アートの力がもの言う時代に……

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お前に、選択のチャンスをやる、北の世界と、南の世界とどちらがいいか?と、間、髪を容れずに私は南を選ぶ。なぜなら、彩りの少ない世界より、自然も空気も、そこにあるものすべてに彩りがある世界が好きだから……。


 アップルの製品を、例えば、iPadを買って、それが自宅に届けられて驚くのは、その梱包の丁寧さです。
 捨ててしまう確率が高い、あの製品を入れた箱。
 そこにはiPadがぴったりと収まる造作がされています。iPadを取り出したら、きっと、もう二度とそこには入ることのない箱に、こだわりの造作と丁寧な装丁が施されているのです。
 そのため、私などは、その空き箱を捨てることができないでいるくらいなのです。

 ジョブスが、初代iPhoneの裏面を、鏡のように磨き上げる、あのデザインに固執したというのは有名な話です。
 もちろん、あのシンプルな形状のiPhoneが持つ革命的な技術は、世界を変えるに足るアイデアに満ちていましたが、それに匹敵するくらいのデザイン的な美しさも評価すべき出来事であったのです。
 私は、それに加えて、iPhoneを入れる箱にも工夫がなされていることに、ジョブズの作り出す画期的な製品は、確かに価値あるものなのだと納得していたのです。

 日本には、ものを包む文化というのが根付いています。
 小さい頃、テレビで、ルーシーショーとか、アンデイ・ウイリアムズショーというアメリカの番組を見ていました。
 その中で、プレゼントの包み紙を無造作に破って、品物を出すことにちょっとした憧れを持っていました。

 日本では、こういう時、裏に貼ってあるセロテープを丁寧に剥がし、1mmでも包み紙に傷をつけないようにして、プレゼントを開けていたからです。
 包み紙はあくまで包み紙、そんなイメージがアメリカ製品にはあったので、アップルの製品に丁寧な梱包と、製品をこれでもかと大切に扱う造作が施されていることに関心したわけなのです。

 しかし、よくよく考えてみると、日本より欧米の方が、ものを美しく見せる工夫に長けているのではないかと、私は気がつくのです。 

 ありがたいことに、私学の教師として、海外に行く機会が多かったものですから、ロンドンでも、シドニーでも、ボストンでも、バンクーバーでも、私が共通して感動し、そして、気がついたことが、その街の作り、そして、あり方でした。

 美しい植え込み、歩く人にも、自転車にも配慮された道、人の目に楽しく、生活を豊かに便利にする街がそこにはあったのです。

 街というものには、歴史の息吹が、必ずと言っていいほど感じられるものです。
 でも、自然のなすがままであれば、その歴史の揺れ動きの中で、退廃し、妖しげな雰囲気を醸し、あるいは、よそ者にとっては危険この上ない地域ともなりうるのが街なのです。
 
 産業革命時、繁栄を誇った地域も、それが過ぎ去れば廃墟となるのが街が持つ宿命です。
 そんな廃墟を、若い芸術家に安く貸し出すことで、廃墟然とした街は、アートな街に変貌していく、そんな姿をこれら欧米の街で随分と見てきました。

 つまり、自然に任せて街はできるのではなく、街を美しく見せよう、街の近隣に暮らす人がそこへ出かけて行って、楽しめる場所にしようという意図がそこにあったということです。

 日本への観光客が二千万人だとか騒いでいますが、パリを訪れる観光客の数に比べれば、まだまだ少ないというのが現状です。
 何でも、フランスでは「1パーセント政策」というのがあって、建造物を建てる際には、総建築費の1パーセントを美術品購入等にあてなくてはいけないというのです。
 それは、パリに集う芸術家たちを支えるという側面ばかりではなく、街を美しくする根本的なあり方であると思うのです。

 フォルクスワーゲンが、トヨタを抜いて世界トップの地位に就いたとニュースがありましたが、これなども、もしかしたら、燃費とか、安全性とか、耐久性に加えて、車のデザインそのものの魅力もそこにあると、考えないといけないのではないかと他人事ながら思っているのです。

 デザインやセンスの力、つまり、アートの力がものをいう時代なのです。

 思い起こせば、リオ五輪の閉会式の<東京アッピール>は、素晴らしいショーでした。
 テレビで見ていて、TOKYOってかっこいい街だなと、私が思ったくらいですから、そして、その後、海外からのそのショーの賞賛の知らせを耳にして、わが感性もまんざらでもないと少々鼻高々であったことを覚えています。

 きっと、あのショーに関わった人の、とりわけ、若い方々の感性というのは、世界のトップレベルにあるのだと思います。

 教師をしていた時、美大進学希望の生徒に対して、基本を徹底的に叩き込む美大専門予備校の講師と話をしたことがありました。
 彼は、美大の教授とのつてを持ち、デッサンを徹底的にたたきこむのです。
 独創的な感性より、「手のフォルム」をデッサンすることに重きが置かれているのです。
 でも、私は、それは大切なことだけれども、もっと、自由に絵を描ける環境を作らないと、本当のアートが生まれないのではないかとその方と話をしていて、懸念を伝えたことがありました。
 芸術にまで、受験産業が入り込んでしまっては、アップルのような画期的な製品も、ヨーロッパ車のような、何となくいい感じの車も、日本から生まれないのではないかと思ったのです。

 しかし、その懸念はどうやら払拭されたようです。

 なぜなら、自由に、好き勝手に精神を解き放つことができるアート志向、それを今の最先端にいる若者たちは、あのリオのショーでいかんなくその力を示したからです。

 この国から、人の心をホッとさせるアートが出てくることに大いに期待をしているところです。


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根源的な問いかけ

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その方は、アデレイドに暮らしています。オーストラリア陸軍で事務の仕事をし、敬虔なキリスト教徒です。オーストラリア人にしては異色の存在と言っても言い方です。その方が、この焼き物を私に贈ってくれました。素朴だけれど、自然の中で、優しく生きることが大切だという言葉を添えて……。


 新入生が最初に行う校外活動として、上野の美術館と科学博物館への遠足がありました。
 目的は、優れた美術作品を見ること、科学的な興味を引き出すことで、友人を作り、クラスの和をはかり、これからの学校生活が円滑に回るようとりはからうということでした。

 そのため、私は結構な回数、上野の西洋美術館に出向いていたのです。

 生徒たちは、小さなノートを手にしています。
 美術と理科の教師が作成したもので、単に見るだけではなく、注目すべき作品や展示について、必要な項目を書き留めるようにしているのです。

 生徒たちが、夢中になって、作品に近づきすぎると、すかさずその部屋にいる係員が近寄ってきて注意を受けます。
 あらかじめ、その旨を指摘して、注意をしているのですが、子供ですから、つい、夢中になってしまうのです。だからと言って、作品に手をかけたり、乱暴な仕草をするわけではないのですが、係員はそれでも不安なのでしょう。

 この子たちが6ヶ年教育の5年目になると、今度はボストンに行きます。
 ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学への訪問と並んで、必ず行くところが、ボストン美術館です。

 ここでは、見学順序とか、特に禁止されていなければ写真撮影も許されています。
 また、地元の小さい子供たちが、あちこちにしゃがんで、画板に置かれた画用紙に、展示されている著名な絵画を模写しているのです。
 中には、もっと近くで見たいとかなり近寄っている子もいます。しかし、それでも、巡回している係官はそれを微笑ましく見ているだけです。

 上野的な対応がいいのか、ボストン的な対応がいいのかはわかりませんが、同じ学習するにしても、両国の違いが出ていて面白いと感じました。

 その二つの美術館で、私の足を止める箇所があります。
 18世紀から19世紀の束縛感のある体制から解き放たれた画家の感性、つまり、ほとばしる色の使い方や広々とした構図が、私の興味をそそるのです。

 上野の美術館で、一つあげれば、それはコローが描いた「ナポリの浜の思い出」と題された作品です。
 縦に長い画面の両側に樹木が茂り、中央の向こうにナポリの浜を描き、幼児を抱いた女とタンバリンを掲げる女が手を繋ぎ、踊るかのようなシルエットで浜辺に向かっている構図です。
 海を向こうに見た時、人間は、誰しも、そこに期待感、逃避感、爽快感を持つものです。
 それが、非常によく出ていて、私は好きなのです。

 ボストンでは、ターナーの「奴隷船」の前にしばし佇まずにいられませんでした。
 イギリス人のターナーは、空気を描いた画家と言われます。
 黒い波間に奴隷船が翻弄されています。しかし、奴隷船はこの絵の中心ではありません。
 中心にあるのは、画面の中央にある白い光で、それが紅と白に分けられた空と黒い波間に差し込んでいるという構図です。
 その大自然を翻弄されながらも、叡智を尽くして完成した船は突き進んで行くのですが、その船の中には理不尽にも人が人に行う非道な振る舞いがなされているのです。
 非道な振る舞いに加担する事実とそれを非難する同国人の存在が、私がこの絵に心を動かした原因でもあると思います。

 もう一つ、ボストンで見た絵に私は心を動かしました。

 とても大きな、横長の絵です。
 絵の左上に、小さく、次のような文字が書かれています。

 「D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」

 フランス語には疎い私ですが、私には事前の知識がありました。
 「我々はどこから来たのか?  我々は何者か?  我々はどこへ行くのか?」
 ゴーギャンがなくなる一年前に描いた作品です。
 
 画面の右に、仰向けに寝転がる赤ん坊と若い男女が描かれています。
 中央には、空に向かって、両手を掲げる青年が、そして、左には、やつれた老婆と一羽の白い鳥それを見つめる若い女が描かれている、あの著名な名画です。

 つまり、この絵は絵巻物と同じように、一枚の絵に時の流れと空間の移動が描かれているということになります。

 私が、立ち止まり、心に留めたこの三つの作品には、絵という芸術は一体なんのかという根源的な問いを発しているように思えるのです。
 それぞれに劇的な場面を描き、しかし、情緒一辺倒ではなく、そこに、時代を反映し、告発し、内心を吐露する画家の冷静な視点があることを認めるのです。
 それが私の心を揺さぶるのです。

 私は、この画家たちが、キャンバスに筆を下ろす前、じっと思念する様子をうかがうことができるのです。
 時に、直立不動で、時に頭を抱え、また、沈思黙考して、対象を凝視しているのです。
 それが見て取れるから、完成した作品を見つめることができるのだと思っているのです。


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ロンドン画壇にデビュ⁉︎

bosusafsamda
サングラスをかけて、ギャングのボスらしい風体。しかし、食べているのはバナナ。そんな滑稽な「写真」なんです。


 たいそう大げさな表題になってしまいましたが、ネット社会が構築されることで、芸術の分野も随分と様変わりをしてきたと思っているのです。

 その主要な特徴が、「権威」に依らずに作品を公開できることです。

 「芸術」は、師に弟子入りし、長い間の下働き、時には、高額なお金を払って、修行します。
 そして、師匠から、作品を発表する場を与えられ、独り立ちしていくという過程を踏んでいくことが、長い間、主流でありました。

 落語にしても、茶道にしろ、舞踊にしろ、絵画にせよ、そうした傾向が今もなお継続している事例は多々あります。

 それは良くないことだから、廃止したほうがいいと極論を述べるつもりはまったくありません。
 なぜなら、師と弟子入りを許された、言葉を変えれば、才能を見込まれた有能な人が、「伝統」ある芸術(芸能)を、「正当」な形で渡し、そして、受け継いでいくからです。

 20世紀、アメリカが世界にのしてくる頃、アメリカは政治や経済ばかりではなく、芸術面でも、それまでのヨーロッパとは違った、まったく新しい観点から、芸術活動を捉え、新しい才能を世に送り出す土壌を作り上げてきました。
 それは、「伝統」ではなく(新しい国である、アメリカにはそれがありません)、個人による「創造的革新」であったのです。

 そうした土壌に新鮮さを見出し、ヨーロッパからもアジアからも、新しい風を求めて多くの若者がアメリカに渡り、活動を開始したのです。

 そして、今、ネットという媒体が、そのアメリカに代わり、新しい芸術活動を支えているのです。

 私は、絵を描くことが好きです。
 それも、風景や人物を写し取る絵が好きなのです。
 何を描いているのかわからないような抽象画では、私の頭は混乱をきたしてしまうから、受け付けません。
 ある程度、具象化され、その上で抽象的概念が施されていれば受け入れてくれるので、そうした作品を描くときもあります。

 実は、私、教師はしてはいましたが、けったいなことに、先生について学ぶことが好きではないのです。
 それは決して、自分に才能が満ち溢れていると自慢しているわけではないのです。
 自分で、自分のやりたいようにすることに重きを置きたいだけなのです。

 以前、テレビで絵画教室と銘打つ番組がありました。
 「あなたにも簡単に上手い絵が描けます」というような番組で、アメリカで製作されたものです。
 先生は、ヘラや指先で、絵の具を扱い、見事にロッキーマウンテンとそこにはえている樹木を、「それらしく」、上手く描いていくのですが、残念なことに「感動」が湧いてこないのです。

 上手いだけで、心がないと言った方がいいと思います。
 それより、孫がビラの裏に描いた絵の方がずっと感動します。

 フェイスブック(FB)で、私は週に一回、自分の描いた絵を発信しています。

 透明水彩絵の具を使って、キャンバスに絵も描きますが、FBに出す絵は、「Paper」「Art Studio」という二つのソフトを使って、iPadに描き、それを発信しています。

 そのFBつながりで、知り合いになった方に、ロンドン在住のLeonardo Jimenezという方がおります。

 彼は、絵画に短い文章を伴わせて、週末になるといくつもの作品を公開してきます。そして、その作品に多くのアクセスが集まるのです。
 私も、絵の主題を補うために簡単な英文を添えていましたから、レオナルドが私の作品に興味を持ってくれたのだと思います。
 
 しかし、私が公開する絵といえば、友人知人たちが憐れみを持ってアクセスしてくれるだけですから、随分と羨ましい思いをしていたところです。

 その彼から、メールが来て、ロンドンにある「Purity In Art」という「Secret Group」に入れとお誘いがあったのです。

 シークレット……、秘密組織……、と私の警戒心がマックスに達しました。

 レオナルドとは、きっと、ダ・ヴィンチを模したペンネームに違いない。私を騙して、「大金?」を奪うに違ういないとか、良からぬ妄想が心に迫ってくるのです。
 
 しかし、芸術を通して知り合ったのだから、彼を信頼するしかないと、そのグループに加わりたい旨のメールを送りましたところ、いとも簡単に、早速作品を遅れと来たのです。
 そして、送ったのが、本日の冒頭を飾る「写真」(ネットでは「Picture」とは言わずに「Photo」というようです)なのです。

 この絵に対して、レオナルドを始め、19名がアクセスをしてくれ、別の絵画グループが、この私にそのグループへの参加を要請して来たのです。

 これって、私がロンドンの「ネット画壇」にデビューしたことかなと訝りながらも、近々、第二作を送り出そうと目論んでいるのです。

 このグループの「写真」を見ていて気がつくことがあります。

 日本では、指先が描けること、手のひらを描けることで、その画家の実力を判断するというような側面がありますが、そんなことはどうでもいい、絵というのは見て、心を動かすことができるか否かだという気持ちが如実に出ていることなのです。

 それに対して、グループのメンバーが、好意的に、しかも、前向きなコメントをつけていくのです。もちろん、感動がなければ、そこにはアクセスがありませんから、決して、仲間内で、「なぁーなぁー」にしているわけでもないのです。

 描く方も、見る方もそこに厳粛な「リスペクト」があると言うことです。
 
 ロンドンネット画壇に自分の「写真」を発表しつつ、いつの日か、ロンドンのネット画廊で個展でも開きたいと密かに目論んでいるのです。


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人間すべからくART

akirakanadahu
キャベツ畑の向こうに青い山並みが見えます。天気のいい日に、こうして山を見ると、この地を選んでよかったなと思うのです。この日の筑波のお山は、ことの外、青く輝いていました。


 一個性が、何らかの美を生みだし、それを圧倒的に多くの人々が鑑賞し、愛でるという構図は、決して間違ったことではありません。

 美術館に行って、思うことはそのことです。

 ですから、チケットを持っていても、3時間並ばなくては美術館に入れないという事態が発生するのです。今年、若冲展で私が遭遇した驚愕の事態です。

 そして、思うのです。

 確かに、一個性が発する強烈な美、時代が遺した犯しがたい美は、人類を代表する美であるに違いないと。しかし、本来の美とは、自らが「美」なるものを体現する、あるいは、自らの上で表現してこそ、美しいものではないのかと。

 何を理屈をこね回しているのか、もっと、はっきりともの申せという声が聞こえてきます。

 秋の夕暮れ、西の空が見せるあの荘厳な輝き。
 蝶の羽の、幾何学的な模様と太陽の光が透けることによって起こされる色彩の微妙な変化。
 浜辺で拾った巻き貝の、波にあらわれ、中の構造が丸出しになり、見せる螺旋の美しさ。

 これらは、一個人が作ったものでもないし、時代が作ったものでないのです。
 自然が、意図なく、ありのままの姿をさらけ出しているだけなのです。

 まだ、あります。

 子供の無邪気な表情。
  何の意図もなく、何の欲もなく、純粋に物事を見つめる表情にハッとさせられるのです。
 老人の達観した表情。
  見るべきほどのことは見つ、という覚悟が伝わってくるあの表情に、我もかくありたいと思うのです。
 
 自然が持っている美しさについては、科学の進歩とともに、数学的に解明されてきました。
 例えば、先ほどの巻き貝の螺旋の形と、宇宙にある銀河の螺旋、あるいは、台風の形、そして、花弁が密集する花の形です。
 黄金比とか、フィボナッチ数列とか、理論で説明されますが、私たち人間も自然の中の一員として、その形を内部に持つことを知らされるのです。
 それが、人間を存在させている根源としての形としてのDNAです。

 自然を作ったのは「神」であるとは言いません。
 しかし、何か偉大なるものがそこに介在し、あの夕暮れを描き、対称的な模様と陽光を受けてのきらびやかさを演出し、恐るべき、そして、得体の知れない自然の中に共通する形を創り出したとしか思えないのです。

 人間には、表情があります。
  欲望をたぎらせ、脂ぎった表情。
  失望の中で、虚ろな目を中空にやる表情。
  怒りや、悦楽、喜びや、悲しみで見せる諸々の表情です。

 生きているから、人間が見せる表情です。
 それゆえ、人間も自然の一部なのだと気がつくのです。

 ART、芸術という意味のこの言葉の語源は、いうまでもなく、ラテン語からきています。
 原義は、「術」、つまり、何かを手でいじくりまわし、創り上げることを意味します。

 人間は、石器を作り、土器を作り、青銅器を作り、鉄器を作りました。
 やがて、産業革命が起こし、今までにない力を獲得し、飛躍的な技術革新を果たしました。 
 今、微小な機器を寄せ集め、手のひらですべてが賄える機器も作り出しました。

 これらの人が作ったものを「Artifact(=人工物)」と言います。

 時に、生活に役立つものばかりではなく、人は黒曜石の断面に美を見出し、土器に縄目をつけて、青銅器や鉄器に模様を刻み込みました。
 大きな力を発する機械にも、手のひらに乗る機械にも、デザインで形を与えました。

 それこそが、人間が常に「美」とともにあった事実なのです。

 そう、人間は誰しも、ARTと直結しているのだということです。
 ですから、それに、いち早く気がつくことです。

 そうすることで、絵を描くこともできるし、詩を書くこともできるのです。
 あるいは、家具を作り、庭を作ることもできるのです。

 自らの手で、何かをなすこと、それこそが「ART=芸術」であると私は思うのです。


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南十字星の星の下から

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娘の家の前にある、なんともオーストラリアらしい通りです。



 イースター休暇が始まったオーストラリアのゴールドコーストに今います。

 およそ1年ぶりの再訪です。
 サーフィンをやるとうわけではありません。サンクチュアリーでカンガルーやコアラを愛でる旅でもありません。
 この地で暮らす娘と孫を訪ねる滞在です。

 この歳になると、孫と一緒にいるのが一番癒されます。
  純粋無垢な姿と、どこか自分に似た面影が癒される一因だと思います。
 
 南半球のオーストラリアは、夏から秋に向かう季節の境目にあたります。
 街の人々はランニングシャツに半ズボン、そして、ビーチサンダルか何も履かずにはだしで街を歩いています。
 自由で、いいです。

 今日から来週の月曜日までがイースター休暇ということで、街中がほんわかとしています。
 イースター休暇で8割がたの店が休業しています。
 ここでは働く人も休暇を取る権利が保障されているのです。

 オープンしている店は幾分割高で客に対応しています。
 ゴールドコースト国際空港について、近くのカフェで朝食をとりましたが、ポーチドエッグとコーヒーで1人1800円近くも取られました。
 娘によると、休日にオープンする店で働く人は、普段の倍の給料をもらうそうです。この地には、ブラック企業はないようです。

 今日からしばらく、つくばの街を離れて、ロビーナの街を歩きながらいろいろなことを考えたいと思っています。

 白い鸚鵡の集団が今、奇妙奇天烈な鳴き声をあげながら屋根の上を飛んで行きました。
 人の笑い声に似た鳴き声で有名なクッカバルが道筋のゆうかりの木にいるようです。これも奇妙な声で鳴いています。

 土地柄が変われば、鳥も樹木も、その地域にあった雰囲気を醸し出します。
 この幸せが満ちる国柄、誰もが自由を謳歌する国柄、幾多の民族がお互いを理解しようと努力する国柄が満ちる土地で、どんな思いに巡らすのか、楽しみなことです。
プロフィール

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Author:nkgwhiro
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