいけないとなれば、遊漁料を払って、近くの川で釣りをしても良いと思いますが、まだ、体に余裕があれば、自由に釣りをしたいと思うのです。

 そんなわけで、心ウキウキと陸っぱりの支度に入った次第です。
プロフィール

nkgwhiro

Author:nkgwhiro
ご訪問
ありがとうございます。

《8/22  Tuesday》

❣️<Puboo!>にて、『神様のおかげ』を発信しました。ぜひ、お読みください。

❣️<Facebook>で、『The silhouette:The person who sits down in a seashore bench
It's covered with a green tree and give the shade of a tree to two people. Many waves are surging over the beach.A vast sea and the sky spread over it.
人影 : 卸下腰到海岸的长凳的人。绿的树木落到身上,将树阴给予二人。向海滨的对面几个也波浪涌来。并且,到那个对面汪洋大海和天空扩展着。』の絵を公開しました。

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