呆れるほど大きな世界を見つめる人となれ

3stones
あるお宅の石塀に作られていた祠と仏……こんなお宅を作る人がつくばにはいる!


 「井の中の蛙」の諺は人口に膾炙されている。
 狭い知識にとらわれて大局的な判断ができないことを意味する。

 出典は『荘子』秋水第十七である。
 「井戸の中に暮らす蛙と共に、海について語れないのは、蛙がその空間こそが世界だとこだわるからである。夏の虫と氷について語れないのは、夏の虫が夏こそが時間のすべてだと信じるからである。」

 そこに、「空間」と「時間」の概念があることにまず驚かされる。そして、次のように続く。

 「曲学の面々と道について語れないのは、彼らがその教義に縛られているからである。」と。
 真理を探究するには、いまそれが正しいとすることさえも緩やかに受け入れよということだろう。

 第九惑星冥王星の否定と新たな第九惑星の存在など、天文学の分野では、この言葉は着実に実行されているようだ。
 
 「宇宙」と言えば、この概念も『淮南子』斎俗訓第十八に出てくる。
 「極めて大きな木には形というものがない。極めて妙なる道には長さと容積というものがない。だから、木に登って天に届いて測ることはできない。また、道のある大地も測ることができない。」
 
 なかなか、抽象的で厄介な文言である。斎俗訓は続けて言う。
 「往古来今、つまり、過去と未来の時間を<宙>といい、四方上下、つまり、東西南北上下の空間を<宇>というと。
 紀元前100年ごろの昔に、このような概念を作り上げていたのだから、人間というのはすごい。むしろ、科学技術の発達した今より、人は自己と対し、自然と対し、宇宙と対していたのだと思う。

 この斎俗訓にはこう続きがある。
 「だから、遠くを見ることをしない者に、道の大なることを語ることは不可能であり、知恵の及ばぬ者に、物事が至る境地を語ることも不可能なのだ」と。

 しがらみや思惑、配慮や遠慮という関係からときはなれた今、古代の人が慮った境地に少しでも近づけるよう努めるのは愚かなことではないだろう。


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Artificial Intelligence への憧憬と畏怖

kyuutai
子供の心に、この球体はどう映るのか。未来への想いを膨らませる子がたくさんいて欲しい。

スピルバーグ監督の有名な映画があった。

 SF映画を見ると、来たるべき未来に対する期待と憧れに、胸をわくわくさせるが、「AI」を見たときは、これまでに体験をしたことがないほどの悲しさと、虚しさを感じた。
 それは、何千年もの時間の中に、主人公のAIが放置されるという「孤立」がそこにあったからだろうと思っている。言うに言われぬ「孤立」が長い時間続くというのは耐え難いことである。

 そのAIのひとつが、ついに囲碁で人間に勝ったとの記事が日経に出ていた。

 1997年、米国のAI「ディープ・ブルー」がチェスで当時のチャンピオンに勝った。
 以来、「ロジステロ」がオセロで、「あから2010」が将棋で、「IBMワトソン」がクイズで、その道のプロに勝利をしてきた。
 そして、今回、それらの競技の比にならない3000万種の手が必要な「囲碁」でも、グーグルのAI「アルファ・碁」が中国のプロの棋士に勝利したというのだ。

 AIの基盤をなすのは、ディープ・ラーニングである。

 人は無意識のうちに見聞きする。そして、直感的に得た情報を処理する。そこには、大量のデータに含まれる特徴を取捨選択する活動がある。それをディープ・ラーニング=深層学習という。
 つまり、予想される相手の手の内を計算するだけではなく、目の前の碁盤上の有り様を見て、AIが一手を考察していくというあり方である。

 スピルバーグ監督のAIの少年は、母親を求める感情のみを頼り、果てしもない孤立に陥ってしまったが、深層学習を学んでいれば、局面を理解し、対処の方法を講ずることができただろうと思う。

 はこだて未来大学では、2017年を目標に、AIに小説を書かそうと研究をしているそうだ。
 星新一さんの作品を分析し、小松左京さんの作品の提供も受け、長編小説を書こうとしているのだ。

 がんの発見や車の危険回避、調査や面倒な検索を音声で対応してくれるAIは歓迎だが、小説を書くAIは脅威だ。ものを書く端くれにいる者にとって、これほどの脅威はない。なにせ、碁さえもチャンピオンになるくらいだ。

 文学や芸術は、人間の心がなせる技である。
 鑑賞者はそこに、作り手の心を発見し、出来事に共感し、時に、反感を持ち、あるいは、作り手の生き様に共鳴し、時に、反発し、芸術を完成させる。古典として、今に至るまで残る作品は皆この過程を踏んで継がれてきたのだ。

 科学者は、AIに心を与えようとしている。いや、AIが心を持とうとしている。
 悠久の孤立に陥るのは、AIか人間か。
 興味尽きない主題である。


芸術の根元 — 描くことで何か大切なものを得られることに気がつく。

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ヨットの形はふくよかである。ボートは横揺れが激しいが、ヨットは泰然自若としている。それがまたいい。


 F4ないしはF5の画紙に、ウインザー&ニュートンの絵の具で絵を描くことに凝って、かれこれ五年になる。

 透明水彩画の淡い色合い、特に空の青、雲の白、水でぼかされた二度と同じようには書けない偶然の産物は描いていて実に楽しい。
 当時、仕事の関係でイギリスへ行くことが多かった。プライベートではアジア各地へ行く機会をあえて作っていた。

 そこで撮りためた写真が、描く水彩画の元となる。

 イギリスは、ロンドンでも、ケンブリッジでも、どこででも「絵」になる雰囲気を醸し出している。
  同じような建物でも、土地によってレンガの色が微妙に異なっている。
  花々が見事に植えられ、飾られ、整然とした街の趣にも共感を持つことができる。
  黒い鉄柵、すり減ったレンガの敷石、店舗の格調高い構えから伝統と歴史の息吹を見て取ることができる。

 アジアでは、ジャカルタ、KL、ホアヒン、シェムリアップ、香港、上海。味のある街ばかりである。
  共通しているのは、暑いということ。暑いからこそ、そこに育つあざやかな色彩がある。
  異なった文化であるが、アジアという根元を同じくするのだろう、違和感もなく現地に溶け込めるのもいい。
  大きな葉の一枚、鮮やかな花の一輪、透明な水の一滴が輝きを放って、我が目に映る。

 そうした光景を振り返り、絵筆を取るということ。……そこには重要な意味が含まれていた。

 それは、そこで得た自由なる感覚、平時とは異なった特別なる空間と時間、街を歩くことで得たインスピレーション、脳裏にへばりつくそこに生きる人々の姿を再現し、そこでの時間と空間を「再」共有するということである。

 美術でも、文学でも、芸術はぜんたい個人の心に宿った何か偉大なものを再現する活動であるからだ。描いていると、見ていたはずなのに、人間の目が実に大切なものを見落としていることに気づかされる。

 そこに描く価値がある。
 それは、ものを書くことにの通じる。ものを描写するに際して、几帳面に「事実」と対するのである。

 今、iPadで、といったソフトを使って、好きな絵を描くようになっても、それは変わらない。絵を描くことは、不確かな目に確固たる「視力」を与える作業なのだ。

 それが歴史小説へと繋がっていく。


「時間」の概念 ・ 「空間」の概念

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この道はどこへつながっているのだろう。そんな道がいくつもある。


 自由人になって、それまでのあり方、考え方と違ってきたのは、時間と空間の概念である。

 時間。
 まず、緩やかになったことは確かだ。しかし、弛緩はしていないようだ。むしろ、濃密になった感が強い。どういうことかというと、無駄な時間が一掃されたからだと思っている。

 かつて。
 来客。小一時間をそのために費やす。時に、意味のない時間に等しい場合もあったのではないだろうか。
 問題発生。どう対応すべきが思慮する。解決のための苦労で神経がすり減る時もあっただろう。
 
 そういった時間が一切なくなった。
 計画と実行のみで、自分の時間を自由に使うことができるようになった。
 それゆえ、時間は濃密になり、行うべきことがより計画性を持ってなされるようになり、精神衛生的にも良い環境が生まれた。

 空間。
 何よりも、複雑な移動がなくなった。常に、自分好みの快適な環境のもとに身を置くことができる。自分好みの家を作り上げながらもそこにいる時間が極めて少ないでは理に合わない。

 かつて。
 家で心配事があっても、行きたくない時があっても、雪が降ったり、風が強くても、車に乗り職場に移動する。時に、県庁、時に都内の学園本部へと移動することもしないで済むのだ。

 それまで。
 早朝の陽が昇る前の東の空の色があんなにも美しいとは知らなかった。
 夕方、鳥たちが巣に戻っていくのに、群れとなって大騒ぎしているのを知らなかった。

 時間と空間。
 それをやっと自分のものとすることができたのだ。
 もしかしたら、何十年も働いてきての、それがご褒美なのかもしれない。
 金銭では変えられない貴重なご褒美だ。
 
 だからこそ。
 この貴重な時間と空間の中で、少しは、世のため、人のため、尽くさなくてはいけないとあらためて思うのだ。


こだわりの「文房」考

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雨の名残の水たまり、鳥たちの水飲み場となる。


 二階の書斎の机上には、箱根で作られた寄席木細工の大きな鉛筆立てが鎮座し、大量の筆記用具が乱雑に並べられている。もちろん、愛用のモンブランの万年筆もそこに含まれている。一階の書斎には、絵筆や色鉛筆が、つる下げられたり、四角い皿に並べられていたりする。
 そして、それぞれの書斎には、モレスキンのノートがそっと置かれている。

 早朝、二階の書斎のデスクに向かって、最初にすることは、モレスキンの手帳を開いて、モンブランの万年筆を取り出す、ことでは実はない。
 iMacのスイッチを入れることである。
 キーボードを叩かない日はないが、筆記具でノートに字を書くという日はめっぽう少なくなった。おまけに、最近は、水彩画もiPadで描く始末だ。
 
 にもかかわらず、文房四友を側に置きたいのはどうしてだろう。

 「紙」のない時代、エジプトではパピルスの茎を薄く剥いで、それを縦と横に並べて乾燥させてものを使っていた。メソポタミアでは粘土板を用いた。ヨーロッパでは羊皮紙を、中国では木簡や竹簡を用いた。
 そして、紀元前2世紀頃、中国で、古着などの繊維を水に溶かして、薄く平らに伸ばす「紙」が発明された。
 爾来、「紙」とそれに付随する筆・墨・硯は、人類の知性を記録するものとして欠かせないものとなった。

 キーボードやタブレッドで何もかもをやる時代になっても、文房四友を身近に置いているのは、なぜだろうか?

 孫たちが1月から3月にかけて、誕生日を迎える。お祝いに選んだのは、それぞれの年齢に合わせて、恐竜・乗り物・物の形の3冊の絵本とそれぞれに画用紙と筆記具であった。

 私自身も子供の頃、叔父からそういうものをもらって、とても嬉しかった思い出がある。
 筆記具や画用紙は、そこに何かを書き落とすことで自分の表現が可能である。その頃の私は、白い画用紙に秘密基地や作ってみたい遊園地の設計図を書いたりしていた。

 白い紙に筆記具があれば、頭の中にある得体の知れないものを形にすることができるのである。それは、小さい子供であればあるほど、価値ある創作の具となるのだ。

 今も、身近に、文房を置いておくのは、自分の中にある「何かを作りたい」という原初の思いがあるからだと思う。それがある限り、一本の鉛筆さえも大切にそこに置いておきたいと思うのだ。


悪人も善人であり、悪政も善政である。そこにある「人間」を見つめる眼。

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竹と竹やぶでは大きな違いである。竹はすくっと義を見せ、竹やぶはその義を隠す闇を示す。


 寛文11(1671)年3月27日、大老酒井忠清邸に伊達家の御家騒動の始末をつけるため、伊達安芸宗重と原田甲斐が召喚された。

 取り調べは、一人づつ、それぞれの言い分を聞くという形で行われた。
 甲斐は取り調べが終わって、部屋を出て行く。たまたま、安芸とすれ違いになった。この時、甲斐は日頃の鬱屈した気分が怒りとなり、「おのれめッ」と首に脇差で切り掛かった。安芸も、「がきめッ」と声を上げ、甲斐の太もも辺りを切りつけた。

 この刃傷沙汰で、両名共に落命する。

 殿様の吉原通いに端を発して、藩政を立て直そうと、安芸の派閥はこれまでの地方重視政策を、甲斐の方は、中央集権で立て直そうとそれぞれ努力をするが、方向性の違いは、個人の感情がむき出しとなる怨恨だらけの後味の悪い結果となっていった。そして、甲斐の一族はその後処刑される。

 原田甲斐は御家乗っ取りを企てた悪人なのか、それとも、伊達62万石の安泰を願う性根の座った家老なのか。

 実は、この手の争いは、今も、日本の、いや世界のあちこちで起きている。
 ……親子、あるいは兄弟で、実権を争う形。社長と有力な社員とが争う形。極めて、身近にある出来事なのである。
 名もなきサラリーマン諸氏が、そうした愚にもつかない争いの中で人生を台無しにされるケースが、今この瞬間にも起こっているのである。

 あの原田甲斐を、おのれに厳しく、正義を貫く人物に描いた小説が『樅の木は残った』である。

 本の中で、甲斐は自分を「間違って生まれてきた」と語る。……本来、自分は山に入って、自然の中で、獣を狩り、山を愛しんで暮らすべき人間だと語るのである。
 人と人と人との確執、大義名分とは裏腹に、個人的な感情に支配されて、相手を憎んでいくこころの弱さ、そして、そうした中で自分を守ろうとする狭隘な自己愛が支配する自分に気がついた時、甲斐はそう思うのである。

 人が持つ弱さ、醜さ、情けなさ、悔しさ、己を正当化するいやらしさ。

 そして、人は、理不尽な境遇に置かれた時、必ずと言っていいほど、自然の中に安らぎを求める。
 自然は、厳しいが命を宿す暖かさがあるからだ。そして、裏切らない。厳しいだけに、そこには命の循環があるのだ。
 世の中がいかにいやらしく、憎しみに満ちて、我欲に溢れてあろうとも、必ずそこには救いの手のが伸ばされると、山本周五郎は語っているようだ。

 歴史小説は、日々起きている醜悪な出来事の中で、人が真っ当に生きる方向性を示すものでなくてはならないと思う。


拙著『風の島』が持つ歴史小説的意味

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セキレイか、冷え冷えした芝生畑で餌を探している。餌はミミズか、幼虫か。


 「歴史問題」とかがとやかく言われている。

 立場が変われば、見方が変わるのは仕方のないことである。
 一方が、それは事実ではないと言っても、他方にとっては、それはまぎれもない事実となって存在し続ける。また、教育によって、政治的に、「出来事」が事実として認知されても行く。

 それこそが、歴史が持つ「性(さが)」である。
 歴史は常に権力者や政権によって、もっと端的に言えば、その国での勝利者によって形成されていると言える。

 日本は70年以上も昔に、朝鮮・台湾・南洋諸島などを植民地化した帝国主義国家であった。
 しかし、そのことを「歴史問題」として、良いとか、悪いとか判別することは極めてナンセンスなことである。

 なぜなら、明治以降、日本人は粗食に耐え、国家優先の政策で吐き出された公害で体を蝕まれ、挙句には娘を売る算段までして、そして、男たちは兵隊として戦場に駆り出され、「帝国」を作るため一丸となっていった。
 それはとりもなおさず、指導者も国民も、他の国の「属国」になることを拒んだという一点に集約できるからだ。

 一方、「属国」となることを良しとせずも、地政的な状況や国のあり方から、それができなかった国々もある。
 それこそが「歴史」であり、当時の国の力、国の意思であったからである。

 よって、良いとか、悪いとかではなく、それを歴史の事実として、受け止めていくことが正当な扱いなのである。

 「帝国」を作るために払った労力への評価は、当然、異なってくる。
 しかし、収奪するばかりでなかったこともまた「歴史」としてあるのも事実である。

 かの国々・地域に、インフラを整備し、教育を提供し、勤勉に働くことの大切さを教え、「独立」を促す契機を作ったことも「歴史」の一端として示されてもいるのだ。
 
 相手がそれを認めなくても、かつて「帝国」を作るために命を捧げた先人や「属国」になることを拒んだ志士たちに敬意を持っていくことは、「70年以上も戦争をしていない先進国」、「世界トップレベルの生活の豊かさを持ち」、「己の努力次第で自由に何事もできる」現代の日本という国に暮らす私たちは矜持を持って対していかねばならないことである。
 
 拙著『風の島』は、帝国の戦士とかの地の人々との交流を、現代に生きる「帝国」を知らない日本人が垣間見る物語である。今から10年前、戦後60年の年に出版したものである。
 こちら側から、日本の近代を切り開いたあの時代を描く「歴史小説」である。

 歴史小説の今日的意義は、日本の側から、「歴史問題」を提起することであると思うのである。


絵空事を形にしていく人の頭脳の無限大の凄さ、偉大さ、面白さ。

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昼間の月は妙に寂しげだ。たった一人青い空に浮いている。


 つくばの街に、4DX3Dの映画館が昨年12月にオープンした。
 年が明けて、それを体験しに行った。
 映画は「スターウオーズ」である。

 耳元ではエアーが音を立てて、プシュー・プシューと、これでもかと吹き出してくる。椅子は上下左右に動く。天井から強い風が送られてくる。時には、香水のような香りも漂ってくる。

 一緒に行った妻は、映画はじっくり座って見ていたいから、この手の映画はもういいと言う。

 思えば、最初に3D映画を見たときの作品は「アバター」であった。内容といい、初めて見る映像といい、私はこの映画からは強烈な印象を受けた。

 自宅にも3D作品が見られるテレビを買い、幾つかの3Dのビデオも買ったのも、その影響が大であったのだろう。しかし、今回はさほどの影響を与えることはないようだ。

 むしろ、新聞で報道された二つのニュースの方が、私には関心が高かった。

 一つは、太陽系に第9の惑星がある!というニュースである。
 それは、太陽から最も遠い海王星のさらに20倍も遠いところにあるという。重さは地球の10倍。公転は、大雑把であるが、1万年から2万年という。
 これは、カルフォルニア工科大学のマイケル・ブラウン博士が発表したものである。

 もう一つは、ケンブリッジ大学などの国際研究チームが発表したものである。
 ケニアのトゥルカナ湖のほとりで発見された27人分の人骨が、1万年前の狩猟採取をしていた人類どうしが、棍棒や槍などで殺しあった痕跡をとどめているという。
 農耕を始めた人類が富の分配で争った事実は確認されているが、狩猟採集生活をしたいた人類が争った事実は初めての発見で、人類の戦争の起源における研究に大きな影響を与えるという。

 何と好奇心が旺盛な科学者たちだ。
 はるか彼方の出来事に探究の目を向けたり、はるか昔の人骨から人類の歩んできた道を推測する。

 人の頭の中にある「宇宙」、人は、それを物語にしていく。映像にしていく。そして、それが人類にとって現実になっていく。

 JOMON-JINに想いを馳せ、無の空間に浮いている星々にロマンを感じていく、そして、それを形にしていく。
 そういう人でありたいと思うのである。


砂を噛むような人間相手の世界から離れて

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田畑の側溝で日向ぼっこをする白猫。こちらが近寄っても逃げることなく堂々としている。かくありたいものだ。


 組織から離れて、自立するために大切な性格というのは三つあるという。

  好奇心が旺盛な人
  なんでも自分でやってみたいという人
  変化を好む人

 反対に、自立に向いていない人というのは、この三つとは反対の人で、かつ、我慢強く、バランス感覚が優れている人だという。
 我慢強いというのは、社内でうまくいかないことがあった時、誰かが打開策を打ちだすまで耐えられる力を指し、一歩先にもでないし、後退もしないという絶妙な立ち位置をバランス感覚と言うそうである。

 確かに、的を射ている考え方のひとつだと思う。

 私は一般の企業とは違って、学校という職場に長年いたので、100%営利を上げるという観点からすれば、少し感覚は違うと思うが、それでもやはり、この考えに賛同を示す一人である。

 もちろん、生徒たちとの関係を「砂を噛むような」と言っているのではない。
 私にとって、二つの学校でのどの生徒も最高の存在であった。辛いときの安らぎになったし、反対に、彼らが辛いときの手助けを気持ち良くやることができた。もちろん、彼らに恨まれた時もあったろうし、嫌われた時もあったろう、それもこれも含めて、彼らは最高の存在であった。

 しかし、学校といえども、組織体には違いない。
 よって、そこには言うに言われぬ「しがらみ」が存在する。人の思惑が鬱屈した形で表面化することもある。追い詰めたり、追い落としたり、許したり、許さなかったり、ブラックな得体の知れない存在が、学校にはあるのかもしれない。
 そこには小説よりも奇なりという現象がゴロゴロと転がっている。

 今、自由人になって、小説よりも奇なりという現象を振り返る時を持っている。
 肩書きや経験年数でものを言うのではなく、丸裸の姿で、世間に対している一人の自由人としてものを言う時を。

 我慢強さは己の心の鍛錬に、バランス感覚は誹謗中傷をしない正しい心のあり方として捉え、衰えることのない好奇心を常に持ち、これまでそうであったようにこれからも何でも自分で行う心構えを持ち、変化を常に自分に課していきたいと。

 さて、土浦の港に行って、船にでも乗るか……。


思い切って、平成の世のネット事情を揶揄してみたら……

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土浦駅から徒歩3分のところに港はある。素晴らしい環境の港なのです。


 人々の髪の毛がまだ短く、黒い時代。私も大学を目指す青年として受験勉強に励んでいた時期がありました。
 ---そんな時、山川出版社の日本史の参考書。そこに奇怪な文句を見つけました。

   泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず

 一体全体、いかなる意味かと途方に暮れた覚えがあります。元来、私はウイットを理解する能力が欠ける青年であったようです。
 そこで、図書室に行って、あれこれ調べました。
   ……まだ、ネットなどという便利なものなどありません。根気と意欲、それに好奇心だけが頼りです。

 まず、「上喜撰」というのは宇治の銘茶だとわかりました。和歌の名人出る喜撰法師から名を取ったものです。そして、そのお茶は味の濃いことで有名であったのです。それゆえ、四杯も飲むとカフェインの影響で夜も眠れなくなるというのです。

 その「じょうきせん」を「蒸気船」にかけたのです。船を数える量詞も「杯」です。

 そこまでわかってくると、今度は、この一句が辛辣軽妙な権力批判だとわかります。
 権威を誇示し、威張り腐っていた幕府があたふたとしている様をものの見事にいい伝えているではないですか。

 この一句も、山川の日本史の参考書にありました。こちらはわかりやすかったです。

   白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼こひしき

 寛政の改革を実行した松平定信の領地が「白河」。前政権は賄賂の横行したという「田沼」意次。これも見事に庶民の感情を代弁して余りあるものがあります。
 もちろん、政権批判であるから、「落書」という形で人々の口の端に乗り、作者は明らかにされていません。

 平成の世も、ネット上では、匿名の名士たちが勝手気ままに、批判を繰り返しています。その通りと手を打つもののあれば、首をかしげることもあります。

 さて、次に示す人々は江戸期のこうした文言の、今に伝わっている作家のお名前ですが、なんと読みますか。

   朱楽菅公  土師掻安  多田人成

 答えは、あけらかんこう(「あっけらかん」です) 恥のかきやす  ただの人なり
 なんとも、洒落て、機知に富んでいるではないですか。「匿名」などと無粋なことを言わず、名にも粋を感じるではないですか。

 いまあるネット上の様々な言葉も、平成の「奇怪な文句」として、淘汰されずに残るもののきっとあるだろうと思います。
 200年後の人々に、平成人は粋だね、軽妙洒脱だね、名前なども洒落ているねと言われるような、そうした気持ちでネット上で言葉を綴っていくことも大切なような気がします。
 
   「網の上の不埒」とかなんとかいう名で……
   「情けなや 組織にあって 出たき人 とどまりたき人 みるも哀れなり」

 いやはや、まったく面白くないな。墓穴を掘ってしまったようだ。


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nkgwhiro

Author:nkgwhiro
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