私学よ、東大を目指せ!

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初めてサングラスを与えられた子供たち、ちょっと大人になったみたいに、眼に映る世界のまた違った様子に、その三者三様を描いたものです。


 ある大手の百貨店の社長さんが業績不振の責任をとって退くことになったというニュースがありました。
 つくばの街にあった唯一の百貨店もついこの間店を閉じたばかりなので、百貨店業界が厳しい状況下にあるということがよくわかります。

 では、消費は下降気味なのかというと、駅の中や駅に隣接する店などは、ことごとく繁盛して利益を上げているというのです。
 つまり、客が欲する品物を置いてあるのか、ちょっと空いた時間で買い物ができるのか、そして、安くて良い品物があるのか。
 どうやら、そこに成否を分ける秘密がありそうです。

 駅の中や駅に隣接する店では、売り上げが悪いと出店契約を切られるといいます。
 つまり、客がその店を求めていないという結論にいたるのです。
 ですから、客のニーズに応えるために相応の努力がないとここでは生き残れないのです。

 しかし、名を重んじる百貨店業界では、昔からの業者との関係を大切にし、良い品物、しかし、幾分値もはる品物、そして、固定化した裕福な客層だけを相手にしすぎた結果、業績を上げることができなかったというのです。

 この考えはよく分かります。
 まったく、その通りだと思いもします。
 ネットで、ものが買える時代というのは、自宅に居ながらにして、品物を多角的に判断できることが可能な時代です。キーボードを押せば、翌日には品物が届くのです。実際使ってみて、気に入らなければ、返却も可能なのです。

 そんな時代に、旧態依然とした「あきない」が立ち行くはずがありません。

 実は、それは学校も同じなのです。
 学校は生徒がいなければ、成り立ちません。
 公立なら、生徒がいなくなれば廃校、近隣の学校と統合し、教師たちも移動すれば済むことですが、私学はそうはいきません。
 死に物狂いで生徒を集めなければなりません。
 そうでないと、職を失うことになります。あるいは、惨めな思いで教育活動に従事することになります。

 教育の現場では、生徒の活気があって、初めて、成果を上げうることができるのです。

 少人数クラスとか、一人ひとりに目が届く教育とか素晴らしい言葉が羅列されますが、生徒を伸ばし、社会で活躍する人材を育てる教育現場というのは、熾烈な競争と大多数の中で頭一つとびだすことができる環境が必要なのです。
 それをしてきたのが、これまでの私学のあり方でした。

 私学は生き残るために、東大に、あるいは、京大に何人の合格者を出すかを競ってきました。
そのために、成績を上げるための工夫をし、時には、かなりせこい手を使ってでも、その数字を求めてきたのです。

 今月も10日に東大の合格発表がありました。
 伸ばした学校、落ち込んだ学校、安定感のある学校と、各校それぞれに喜怒哀楽を見せたことと思います。

 東大に生徒を入れることに執着するなんて教育現場のやることではないという意見があります。
 でも、日本の最高峰の、しかも、国の支援が殊の外厚い東京大学に生徒を送り込む教育というのは、決して間違いではないのです。
 生徒にとって、この条件は素晴らしいことなのですから、そこを目指して勉強することはきっと人生において実りをもたらすことにつながるのです。
 
 教師には、教え子を東大に送り込むために、まず、情熱がなければいけません。
 自分が東大に行くくらいの情熱です。
 学校も、生徒を東大に送ることを全面に押し出していかなくてはなりません。
 自分の好きな大学に行きなさいとか、グローバリズムの中で海外の大学にという安易なものでは、その学校は少子化の日本の中で生き残ることはできないのです。

 東大を目指し、その結果、早慶、あるいは、海外大学というのでなくてはならないのです。

 小売業界が旧態依然としたあり方で衰退していったのと同じように、私学も、生徒が数多いた時代の、栄光の歴史におんぶに抱っこでは消えて無くなることは目に見えているのです。

 私学が最上位のレベルで生き残るためには、青年の持つ意欲を信頼することにつきます。
 彼らは、青年特有の自尊心を強く持ち、自らの可能性を愚かなくらいに信じているのです。

 甲子園を目指さない野球部に優れた部員が集まらないのは自明の理です。
 同じように、東大を目指す学校に、強い自尊心と可能性を信じる心を持つ生徒が集まることは、火を見るよりも明らかなことです。

 生徒集めに汲々として、いじめのない学校とか綺麗事を並べて、授業もままならない学校になっている私学の多いことを憂慮しています。
 少子化の中で、学校ヒエラルキーの中で、自尊心と可能性を持つ生徒の入学を機するには、私学が構造改革をしなくてはならないと、東大の合格者一覧を見て考えるのです。


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鳥類も少子化?

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日曜日、ロードバイクに乗って、小貝川方面下妻あたりまで走りました。その途次、街外れの祠に極彩色のお像を見つけました。珍しいなと思い、立ち止まってあたりをキョロキョロ。特に謂れとかは書いてありませんでしたが、お花が綺麗に飾ってありました。どうやら、ご近所の方に大切にされているようです。



 新聞にざっと目を通して、デスクに着く頃ーー。
 これまでの明けやらぬ東の空が、今はしらじらとあけていて、その趣を移ろわせてきました。
 季節の移り変わりを肌身で感じることのできる、これは最高の幸せだと思いながら、早朝の仕事に入ります。

 程なく、Macに向かう私の背後の、出窓の向こうからリズミカルな音が聞こえてきます。
 きっと、スズメに違いありません。
 時には、出窓の上に張られているトタン板の上を跳ねているのでしょう、その音が忙しく聞こえてきます。

 つくばに暮らしていると、鳥類に接する機会が多くなります。

 春のある日、散歩の途次、畑の上空で、ピーチクパーチクとさえずりながら、旋回しているのはきっとひばりに違いありません。
 私は、眩しい上空を見上げて、ひばりを探します。
 一羽の小鳥が確かに上空高く頼りげなく飛び回り、盛んにさえずっています。
 私には、賑やかに、楽しげに聞こえるこのさえずりも万葉の人にはそうでもなかったようです。

 <うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば>

 大伴家持が天平勝宝年間に詠んだ歌です。
 人の世はいつも切ない、しかし、ひばりはそれに知らんぷり、我が世の春と謳歌する、人事と自然、いつの世も、人にはそんな思いがつきまとっていたのです。

 もう少し、暖かくなると、出窓の向こうの電線の上にあって、「デポッポポーデー」と繰り返し鳴き、そして、最後に「ホッ」とため息をつく鳥が現れます。
 キジバトです。

 何年か前、庭の木の枝を刈っていた時、枝振りの中に小さな鳥の巣を見つけました。
 そこには小さな卵がありました。
 ふとあたりを見渡すと道端の電線の上に二羽のキジバトがじっとこちらを見ています。
 私は、その木を刈ることをやめました。

 そうして、数日後、そっと、あの巣のあった場所を見てみると、一羽のキジバトが目を閉じて、卵を温めていました。
 そして、いくぶん暑さを感じるようになった日の午後遅く、三羽のキジバトが電線の上にあって、伸びきった枝を刈る私を見ていたのです。
 
 ある人が言っていました。
 鳥のさえずりというのは、ほとんどがメジャーな音階であるが、キジバトだけはマイナーな音階で泣くと。
 でも、その時の私には、決して、それが悲しげな鳴き声とは思えなかったのです。

 春のきざしが感じられる今、盛んに家の周りにやってくるのは白鶺鴒です。
 人懐っこく、鳥には珍しく、向こうから走るようにして、こちらに寄ってきます。それも、尾っぽを上下に振って、ちょこんと跳ねながら、そして、プイッとよそ見をして離れていくのです。

 <我が門にいなおほせ鳥の鳴くなへに今朝吹く風に雁はきにけり>

 これは古今集に載っているもので、「いなおほせ」、漢字で書くと、「稲負鳥」で、これがセキレイであるとされています。
 昔も今も、玄関口に来ては、人の心を和ませていたようです。

 実は、もう一種、我が家の周りには貴重な鳥が暮らしているのです。
 10年ほど前、近くにある大学の構内でその姿を見かけましたが、今は、私の散歩道である裏道でも、複数のつがいを見ることができます。
 首をちょこっと前にして、二本の足が目にも止まらぬ速さで動きます。
 その姿は、まるで、それを大きくすれば、恐竜のようだと思えるから不思議です。

 この鳥こそ、日本の国鳥でもある雉です。
 つくばに来て、雉が間近に見られるのだということに驚きましたが、今では、しっかり子孫を繁栄させて、この地に根を下ろしているようです。

 先だって、新聞記事に、都会からカラスやスズメ、それに鳩が大きく減少したというものが載っていました。その一方で、オオタカなどの猛禽類が増えているというのです。
 
 ゴミを漁るカラスへの対策など都会のシステムが作用しカラスが餌をなくしたこと、また、寺社の鳩に参詣者が餌を与えないよう求めたことが大きく影響していると言います。
 それだけならなんということもない記事なのですが、さすがに、新聞記者です、ちゃんと読み応えがあるように記事を作ってくれていました。

 それは、餌の減少に伴い、鳥たちにも「少子化」が起こっているというのです。

 その少子化がカラスやスズメ、それに鳩などの都会をわがものがおで飛び回っていた鳥たちの減少につながっているというのです。
 そんな記事を読むと、人の行動がある種の生物に多大の影響を与えていることにどこかやるせない気持ちになります。

 昔の人は、鳥に託して悲しげな気持ちを詠みましたが、現代人の私たちは、ともすると、自分たちの生活の利便さを追求することで鳥たちを無慈悲に迫害しているのかもしれません。
 そう考えると、現代の私たちの自然に対する感性を高めていくことがますます必要であると痛感するのです。

 お互いに、少子化の問題を抱えているのですから……。


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ありえない話ではないのです

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幼い子供たちが遊ぶレゴには、「教育レゴ」というレゴがあります。コンピューターを取り付けて、センサーを取り付けて、作ったレゴをロボットとして動かすのです。いいおっさんがこんなことをしてと笑ってはいけません。これが次代の学校教育に導入されているのです。子供たちは、小さな部品を組み立てると同時に、コンピューターにロボットを動かす記号を打ち込んで行くのです。英語とプログラミング、これが次代の教育の柱となるのです。



 このところ、日経やNHKで、スコットランドに関する、あるいは、そこを舞台にした記事や番組を見る機会が多くありました。

 私は、まだ、スコットランドには足を伸ばしたことがありませんが、スコテイッシュな町と知られているカナダのビクトリアという街には何度か行ったことがあるのです。
 しかも、カナダでも屈指のホテル、ビクトリアの町の中心にあるエンプレスホテルに宿泊しての訪問でした。

 ホテルからしばらく歩くとショッピングエリアがあります。
 そこへ行くと、当時まだ行っていなかったイギリスを、確かに私は感じていたのです。
 店々のあちこちに、カナダの国旗と同じくらいにユニオンジャックが飾られ、土産物には女王陛下のお姿がプリントされ、スコットランドキルトの本格的な店もありました。
 この町は確かにカナダの町なのかと疑うばかりのありようであったのです。

 また、ショッピングエリアばかりではなく、エンプレスの前の道路の向こうの橋の上には、バクパイプを演奏する男性が、例のスカートをはいて、スコットランドの正装をして演奏していたのです。

 その後、イギリスに出かけるようになり、イギリスという国が複雑な歴史を持っていることを知ることになります。
 グーレトブリテン島の北部に位置するのがスコットランドですが、南部のイングランドはレンガ作りの家、スコットランドは石造りの家、南部は平坦な土地柄で、北部は起伏のある風土とこれも異なるのです。
 言葉や習俗も異なります。
 そして、イングランドがスコットランドを征服し、配下に治めるのです。
 それはウエールズもアイルランドも同様です。
 つまり、イギリスという国は、イングランドが周辺の言葉も習俗も異なる国を征服して生まれた国であるということなのです。

 日本でいうならば、維新の折、幕府に最も忠実であった会津藩を、薩摩藩を中心とする官軍が大軍を組織し、攻め入り、会津を破った話が有名です。
 破れた会津人は、その後、酷寒の地の開拓者として送られ、辛酸を舐めることになります。
 しかし、薩摩憎しという声はさほど聞こえてきません。
 それは、方言の違いはあっても、同じ日本民族として、一緒にまとまろうという気持ちがそこにあるからです。

 でも、イギリスはそうはいきません。
 2014年、スコットランドに独立騒動が起き、住民投票が行われました。
 結果は、独立を否決しましたが、2016年のEU離脱問題では、スコットランドの意に反して、イギリスは離脱を決めました。
 スコットランド政府は、改めて、独立の是非を問う法案を通し、今度の国民投票では独立への道筋が立つのではないかと言われています。

 なんとも複雑な歴史です。

 先ほど、薩摩と会津の話をしましたが、日本だって、歴史の歯車がちょっとした噛み合わせの違いが出てくれば、関東と関西と分かれていたかもしれません。
 言葉だって、交易をするための貨幣でも、江戸と大阪では、金本位と銀本位というように違っていたのですから、天皇陛下を擁する西の日本と、将軍を擁する東の日本があっても不思議ではなかったはずです。

 1945年、日本が太平洋戦争で降伏をした時も、アメリカの力が弱ければ、北海道はロシアに組み込まれていたでしょうし、中国は九州を、イギリスは四国を支配下に入れていたとしても、なんら不思議はありません。
 そうならなかったのは、昭和天皇はもちろん、当時の状況下で、将来の日本を的確に考察し得た政治家がいたからに他なりません。

 ヨーロッパ大陸を見てみますと、多くの言葉、それに伴う民族が入り乱れ、国を作っています。そのため、幾世紀にも渡って、争いが絶えませんでした。
 ヨーロッパの近現代史は、争いの歴史といっても差し支えないくらいです。
 その戦いに明け暮れた大陸が、最も先鋭的に戦い、憎み合ったドイツとフランスの手で和解を成し遂げ、共同体を作り上げたのは、人類が果たした歴史的な快挙として記録されるはずです。

 中国大陸でも、ヨーロッパと同じ状況であったと言っても差し支えありません。
 東北地方の言葉、上海の言葉、広東の言葉、四川の言葉、それぞれ異なります。それは、方言の違いでは済まされない違いがあります。
 ですから、この国も、歴史の歯車がちょっと違ってかみ合わさって入れば、おかしなことになっていたはずです。

 つまり、四川共和国があり、広東人民主共和国があり、上海杭州自由連合共和国があり、東北女真国がありと様々な国の形があったことも考えられるのです。
 今の中国政府には失礼かもしれませんが、その方が、あの国はより正常な形で、そして、より早く豊かになっていたような気もするのです。
 それぞれの民族や言語を共有する人々が、一緒くたにならずに、個性を輝かせて、それでいて、世界に冠たる国々として、尊敬を集めていたのではないかと……。

 しかし、それやこれやは非現実のありない話だと目くじらをたてることはありません。

 あのアメリカでさえ、分断する可能性を示しているのです。
 しかも、飛び地で国が分断されるのです。
 トランプを支持する州がよせあつまるアメリカ共和国とそれに反対するアメリカ民主国です。

 人間はありとあらゆることをやってのける動物です。
 ですから、アメリカでも、中国でも、日本でも、イギリスでも、このことは、まったくありえない話ではないのです。


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大波小波、ぐるりとまわしてニャンコの目

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この奇妙なる機械は、ネギを収穫し、同時に、出荷のために、ネギを一定量束ねる機械なのです。今、一人の青年が、この機会を使って、広い畑になったネギを毎日収穫し、束ねています。束ねるのは自動ではありません。後ろの足場に立って、そこで、運転と収穫し送られてくるネギを自分で束ねるのです。ゆっくりとした作業が繰り返されています。


 つくば西武の紳士服部門から、ハガキが来ました。
 私の採寸データを破棄処分するか、池袋か千葉の西武に移管するかを問うハガキです。
 つくば西武が閉店することに伴っての通知です。

 私は、ニコンのカメラを愛用し、ニッコールクラブ会員でもありました。カメラのキムラにもよく出入りし、スライド用のフイルムを現像してもらったりしていましたが、そのニコンが人員整理をし、キムラも店舗をかなりの数閉鎖するというのです。

 かつてお世話になったものがなくなり、一時的にでも、後退していく様を目の当たりにして、幾分の心の寂しさを感じるのです。

 街全体が蒸されたかのような、その道端の露店で、異国の人々とビールを飲み、食事をしたあのクアラルンプールで暗殺事件があり、南シナ海やクリミアで横暴を働き、それを正当化する国があったり、アメリカがわけのわからない大統領を選んだりと、それらにも驚きを隠せんませんが、それらとは違い、これらは肌身に感じる、寂しさ、そして、不安として、じかに押し寄せてくるのです。

 さらに、冷や水を浴びせかけるような出来事が着々と進められています。
 世の流れとはいえ、働く人たちには気の毒なことこの上ない話です。

 それが、「AIなるもの」の普及です。

 コマツが今年度普及させていくのが、機械にAIを組み込んで、建設現場での効率化を図るといいうサービスです。
 そこには、建設現場での作業員の高齢化と人手不足という背景があります。
 熟練の作業員の「勘」を、AIに組み込んで、雨でも作業が滞らないようにしたり、ダンプの手配や必要な機材の搬入を行うというものです。
 さらには、ドローンを使って、3次元で工事現場を測量し、建機が半自動で工事を行うようにするというのです。
 
 確かに、素晴らしいことには違いないのですが、これは一方で、「人」の必要性を拒否する行為でもあるのです。
 ちょっと先の未来に、上司はAI、同僚もAI、ということが現実味を帯びて、そこにあるのです。しかも、AIは一点の曇りもなく、命令を下し、その実行を迫ってくるのです。
 仕事帰りにちょっと一杯ということもできなくなりますから、街から赤提灯も消えていくことでしょう。
 仕事の効率ばかりではなく、人間の生活のあり方そのものが変わることを、この「AIなるもの」は暗示しているのです。
 
 でも、仕事があるのはまだマシかも知れません。
 AIの進出で、雇用を奪われる人のことを、「デジタル難民」というそうです。
 10年後には、その数は、数千万人になると言われています。

 かつて、パソコンが導入された時の、それができないがために職から除かれた率とは桁が違います。
 ヨーロッパでは、そのため、政府が、国民に最低限の生活が可能なように、ベーシックインカムの制度を考慮しているといいます。
 
 その波は、それがために、もう一つの波を誘発しているのです。

 それが、大衆迎合主義、つまり、ポピュリズムというものです。
 多くの専門家は、その手の政党が、かつてのファシスト政党のように、欧州を席巻することはないと踏んでいるのは一縷の望みではあります。
 その先鞭をつけるアメリカのトランプの政策、と言っても、不確かで、流動性のあるものですが、その政権が声高に述べている雇用も、減税も、インフラ投資も、一時的な効果しかださないことは明らかだともしています。
 つまり、トランプ政権は長持ちはしない、その政策ゆえに、自滅していくというのです。
 
 中国がそうであるように、国内の矛盾の露見をはぐらかすために、日本を悪者にするように、アメリカはメキシコや中国を悪者にして、本質的な問題を隠すだけなのです。
 
 この波は、もしかしたら、AIに誘発された波ではなく、AIを誘引する波なのかも知れません。

 人は、役に立たない。人は、安心できない。
 AIに任せておけば、すべてを効率よく取り計らってくれる。AIは、無謀なことをせず、世界の平和に大きく寄与する。

 その二者択一を迫られた時、世界の指導者は、AIに、「人の未来」を託すというのです。
 だから、人は、最低限の金をもらって、最低限の生活を余儀なくされるのです。

 人類は、この地球に生存して以来、自然を拓き、真理を探求し、豊かさを追求し、今に至りました。
 今、AIが核となる時代を前にして、自分たち「人」とはいかなるものかを考慮しなくてはいけない時期に来ているのです。

 昔、女の子たちが、縄を回して遊んでいました。
 <大波小波、ぐるりとまわしてニャンコの目>と歌いながら……。

 大波小波をかぶれば、縄跳びは終わりです。
 人が生きていくというのは、ゲームではありません。
 だから、大波小波をかぶって、あたふたとしないよう、考えを致さなくてはならないのです。


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視野の狭い愛

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ロンドンのコヴェントガーデン。よく歩いた場所です。ここと大英博物館近くのホテルを行き来するのです。尽きることのない店々、あらゆる人種が集まっている、そんな感じがしました。コヴェントガーデンには小さな屋台があり、所々で大道芸を見ることがきます。この絵にあるのは、金と銀に全身を包んだままピクリともしない男女です。バッキンガムの衛兵同様、微動だにしませんでした。



 親の子に対する愛情というのは、慈愛に満ちて、献身的で、崇高な使命感に支えられていることは確かです。

 先だって、交通事故で、我が子を守り、母親が犠牲になったというニュースがありました。
 きっと、このお母さんは、瞬間的に子供の前に立ち、そして、子を安全な方へとはねのけたのでしょう。
 生半可なことではできないことだと、ニュースを見て思った次第です。

 同時に、残されたご家族の悲しさを思い、車を運転していた青年の悔やんでも悔やみきれない悔悟の念も伝わって来たのです。

 私には、二人の娘がいますが、教師をしていた私は、きっと、あまりいい親ではなかったのではないかと思うときがあります。
 もちろん、娘二人が、ひどい父親だと言っているわけではありませんが、教師と父親とが一緒くたになって、きっと、教師として割合を高くして、娘たちに接していたのではないかと訝る心がそう思わせているのかもしれません。

 教師の愛情が親に匹敵するかといえば、それは違うと言わざるを得ません。

 問題を起こし、許されては、程なくしてまた問題を起こし、退学を宣告された生徒がいます。その生徒の母親は憔悴しきっていました。
 その母親に、教師としての私は、こうなってしまったことを詫びました。
 きちんと指導できれば、この生徒に問題を再発させることはなかったからです。
 しかし、その生徒は教師の話を聞く耳を持ちませんでした。

 母親も、そのことは十二分に理解をしてくれていて、私の言葉に恐縮していました。
 親の言葉さえも心に通じないのにという思いがそこにはにじみ出ていました。
 離婚して、父親がいない分、この母親は父親としても、この生徒に接しなくてはいけなかったのです。子を育てるために、働きに出て、子の将来のために、塾に行かせ、中学から私立に通わせたのです。
 
 私は、教師として、この母親に、次回は学校というクッションがなくなり、警察沙汰ということも考えられますから、お母さんもしっかりと叱ってやらなくてはと最後の面談になる際に言いました。

 すると、叱って、この子が良くなるならこれまでも叱っていますと言うのです。
 
 私はこの子を守りきります、この子がどんなに悪さをしても、世間から後ろ指を指されても、私はこの子を守りたいと思っているのですと言うのです。

 私は、このとき、これが親の子に対する想いであると思ったのです。
 そして、そのお母さんの思いを退学を命じられた生徒のところに行って、話をしました。
 最後の、この生徒との面談です。
 そして、初めて、この生徒は、私の前で涙を流したのです。
 
 私には、自分の娘たちに対して、これだけの親の愛を提示したことがあったかしらと、交通事故で、子を守り、自らの命を投げ打った母親のニュースを見て、そして、自分の子を何としても守りきりたいと語った母親と思い比べて思ったのです。

 教師と親では、愛情の示し方、愛情の捉え方が違うのです。

 しかし、すべての親がこのような愛情を持っているかといえば、そうではないと思うことも確かです。

 笑い話のような話ですが、教師をしていると、妙な親の言い分を見聞きすることが多々あります。
 例えば、弟が公立の学校に通っていて、運動会の日にちが重なっているので、私学として、公立を優先して、日程を変えろとねじ込んできた親がいました。
 あるいは、自分の子供が中心ではないことに腹が立ち、自分の子を中心にした活動を改めて実施せよとすごんできた親もいました。

 これらの親は、自分の子を何としても守りきりたいと言ったあの退学を命ぜられた生徒の母親とどこが違うのかと考えるのです。

 教師は、勉強を教えることと、人としてのあるべき道や礼儀を身を以て教えるのが仕事です。
 だから、時に口やかましくなり、時に怖い存在としてあらねばなりません。
 怖いと言っても、体の大きさや声の大きさで暴力を振るったり、威嚇するのではありません。

 子供たちをちょっと遠くから見守り、まるで、静けさの中で包み込むように訓導していくのです。
 子供たちが、ちらっと教師を見て、その反応からことを進めていいのか、そうでないのかを察知するそうした環境を作り出すことが教師には求められるのです。
 あれこれと一から十まで指示するようでは、立派な子供は育ちません。

 畏敬される大人としての教師の在りようを見て、何をしなくてはいけないかを察知できるあり方こそ社会にでて役立つ勉強なのです。

 子を何としても守りきる母親には、この教師としてのあるべき姿に共通するものがあります。
 しかし、日程を変えよとか、改めてやり直せと言ってくる親には視野の狭い愛情しかなかったのです。

 私の中にある二人の娘に対するあり方は、どうやら後者ではないことだけは確かなように思えました。


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