寸善尺魔 



……人間の一生は地獄でございまして,寸善尺魔とはまったく本当の事でございますね。
   一寸の仕合せには一尺の魔物が必ずくっついてまいります。

 太宰治の『ヴィヨンの妻』の一節である。

 世の中にはよいことは少なく,悪いことばかりが多いというたとえとして使われている。
 確かに,生きていくということは,辛いことの方が多い。それを我慢して,耐えしのいで,家族を養うために時間を費やすのである。

 一生を地獄とは思わない。
 まあ,それだけ深い人生を歩んでいないといえばそれまでだが,辛いこと,耐え難いことを逆に楽しんで過ごしてきたということもある。呑気なのか,人生を肯定的にとらえてきたことも大きい。また,他人と比較せず,自分自身をとらえてきたことも影響しているかもしれない。

 そういう意味では,それなりの自由さの中で,人生を過ごしてきたと思える。
 ただ,『寸善尺魔』という言葉には,「善いことにはとかく妨げが多い」という意味もある。これは肝に銘じなくてはいけない。
 呑気もいいが,人生には,慎重さも大切である。

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螺子式



 種子島に鉄砲が渡って来た時,ポルトガル人は幾つかの鉄砲を置いていった。
 戦いを変えるかもしれないこの鉄砲を,マネして作ってみようということになった。刀鍛冶の伝統のある国柄である。まずまず形は容易にできた。日本にはない火薬も,あれこれ算段してなんとか作った。しかし,試射をしみると,鉄砲玉が前に飛んでいかない。時には,試射した人が大怪我を負ってしまう。
 果てさて,原因は何か?
 日本には,螺子式がなかったからである。旋盤で筒の内側に螺旋状の切れ込みを入れる。これを雌螺子という。そこに,同じように螺旋状に切れ込みを入れた雄螺子を回し入れる。これで,破壊力を持つ爆発に耐えることができるのである。
 作成に当たった刀鍛冶は自分の娘を犠牲にしてまでその技術を手に入れたという。
 その螺子式を,アメリカ航空宇宙局の規格基準を驚異的にオーバーして採用された技術者が日本にいることを新聞で知った。
 道脇裕氏である。
 彼の作った螺子式は,決して緩まない完璧なものであった。
 彼の螺子式には螺旋状の切れ込みがない。その代わり,右まわりと左回りの役割を同時に持つ特殊な溝が彫り込まれている。ここに,右回転と左回転のナットを同時に締め付ける。ナットどうしが結合し,強力な振れが起きても,緩むことなく,反対に強力に締まるのだそうだ。
 自分で書いていて,よくわからない仕組みではあるが,螺子式の新な歴史を発見してうれしく思った。

キャッチボール



 パスにしろ,キャッチ ボールにしろ,多くのボールを扱うゲームの基本は,いかに味方に適切なボールを渡すかである。
 相手が取りやすいように,胸のあたりにソフトにボールを置いてやる。
 それがキャッチボールの極意である。
 ところが,それができない場面が世の中には多々あるようだ。
 日露外相会議での,ロシア外務大臣の記者会見がそれだ。あれでは,キャッチボールができない。できないということは,心と心が通わないということである。
 米中トップ会談でも,中国は,これは内政問題だからとか,自国の領土で何をしようと勝手でとか言って米国の懸念を突っぱねたとある。それぞれの国には,それぞれの国の歴史と事情があるとも,語ったようである。
 これも,キャッチボールにはならない。
 強いものが弱いものにボールを投げる時,思い切り投げていくのは子どもである。大人は手加減をして投げる。
 この2件のやり取りを見聞きして思うのは,価値感の顕著な相違である。
 価値観が違うから,相手の身になって,相手の価値観でとはいかない。価値感の違いは絶対的な相違なのである。相容れない水と油のような関係なのである。
 キャッチボールができるようになるには,相手のボールをやんわりと受け止め,相手の胸元に丁寧にボールを投げ込むしかない。
 根気と我慢がいるのがキャッチボールである。

レゴ,熱中!

マシン


 大人が何をと思うが,これが実に頭を使う。
 まず,レゴを組み立ってる。解説はあるが,さほど親切ではない。途中で,情報ラインを組み込む。これを間違えると動かない。組み立ても丁寧にやらないと動かない。
 そして,パソコンにつないで,動かすためのデータを組み込む。
 そうしてはじめて,レゴで作り上げた物体が動く。

 腰や肩が凝るくらい集中する。しかし,完成して,ゴーと動く様を見ると嬉しくなる。

 そんな体験を水戸のある塾で参観したことがある。
 いろいろな塾を見て回ったことがあるが,塾生たちが明るく,元気にやってきた教室を知らない。彼らの中には,不登校の子もいるという。学校のような集団教育の場ではおどおどしてしまいそうな子もいる。そういう子たちが,この日この時間を待ちわびたように教室に駆け込んでくる。
 その塾の塾長に話を聞くと,学習塾にもかかわらず,勉強よりも大切なことがあると公言する。もちろん,親たちにだ。まず,人間をつくるのだ。型にはめ,ときには型を外し,子どもたちが持っている,自己解決力を引きだす。それを見事にやってのけていた。

 その根幹をなすのが,規律(=型にはめる)であり,そして熱中である。マリア・モンテッソーリの教育を実践しているかのようである。こんな教育を塾がやっているのである。学校教育もうかうかしていられない。

マリア・モンテッソーリの教育の目的

シェー


 グーグルのラリーペイジやアマゾンのジェフ・ペゾスという, 人類に多大の影響を与えた人物がが受けた教育ということで注目を集めた教育がマリア・モンテッソーリの教育である。
 マリア・モンテッソーリの教育の目的は,ただ一つ『自立した子どもを育てる』というものである。
 そういう意味では,世界に冠たる日本の学校教育の『詰め込み方式』とは一線を画する教育のあり方であると言える。
 そして,幕末から明治初期の何もないところから何かを生み出そうとした『塾』のあり方に近いのではないだろうか。誰しもが均一に受ける教育ではなく,その子にあった教育を選別できる師がいて,教育環境を提供していくのだ。
   
 ……子どもは,自ら成長し,発達していく力を持っている。大人はその要求を汲み取り,自由
   を保障し,自発的な活動を援助する存在であらねばならない。
 
 学校の教師や親は,自分の都合に合わせて,子どもの教育を制限せざるを得ない。
 例えば,「自習」や「宿題」ーこれなどは教師が児童生徒と直接に対峙しない典型である。
 その背後にあるのは教師の雑仕事である。
 そうではなくて,じっくりと児童生徒を観察することを教育の目的としているのである。

空気のようなもの

木漏れ日


 それは当たり前にそこにあって,日常,その存在にも注目しないというような状況をいうのだろう。それゆえ,そのありがたみとか,その大切さに気づかないでいることが多い。
 そのさいたるものが家族だ。
 常に,そこにいるから,当たり前になって,そこにいることの大切さ,暖かさに疎くなり,感謝さえも忘れるときがある。

 ラグビーの試合を見ていて,選手たちが「キリツ!」「キリツ!」と叫んでいたような気がした。困難な局面に直面したときに,「規律の維持」すなわち,ルーティンな仕草,基本的なスタイルを維持することがたいせつであることをさしているのだろう。
 「キリツ」は,練習によって選手たちに染み付いた,いわば「空気のようなもの」なのであろう。

 ある自衛官が言った言葉がある。
 「安全保障は空気のようなもの。なくなってはじめて残酷な形でその重要性がわかる」と。
 多くの人々が先の安保法案に不安を持っているとの調査結果が出た。その結果を,真摯に受け止めることが必要だが,先の自衛官のいう残酷な形でその重要性を認識はしたくない。

適塾には枕がない

船と車


 長崎で,身分が低いが故にいじめにあったという福沢諭吉先生は,あまりのひどさにいたたまれず,帰郷するという理由で,江戸行きを図った。しかし,兄に説得されて,江戸ではなく大阪の適塾に通って,オランダ語を勉強することになった。 
 まさに,寝る間も惜しんでの勉学が始まった。
 実際,字義の通りであったという。
 寝る間も惜しんでとは,布団を敷いて,寝るものなどだれもいなかったということである。暗くなれば,蝋燭の灯りを頼りに書物を読み,寝るのは机にうつぶせになって,目が覚めれば,また,書籍に没頭するという生活である。
 この時代の人は,確かにすごい。栄養価の高い食事もなく,貧相な家屋敷の中で,欲望を制御し,現実ただいまの環境を変えるべく努力をするのである。
 福沢先生はその後,江戸にわたり,英語の勉強に集中する。そして,咸臨丸に乗ってアメリカに行くことになる。それには,木村摂津守のじきじきの許しがなければ叶うことのない乗船であった。先生は,その恩を生涯忘れず,乗船させてくれたお礼を欠かさず行ったという。
 そうした人間的な徳の高さと勉学の意欲。
 今の時代には,到底,無理であるが,なぜか話を聞いて胸がスッとする。

初秋の休日

shizuka


 船に乗るのもやめた。
 ロードバイクでのツーリングもやめた。
 今日はずっと,「この家」にいよう。

 秋の風吹く中,ウッドデッキに腰掛けてパズルを解く。
 普段よりも車の通る量が格段に少ないバルコニーで新聞を広げる,そして,高い空を眺める。
 
 少々,頭の垂れ下がった千日紅の鉢にたっぷりの水をやる。
 ついでに,紫蘇の穂をこれでもかと摘む。
 今晩はてんぷらだ。
 紫蘇の穂は,まつたけよりも美味なり。秋の証なり。

 テレビでは,行楽地からの渋滞報道がなされている。
 ここは渋滞などない。

 あるのは,少々強い秋の日差しとサラリとした秋の風。

頭の整理整頓



 几帳面なのか,片付けることしか能がないのか,わりときれい好きな性格である。
 散らかっていると,どうにも落ち着かない。自分の居場所がきちんとしていないと,仕事をする気にもならないし,不愉快にさえなる。
 よく言えば,集中力を発揮しているのだろうが,悪く言えば,少々神経質である。

 9月は,子規が逝った月である。
 
  痰一斗糸瓜の水も間にあはず

 絶筆三句のうちの一句である。
 結核を患い,痰が出てしかたがない,それを一斗もでると大げさに言うあたりが子規らしい。ちなみに,ヘチマは痰を止めるのに効果があったそうで,当時は重宝をしていたらしいが,その糸瓜も間に合わないくらい痰が出ると,これまたオーバーな表現である。

 子規は,六畳間の病室兼書斎を『獺祭書屋』と言った。
 獺祭(だっさい)とは,カワウソの祭りという意味である。カワウソはとらえた獲物を並べておく習性がある。それゆえ,魚を祭る,……いろいろなものがそこに置かれている。つまり,創作の過程で参考にする書物があちらこちらに乱雑に置かれているということである。
 いや,意図的に乱雑に置かれたというより,体が不自由でそうせざるを得なかったのであろう。それを家人が片付けようとすると,きっと,創作の過程を邪魔されるとでも思って,片付けを拒んだのであろう。
 オーバーなお人であると思うから,きっと,そうであったと想像する。
 
 見た目はたしかに獺祭のようであったが,その作品を見ると,頭の中は整理整頓されていたように思う。
 わたしも,身の回りだけでなく,頭の中もすっきりとしたいとこのごろ思うのである。

「眼高手低」という言葉から



 益川先生がノーベル物理学賞を受賞したときに,マスコミのインタビューに答えたときに,発した言葉の一つである。
 残念ながら,そのときまで知らなかった言葉である。
 
 意味を知ってみると,「自戒」しなくてはいけない一面を鋭く突かれる言葉である。

 意味は,見る目は肥えてはいるが,実際の技能や能力は低いこと。
 あるいは,知識は有るが,かつ,あれこれ批評をすることはするが,実際にはそれをこなす能力がないことということである。
 
 自分には,見る目とか、知識は,人に誇るほどないことは知っているが,それでも,わずかばかりのそれらをひけらかす癖はないか,真に,何かことをなす技量・能力があるのだろうかと考えると自信をなくすばかりである。
 
 ノーベル賞をもらう先生が、これを警句としているのである。

 ただ,益川先生は,

 『自分の理想や目標などは高くもべし,実際に手をつけるのは低く着実なところから』ともこれを解釈している。

 だとするならば,自分でも,大いに自信を持てる。

 常に,自戒をしつつ,自分に自信を持って,物事に取り組むのである。

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nkgwhiro

Author:nkgwhiro
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《6/28  Wednesday》

❣️<Puboo!>にて、『あけゆく空のごとく』を発信しました。ぜひ、お読みください。

❣️<Paper in NY>で、『For the first time, I was facedown in the beach a wave brings near. Very comfortable.第一次,我变成了为波浪涌来的海滨为卧姿。非常心情舒畅』を公開しました。


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