著作権を行使しきれない名もなき文筆家のささやかな弁

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こんな綿帽子が水の張られた田の畔にたくさんあります。稲はこれから花を咲かせます。まだ、微風にさえ頼りなげに揺れ動く存在です、それに比べ、この綿帽子はいかなる風さえも迎い入れる覚悟を持って屹立しています。たくましい限りです。


 The letter C enclosed within a circleとは、「©️マーク」のことです。

 私が訪問を常としている多くのサイトにも、このマークがついています。
 仮に、ついていなくても、そこにある文章や写真、あるいはデザインに、その方の「著作権」があることを私は承知しています。
 いや、承知する以前に、その個性ある文章や苦労して撮られてきた写真に敬意を払っているのです。ですから、安直にそれを無断で使うことは、私の中では自然とはばかれることなのです。

 そのマークのあるなしに関わらず、人が作って発表したものを安易に使っていいわけがありませんし、文章を書くときも、絵を描くときもその辺を十分に気をつけています。

 中国で、ディズニーそっくりのぬいぐるみがあったり、日本のキティちゃんに瓜二つの人形が出たりして問題になります。あるいは、流行っているものに似せて、似通ったものを作り、訴えられるという事件も耳にします。

 人が知的な財産に対してその権利を主張し、かつ、侵害しないとすることは、現代では極めて大切な案件なのです。

 学校にいるとき、入試問題で作家の文章を用いる際、それが著作権侵害にならないように、著作権協会に毎年、ある一定の額を支払っていました。
 それを払うことで、幾分自由に、世に出ている作品を引用することができたのです。

 今、音楽業界でもそれが問題になって新聞を賑わしています。
 巷間の音楽教室で使う練習曲にも受講料の2.5パーセントの権利を、日本音楽著作権協会が求めているからです。
 日本音楽著作権協会とは、楽曲の使用料徴収を音楽家に代わって代行する社団法人です。
 飲食店や放送局で使われる音楽に対しての著作権料を徴収している団体です。

 音楽教室においても、それが営利目的である以上、徴収するに法的な問題はないようです。
 それに対して、お客に見せ聞かせるのではなく、お手本として練習するのに著作権を払うというのは納得できないと反論しているのです。

 学校にいたとき、漱石先生の文章を使って問題を作り、漱石先生の意向など関係なく、作品をいじくり回して問題を作っていましたが、漱石先生が生きていれば、どうおっしゃったのかと考えることがあります。

 『おいらの小説を、勝手にいじくりまわされるなんぞ、たまったもんじゃござんせん』、というのか、あるいは、『大いにやって御覧なさい、でも、学生さんを選ぶために、おいらの小説を使うなんぞ、あまり褒めたものじゃございませんよ』と、やんわり意見を言うのか、どっちだろうと思っていたのです。

 世の人々の真贋を見極める力が喪失したため、現代では真物に対してその権利を主張するという動きが起こったのではないかと思う時があります。
 もっと、的確にいうならば、真物に似せてものを作る技術が向上してきて、真贋を見極めるのが難しくなり、普通の人には判断がつき難くなったとも言えます。

 名のあるイタリア製のバックよりも、中には、出来のいい贋物もあると言います。
 それがたとえ優れた商品でも、人のデザインを真似て作った以上それは違法というわけです。
 ならば、そのだけの技術を新商品として開発して、さらなる富と名声を得ればと思いますが、そこが人間の浅はかなところです。
 明日の食事より、今日の食事が大切なのです。

 そんなことを考えていると、文章を書く人達というのは、今日の食事を削ってものを書いているともいえます。金にもならないのに、ひたすら書くのですから。
 
 私、時々、著名な現代作家の作品を読んでいて、大変恐縮なことですが、こんな程度の文章をと思うことがあるのです。
 それでも、若き日に努力して、食うものも食わず、理想の自分の姿を夢見て文章を綴ってきた方の文章ですから、敬意を払って読むようにしています。
 つまり、ものの良し悪しというのは、部分的な欠点を補って余りあるその作家の「総体」であるということなのです。
 
 それは、芸術家全般に言えることです。
 自分の思うところを形にする、その崇高な作業に対して、価値を見出すということです。
 よって、そのことのために貧乏をしたり、パトロンにおもねったり、あるいは、自らを賭して作品に対するのです。
 そこに、作品とそれを作り上げた人への賛歌が生まれるのです。

 The letter C enclosed within a circle がなくても、何千年にも渡って、人々が絶賛する作品があります。
 その一つが、縄文土器です。
 毛むくじゃらの、しかし、繊細な指を持ち、芸術的なセンスを持つ一人の縄文人が作り上げた土器は、現代でも賞賛を浴びるほどの価値を持っているのです。

 こんな文章を書いていたら、どこかの大学の学長が著名な歌手の歌った歌詞を引用し、くだんの協会から、許諾を求めよと指摘されたという記事を目にしました。

 こうなってはいささか度がすぎると、思いました。
 権利、権利、権利という前に、もっと本質的な芸術感性、好きに自由に、想像し、創造する原初のあり方に立ち戻るべきなのではないか、と感じた次第であります。

 著作権を行使しきれない名もなき文筆家の、ささやかな弁ではあります。


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奴らにとって、一番の敵は、君たちだ!

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花にも様々な散りざまがあります。溶けてだらしなく姿を晒すもの、桜のように吹雪となって華々しく飛んでいくもの、小さな虫に言いようにされていくもの、その中で、散っても、その色を残して、美なるものをさらけ出す花もあります。


 Macは安心と思いっていましたから、先日、世界的に発生した「ランサムウエア(身代金要求型ウイルス)」のサイバー攻撃では、Macにも危害が及んだという記事を目にして驚きました。
 
 Windowsを使っていた時、最新のウイルス対応ソフトをパソコンに取り込むために、それなりの費用が必要でありました。
 学校でも、使用されているOSはWindowsであったので、それをウイルスから守るための費用は莫大な額になりました。
 学校はともかく私的に使うパソコンは、そういう煩わしさから解放されたいと思い、私は、思い切って、Macに鞍替えしたのです。

 もちろん、費用効果ばかりがそうさせたわけではありません。
 ジョブズの哲学も、デザインも、そして、その希少性が、私がMacを選んだ要因であったのです。
 ともかく、Macにしてから、ウイルス対策に費用をかけることもなく、その後のiPhoneを始めとする革新的な機器を手にするごとに、ますますMacにのめり込んでいったのです。

 フランスの大統領選挙にあたり、アメリカ軍サイバー司令部と国家安全保障局で兼務するロジャー長官が、上院の公聴会で、ロシアの選挙干渉の可能性を示唆し、その旨をフランス当局に注意喚起したと発言しました。
 案の定、マクロン陣営の責任者は、サイバー攻撃を受けて、陣営の電子メールや会計資料が流失したことを表明しました。

 つまり、交信メールや組織の懐事情がネットに出回ることで、何らかの損害を与えるというのがサイバー攻撃の目的だとわかります。
 では、それにより恩恵を受けるのは誰かといえば、対立候補のルペン国民戦線ということになります。
 そして、そのルペンへの経済的支援をしていたのがロシアのプーチンです。
 また、トランプもルペン支持を公言して憚りませんでした。
 そのトランプも、クリントンに勝つために、なんらかのサイバー攻撃でクリントンのメール問題を発覚させ、選挙に多大の影響を与えたといいますから、何ともうまいことに、プーチン・トランプ・ルペンの相関図式が完成するのです。

 しかし、今回はどうやらフランス国民は、アメリカ国民のように偏った情報に惑わされるようなことはなかったようです。

 これら一連のサーバー攻撃に対して、ロシアはあり得ないことと、それを否定しました。
 アメリカも、これぞ動かぬ証拠と叩きつけることをしません。
 サイバー管理が極秘事項にあたり、情報を公開することでその秘匿するものが露見する恐れがあるからなのでしょうか。それとも、相手を決定的に特定する何かが不足しているのでしょうか。
 その辺はよくわかりません。

 Macにまで被害が出た今回の「ランサムウエア」のサイバー攻撃は、実は、「121部隊」が関わっていたと言います。
 どこかで聞いた部隊名であると思いましたら、2月のKL国際空港でのキムジョンナムの暗殺の際に暗躍した北朝鮮の部隊名ではないですか。
 「121部隊」は、偵察活動とそれで得た情報を元に工作を行う部隊であると言います。

 そういえば、キムジョンウン殺害を映画化したソニーへのサイバー攻撃で、ソニーがそれに屈したという一件がありました。
 ついこの間は、経済制裁で立ちいかなくなった北朝鮮経済を救うために、バングラディシュの銀行にハッカー行為を行い、大金を奪いました。
 そのため、北朝鮮はいま、国際銀行間通信協会から脱退を余儀なくされているのです。

 ここにあげたそのいづれも、北朝鮮は否定をしています。
 それは、ロシアがそうするように、そして、中国がそうするようにです。
 アメリカも同じようなことをしていて、それを知らんぷりしているはずです。

 皆が否定しているのですが、しかし、事件は起きているのです。
 これほど怖いものはありません。
 闇から闇へと、何かが起こされているからです。

 科学技術の発達は、私たちの生活を豊かに、便利にしてくれましたが、一方で、それとは真逆のことも行われているのです。

 北朝鮮のロケットが数回打ち上げに失敗したのは、その技術の不備ではなく、アメリカのサイバー攻撃であり、それを克服することで、次の打ち上げではロケットは見事打ち上げ成功という繰り返しをしているというのもまた、そうであればと納得できるのです。

 大統領選挙が敵対勢力のサイバー攻撃で当確を決められるなら、それは恐ろしいことです。
 莫大な国家予算と軍事力を持つ国家であればなおさらです。

 そうした悪辣なサイバー攻撃を防ぐには、一人一人の知性が必要であり、落ち着いた対処ができる技術を持ち、真偽を見極める冷静な判断力しかありません。
 フランスはどうやらそれを成し得たようです。
 アメリカも、早い時期に、それを回復する段取りに入ることを私は期待しているのです。

 そして、北朝鮮やロシア、中国の政府のことをあまりよく言わないSNSの発信者に対するサイバー攻撃がないことを祈るのです。
 なぜなら、彼らが一番の敵と思うのは、知性を持ち、落ち着いた対処をし、真偽を見極める冷静な判断力を持つSNSの発信者、あなただからです。


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ベストセラーを狙うぞ!

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東京ドームの天井です。野球をするときと違って、コンサートでは、このドームの天井も、華やかさを増します。それにしても、ドームを出るとき、弾き飛ばされるようなあの空気の圧力、何度体験してもいいものです。ドームの中は、気圧が異なっていますからね。


 別に職業を持ちながら、小説なり、エッセイを出版して、しかも、売れ行きがいいとなれば、なんとも羨ましい限りな話です。

 いや、誰ぞやの話ということではないのです。
 
 私も、教師をしながら小説を書いていましたが、本になることもなく(自費出版はありますが)、当然、売れるということもなく過ごしてきましたから、そういうことであれば、羨ましいと思っただけなのです。

 コンピューターが人間には不可能な複雑な作業を行えるようになり、ある人間はそのデータを用いて大儲けをしたり、またある人間はより便利になる機械にひらめきを抱いたりしています。
 それも才能ですから、もてはやされてしかるべきことであると思います。
 
 そういう人は携帯電話を世に広めたり、SNSの網を世界中に張り、世界を変えていくのですから、きっと傑出した人材なのだろうと思うのです。
 
 実は、こんなデータを作り出したプログラマーもいるそうです。
 彼らがいかなる傑出したデータを生み出しのか、そして、それを活用して傑出した作品をものしたかは今後を待つ必要がありますが、ちょっと興味がありましたので、注目をしてみたのです。

 それは、5000冊の本のデータをコンピューターに取り込み、売れる本とそうでない本を識別する鉄則を見出したというものです。
 欲深い私などは、それがわかれば、自分もベストセラーを狙えると、目を輝かせたのです。

 売れる本というのは、そのデータによれば、こういうものです。

 親密な人間関係、家庭、仕事、この3つをテーマにしたもの。
 プロットは3構成で、感情の起伏にメリハリがあるもの。
 正しい文体で、日常語を使っていること。
 動的でポジティブなキャラクターが登場すること、だそうです。

 随分と大雑把な把握だなとまず思いました。
 確かに、人間関係の描写は小説の面白さであります。
 特に、困難に遭遇し、それを克服して幸福になるというストーリー展開はわかりやすくて、読む方も疲れなくて済みます。
 複雑で、理解するのにも困難であれば、すぐに飽きてしまいます。
 さらに、わかりにくい言葉、難解な言葉であればなおのことです。

 つまり、文語より口語、複雑であるより単純、暗く湿った話より明るく活気のあるストーリー展開、長い話より3部構成の単純明快さが必要というわけです。

 どうも、私の書いてきた作品の様子とは少々違うようです。
 第一、私の話は長い。その長すぎるというのが私の作品の特色です。
 「つくばの街であれこれ」だって、長すぎますでしょう。にも関わらず、それに目を通してくださる方がおられることには、敬服と感謝しかありません。

 短く、わかりやすいことが、ベストセラーを作り出すヒントであるのであれば、これほど楽なことはありません。

 へそ曲がりの私など、新聞の広告に書籍があれば、おおよそその裏側がわかりますから、というのは、教師になる前、ある新聞社の出版局で、3年ほど、週刊誌と単行本の宣伝をする部署でコピーを書く仕事をしていて、本を売るためにいろいろの一連の画策の様子をわかっているからなのです。
 
 買い手の財布の紐を緩めるための言葉からすれば、心地よい言葉を使うことが求められます。
 陶器を扱った書籍を売りたければ、<土と火>がキーワードになります。
 扱っている内容は、先に出した本となんら大きな変化はないのですが、自然の造作というイメージを付与することで、まったく新しいイメージで書籍を売ることにするのです。

 また、第二次大戦の書籍であれば、これも新発見などなくても、あたかもそれがあったかのように、あるいは、沈黙を破って語り始めたことを強調し、それまでと違うものであることを強く打ち出していくのです。

 本を売るということはそういうことなのです。

 コンピューターがいかに優秀であり、それに気づき、データを集めたプログラマーの努力には敬意を表しつつも、私は、やはり、本を書くにあたっては、それを書く人は、自由に書かなければならないと思うことでした。
 
 売れることを狙っていては、いい本は書けないということです。
 才能のあるなしは関係はないと思っています、それより、いかに、自由にものを書くかということなのです。
 その結果が、「売れる」という現象に結びつくのだと思っているのです。

 もっとも、その「売れる」というのは、生活をするに、さらにその上をいく収入があるということは意味しません。
 そうではなくて、人が生を受けて、たまたま、ものを書くことに興味を持ち、それをしたいと思うからそうして、そして、それを多くの人に読んでもらうということなのです。

 どうやら、このような考えでは、売れる本は作れそうにもありません。
 いかに、コンピューターでも私を制御し、売れる本を書かせることは難しいようです。

 ならば、私は私なりに好き勝手にものを書いていくしかないようです。
 なんということもなく、私は思考を一巡りさせて、元の場所に戻ってきたようです。


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銀河鉄道がやってくる‼︎

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鉄でできた建造物、一見、無味乾燥な感じもしますが、この橋の形、どことなく昭和の香りを醸し出しています。隅田川にかかる橋にも似て……。 無味乾燥な素材でも、そこに歴史的時間が加わると「味」が出てくるものなのですね。


 異国の文化を知ることの難しさを知り、それを知ることができた時の嬉しさには格別なものを感じます。

 中国文学を学び始めた時、一番困ったことが、日本にはなく、中国特有の数々の物産であり、ものの名を示す言葉でした。
 私は中国の「新文学」なるもの、つまり、毛沢東によって中国が解放され、それまでの中国とは異なった新しい中国のありようを綴る文学に興味があったのです。

 興味というより、新しい中国に理想とするあり方を感じ取り、憧れをもち、そこに示された哲学にも関心を抱いていたのです。
 つまり、資本主義の力を借りず、毛沢東が延安で拳を振り上げて叫んだという「自力更生」なる標語に、新しく若い力の発散を見て取っていたのです。
 まさに、理想に燃える青年の精神の根幹を揺さぶるようなありように心を震わせていたのです。
 そうした中、先祖が満州人で、清王朝の八旗(日本でいうならば幕府の御家人ともいうべきもの)に属し、革命ですべてを失い、仕方なく教師になった作家「老舎」にたどり着くのです。
 彼は、漱石と同じくロンドンに縁があって留学します。

 漱石と違うところは、政府の援助がなかったことで、そのため、彼はロンドンでリンガフォンの中国語の吹き込みのアルバイトをし(つまり、初代リンガフォンの中国語の声は老舎であるということを聞いたことがあります)、旅費の不足からしばらくシンガポールで足止めをくらいとちょっとした苦労を強いられたのです。

 一方、漱石との共通点は、共に、英国文学、とりわけ、ディケンズから多大の影響を受けたことでした。
 つまり、ディケンズがロンドンの下町で使われているちょっと品のない言葉で文章を綴っていたこと、そして、庶民の屈託のないジュークがふんだんにその作品に盛り込まれていたこと、それを漱石は日本語に、老舎は中国語に取り入れ、作品を発表したのです。

 漱石の『我輩は猫』『坊ちゃん』に見られる、これまでの日本文学にあった文語文での作品と明らかに一線を画する新しい作風がここに誕生したのです。
 老舎もまた『駱駝祥子』で、魯迅の文語的な作風とはまったく異なる、北京語の口語体で生き生きと作品を綴ったのです。
 『駱駝祥子』は、のちに、ハリウッドで映画化もされました。
 しかし、それが老舎をのちに、文化大革命で吊るし上げる口実になって行くのです。

 しかし、日本で老舎を勉強する私には、いかにわかりやすい口語であろうとも、北京の風物をまったく知らないものには、容易に理解しがたいことが多々あったのです。

 漱石や明治の作品にでさえも、それはあります。
 例えば、<勧工場>です。
 同じ日本人でも、現代に生きる私たちにはもはやその実体のない代物は分かりようもありません。これが「百貨店」のようなものとわかるですが、それも、漱石をはじめとする明治の口語作品を読む面白さでもあったのです。

 それが、中国の口語文学とのなれば、一層の困難が付きまといます。
 例えば、<山査子>です。
 その山査子で作られた<冰糖葫芦>という菓子が老舎の作品に出てきます。
 とりわけ、注意書きがあるわけではありません。それを読む中国人、とりわけ北京っ子にとっては注意書きなど必要もない生活に根ざした菓子であるからです。

 ところが、私には、山査子も、その木がどういう木で、どういう葉をつけ、花をつけ、実を持つのかは一向に分かりません。ですから、それを調べ、<冰糖葫芦>という漢字から、この菓子のありようを推測するしかないのです。
 (のちに、これが祭りの屋台で売られているりんご飴のようなものとわかるのですが……)

 老舎の短編に『月牙儿』というのがありました。
 月の牙とはなんぞやということです。
 そして、私は、このことから中国語が持つ言葉のあり方に美しさを感じたのです。

 月の牙、日本語のイメージからすれば、それは何やら恐ろしいものを、場合によっては感じますが、彼らはこの言葉から「三日月」をイメージしていたのです。
 「儿」は、アルと発音し、北京語特有の語尾を柔らかくするものです。
 彼らは、語尾を「アル化」し、王朝のお膝元の誇りを感じながら、言葉を操るのです。

 後年、しばしば、中国を訪れ、街角に多くの言葉を見聞きしたり、また、最近は日本の駅でも中国語が表記されるようになりましたが、そこに見ることのできる<月台>という言葉にも美しさを感じ取ることができるのです。

 「月台」とは、元来月を見るための場所を意味する言葉です。

 プラットホームがなぜ「月台」なのかとも考えますが、そんなことより、ここに、宮沢賢治の空想したあの列車が入ってくるのではないかと思っていた方が、ずっと愉快であると思っているのです。

 私は、地下に作られたつくば駅のプラットホームに立った時、はるかかなたにある入り口に電車が入ってきた時に、空気の圧力を感じるその時に、そう思っているのです。

 銀河鉄道のあの汽車がきっとやってくると。


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誘発された骨肉の争い

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のどかなつくばの街に暮らしていると、このような都会のフォルム、コンクリートで出来た合理的、かつ、美的な建造物にふと目が行きます。綺麗だなという思いからです。きっと、私の中に、東京生まれとか、東京=都会への想いが強くあるのだと思います。


 私の家系が代々もつ不文律は、児孫に美田を残さずというものです。

 我が祖父は、鉄道会社から頂いた退職金を一夜にして使い果たしたという伝説の持ち主です。   (裏を返せば、一夜で使い切るくらいだけの金額であったということではありますが……)
 そして、息子3人のそれぞれ独立した家庭に順番に訪問しては、そこで一ヶ月か二ヶ月を食わせてもらっていたというのですから、その方が豪傑であるとも言えるのです。

 我が父は、そうした親を見ていたからなのか、自らの墓も、仏壇も、いくばくかの財産も残し、それを母に譲り渡し、あの世へと旅立って行きました。
 私たち子供が、母の葬儀に関して費やした費用もすべてはそこから出ていたものなのです。
 そういう意味では、私の父は、多くのことを子供たちに教え遺して言ってくれた人であると思っているのです。

 ですから、遺された子供の間で、金銭的なトラブルが起こすとか、骨肉の争いというものを起こす原因となるものを一切残していかなった賢人であると私は思っているのです。
 
 ですが、多少財産をお持ちの方は、兄弟や親戚の間で、お金を巡って争いごとがあるようです。
 卓球仲間で世間話をしていると、農家では後継がいなく、子供達が田畑の処分なり、親の家の処分を巡って、問題が起こっているという話を聞くことがありますから、世間では、この手の問題はきっと予想を上回ってあるのかもしれません。

 そういえば、有名な家具屋さんでも父上と娘さんが経営権を争って話題になりました。
 私のいた私学の場でも、オーナーと経営陣の間で揉め事があるというのが常態化していましたから、このような骨肉の、そして、骨肉といってもいい間柄の人々の揉め事は尽きることのない真砂のようにあるのかもしれません。

 そして、骨肉の争いほど醜いものはないというのが、人間の刻んできた歴史からはよくわかります。骨肉相食む、というような出来事は、何も、ちっぽけな財産の問題ばかりではないようです。

 「朝鮮中央通信」が、ついに、血で結ばれた同盟国中国への批判を展開したのです。

 中国は、朝鮮が重視する核問題で米国に劣らない拒否感を示したとし、これは伝統ある隣国への妄動であり露骨な威嚇であると表明したのです。 
 さらに、朝中親善と朝鮮にとって命同然の核を交換してまで哀願する我々ではないと強硬な見解を述べて、この無謀な妄動がもたらす災いを熟慮せよと言葉厳しく対したのです。
 
 中国政府は、石炭の輸入を拒み、安保理決議で朝鮮の決議違反を批判していました。
 加えて、中国共産党を代弁するメディアが、今後の動向によっては石油輸出禁止までもほのめかし、さらには、中朝軍事同盟への疑問を呈するという論陣を張ったのです。

 鼻っ柱の強い朝鮮の政府が、だからと言って、すごすごと引き下がるはずはありません。
 朝鮮の発したこのたびの声明に対して、中国共産党は、これを「激情に満ちた」という表現をとり、「朝鮮は理性を失っている、よって、論争するには及ばない」として、これ以上の骨肉相食む状態に入り込まないようにしています。

 中国共産党の主席が、欧州からの帰り道に、ついでにアメリカに立ち寄り(順番からすれば、今度はアメリカ大統領が中国を訪問することになりますから、ここはついでに立ち寄らなくてはならないのです)、日本国首相に対する扱い以上を求め、アメリカ大統領の冬の別荘「海湖庄園」でアメリカ大統領の歓待を受けたのです。

 中国政府としては、世界中のマスコミが、世界ナンバー1・ナンバー2のトップ会談を取り上げ、面目躍如としたいところだったのですが、海湖庄園での盛大なパーテイーの最後の方で伝えられたのは、59発のトマホークをつかってのシリア攻撃であったのです。
 
 世界は、中国共産党主席の存在をすっかり忘れ、その帰国さえも華々しく伝えず、59発のトマホークの発射の意味するところに注視することになったのです。
 
 「海湖庄園之会」で、何が話し合われ、取引をされたかは一向に不明ですが、あれ以降、中国政府は、アメリカの傀儡であるかのような振る舞いをしています。
 大統領との内密の会話も悪意なく暴露され、慇懃無礼にも大統領は主席を尊敬するとツイッターでまくし立て、朝鮮最高指導者の中国に対する非礼を批判するのです。

 中国共産党にしては、珍しく、アメリカ政府の狡猾な手練手管にうまく乗せられてしまったかのようです。

 あのアメリカが、自分たちに一目置いている。
 ここはひとつ、アメリカのためにひと肌脱いでやろう。
 中国の力を見せてやり、アジアは、小日本に任せるのではなく、偉大な中華民族の国に任せるべきであると思い知らせてやらなくてはいけない。

 きっと、中国政府はそう思っているに違いありません。
 しかし、世の中というのはそうそううまくいくものではないのです。

 中国外相が、中国がすべてを解決できるものではないとあちらこちらでしゃべりまくり、責任を中国一国に負わせるのは間違いであると言い始めているのです。
 まるで、鉄道建設をあちらこちらの国で、それ行けドンドンで契約しながら、ことがうまく運ばないとわかると撤退するというあのやり方と同じです。

 中朝の関係に骨肉の争いを誘発させたことが、アメリカが意図してやっているならすごいことです。
 意図できない大統領の軽い発言であっても、血の結束に楔を打ち込んだことは、きっと歴史に残る事象として未来永劫残るはずです。


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プロフィール

nkgwhiro

Author:nkgwhiro
ご訪問
ありがとうございます。

《5/25 Thursday》
       
❣️<Puboo!>にて、『千年の哲学ー女は賢くなり、男たちはただ老け込むだけだった』を発信しました。ぜひ、お読みください。

❣️<Paper in NY>で、『Hot night. People relax at a beach. And they buy food fried chicken. 热的夜晚。 人们,在海滨放松。并且,他们买干炸鸡。』を公開しました。


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