つくばの街で あれこれ

gadafdf,alda;da;x,

本日より、お正月を過ごすため、更新をお休みします。
この一年、大変にお世話になりました。
このサイトを訪問してくれた皆さまに、心より御礼を申し上げます。
皆様が、素晴らしい新年をお迎えすることをお祈りしております。
スポンサーサイト

漱石のテスト

dam;;sdmfa;aam;
ビルの屋上から、湯気がたっています。冬らしい光景です。


 漱石は小説家として名をなす前、英語の教師であったということは、誰もが知るところです。
 『坊ちゃん』という作品は、どう見ても教師としてはあまり有能でない若い男子を主人公に、明治の世相を描いて、日本近代文学を代表する作品として、今に至っています。
 
 その漱石が、熊本五高の英語教師であった時に、作成したテスト問題が発見されたと言う記事が日経に出ていました。
 夏目金之助先生は、英語科主任で、かつ、入試試験委員をやっていたと言うのですから、偉大な文学者としてより、同業者としてのより身近な存在として、私はその記事にすこぶる興味を惹かれたのです。

 そのテスト用紙は、B5版に英文の手書きで、ナポレオンのロシア遠征を記したもので、それを和訳させるものであったと言うことです。
 しかも、それは試験官が英文を読んで、学生に聞き取らせて、和訳させたものらしいのです。
 それがなぜわかったかというと、この時金之助先生の試験を受けた学生が、その旨の文章を五高の冊子に残していたからだったというのです。

 研究者は、リスニングを実施した試験は先進的であり、漱石の英語教師としの意識の高さが伺える旨の発言をしておられました。

 へそ曲がりの私などは、それよりも、きっと金之助先生には、彼一流の横着があったに違いないと思ってしまうのですから情けないことです。
 空欄問題やら、選択問題、そして、記述式の問題を作るよりは、一文を案じて、それを音読し、和訳させる、そして、それを採点する。
 それが一番苦労のない問題づくりだからです。

 私は、この方が結構金之助先生らしいと思うのです。

 夏目金之助先生が先進的であるか、意識が高いかは研究者の方に任せるとして、日本における大学入試も国際化の中で変革を求められていることは確かなようです。

 フランスの高校では、あろうことか、「哲学」という科目があります。
 フランスの高校生は、大学入試の際、必ず受けなくてはならない「バカロレア」という試験で、必修でこれが課せられます。
 
 今年の問題は、

 文系:「道徳的信条は経験に基づくか。」「欲望は本来際限がないのか。」
 理系:「労働の減少はよき生を意味するか。」「知のために論証は必要か。」
 
 これに、デカルトやマキャベリの抜粋文を読ませて、説明を求める問題が加わります。

 受験生を試験で比べて、得点だけで高い方を合格にするという試験ではないことがよく分かります。
 何を考え、どう表現し、相手、つまり、採点者を納得させることができるか。
 そして、この力は、まさに、社会に出て「生きる力」そのものであるということです。

 反面、日本の学校が重視する「素直なる心」はまったく無視されます。
 相手のことを受け止めるのではなく、高度な批判精神がそこにないと、この問題を解く力は養えないのからです。
 よって、フランスでは、自己主張、権利主張に重きが置かれることになります。

 だからと言って、フランス人のすべてが、わがままで、好き勝手な人々であるとは言えません。
 要は、自分の考えで、ものごとを決断する主体性を重視しているということなのです。

 隣の人が、違う言葉を喋り、習慣も風俗も違うヨーロッパという地域では、この自己主張は欠くことのできない素養なのです。
 それがないと、ヨーロッパでは、人は埋没してしまうのです。

 ここ数年、日本人科学者が立て続けにノーベル賞を受賞しています。

 彼らは、今から、30年前ほど、日本が潤沢な資金を使っていた時代に、研究生活をしていた方々です。
 しかし、今は事情が大きく異なりました。
 ですから、これから30年後、日本人の科学者がノーベル賞を取ることはかなり難しいということになると言われています。

 あるいはまた、イギリスの教育専門誌が行なっている世界大学ランキングで、また、OECDが行う学力到達度テストで、日本の大学や教育の後退ぶりや停滞ぶりがニュースになります。
 
 ノーベル賞にしろ、大学ランキングにしろ、児童生徒を対象にした到達度テストにしろ、要は、「比較」に過ぎないのです。

 大学が研究費を捻出するために、いつまで政府に頼って、補助費を待つのではなく、欧米のように、企業とタイアップしたり、資金を投資で増やしたりすればいいのです。
 大学には、その手の専門家がいるはずです。
 机上の空論ではなく、実際の世界で、実利を得ればいいだけの話です。

 日本の大学の価値を、欧米の価値判断だけで判定するのもおかしな話です。

 英語で授業をすることは、それは素晴らしいことですが、日本語で大学レベルの授業内容を実施することが可能な国のあり方にも自信を持ってもいいのではないでしょうか。
 母国語で、科学の理論を説明し得ないから英語を使うという国が大勢を占める中で、私たちは幼い時から日本語になれ親しみ、日本語で世界最先端の技術を学び、独自の感性をもつ日本文学を作り出しているのです。

 子供たちは、幼い子から、世の中で生きていくための最低限の教育と心身ともに愛情に満ちた中で暮らしてきているのです。
 多少の問題はもちろんありますが、それを克服する力も同時に、個人も、集団も持っています。

 ですから、私はあまり心配をしていないのです。
 
 きっと、国も、地方も、そして、民間も、こぞって、子供たちの未来をより良いものにしていけるよう努力をするだろうし、大学も世界とは違った個性を持って研究や指導を熱心に行なっていくはずです。

 今、求められているのは、豊かな「知」の学びを日本の教育がいかに高めていくかなのです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ
にほんブログ村

思考容量を貧弱にしないために

midoamdad
つくば駅改札付近の光景です。私は改札の真向かいにあるコーヒーショップの椅子に腰掛けて、甘いドーナツととともに美味しいコーヒーを味わっています。



 現代社会に、ネットが普及し、私たちの思考の算段は飛躍的に便利、かつ、容易になりました。
 しかし、ともすると、算段が、的確な検証を経ずに、安直にして、軽薄なものとして、世に出されることもありますから、十分に気をつけなくてはなりません。

 ネットの特色の一つに、「匿名」でものを語ることが可能というのがあります。
 「匿名」で語ることの意義というのは、権力からの弾圧を避けて、ものを言うことができると言うことです。
 時に、その物言いはその権力基盤を打ちのめす力さえも持っています。

 それゆえ、国家権力は、その物言いをなんとか止めようと躍起になります。
 国民に知られたくない情報を遮断するのです。

 中国では、NHKの国際放送が自国に不都合なニュースを流すと真っ黒になるといいます。
 それを不審に思う人々は声をあげますが、国家権力は今度は、直接的な弾圧を行い、その声を封殺します。
 そういう時にこそ、「匿名」の発言がありとあらゆる手段で発せられ、力を発揮するのです。

 しかし、自由にものを語り、それを受け入れる社会で、「匿名」を使う人は、本来の使い方とは違う使い方を好みます。

 それは、相手を誹謗、あるいは、中傷することを好むという、なんとも狭量な思考のもとで、それを使用するのです。
 自信がないが故に、自分であることを封殺し、一応の理屈を並べたて、自分と異なる見解やあり方に対して、残酷な圧力を加えるというまったくもって卑怯な算段として、この「匿名」を用いるのです。

 つくづく考えてみますと、大人の社会の理不尽なありよう、子供の世界の姑息なありよう、それによって犠牲となる人や子がいることにも、この手の卑怯なあり方があると考えてもいいかと思います。

 さらに、それをマスコミが公の電波を用いて行なっています。
 その電波に刺激を受け、国民が、総出で、一人の著名な政治家なり、芸能人を吊るし上げているとしか思えないのです。
 もちろん、税金を不正に使ったり、それをあたかも正しいかのように虚言を吐く政治家を擁護するのではありません。あるいは、芸能人に限らず著名人の色恋沙汰に首をつっこむ気もさらさらありません。

 そうしたことを、日本という国で、面白おかしく扱うことが情けないのです。
 いや、日本ばかりではないようです。

 アメリカでは、トランプがいろいろな発言を行いました。
 他者を貶め、排除する、そして、喝采を受け、さらに酔いしれたように口を尖らせ、右手をいやらしく掲げて、「寒い言葉」の数々を弄するのです。

 この傾向は、来るべき年に、ヨーロッパにも飛び火する予感を秘めています。

 ネットが持つ「匿名性」が、じわじわと蔓延し、世界の平和を守る政治の世界まで到達してしまったと言わざるを得ません。
 トランプの語る言葉とそこに裏付けられる思考容量の狭さ、貧弱さにおどろきあきれるばかりです。


 時は、後醍醐の帝が親政をお始めになった頃のことです。
 京の都、二条富小路に政庁を構えて、新しきまつりごとが始まりました。
 鎌倉の北条執権に代わって、京の公家衆によるまつりごとが始まったのです。

 しかし、この政府は、鎌倉で幕府を打倒した関東の武家たちに対して敬意を表することを怠りました。武家にとって、最も大切な土地問題の解決にもなんら手を打つことができませんでした。

 つまり、政権を取ったものの、なんら有効な手立てを打つことができなかったのです。

 そんな折、政庁近くの二条河原に「匿名」の落書が掲げられます。
 八十八節にわたり、二条富小路に政庁をおく政府を批判する長い落書です。

 その文体は七五調で、京の文化に精通し、かつ、中国の史書からもその文言を取っていることから、かなりの素養を持った人物が書いたものと推測ができます。
 驚くことに、政権批判ばかりではなく、当時の社会風潮、つまり、下層に位置していた民衆や武家のありようについてもその批判の矛先は向けられているのです。
 
 曰く、
 職を失った侍の多いこと、道筋で出会っても挨拶の一つもなし。
 頼朝公の掟を守る高い品性を持った武士もすっかりと落ちぶれてしまった。
 律儀な武者たちは落ちぶれるも、さほどの働きのないものがいつ間にか出世をする。
 これは、仰せごとご立派と己を殺して、なびくやからが増えたからである。

 武者の言葉をそれなりに置き換えれば、なんだか、今の時代を彷彿とさせる言葉の羅列です。

 「匿名」なる言辞を用いるのは、それなりの訳があってのことで、例えば、二条河原にこのような文章を掲げたのはおそらく、二条富小路に関係する内部者である可能性が高いとも推測ができます。

 しかし、この「匿名」の言葉は、歴史的価値を持って、今に伝わっています。
 現代における、ネットを使った、自己満足一辺倒の「匿名氏」の言葉とは大違いです。

 「匿名」でものを言う際には、歴史に残る、かような言辞を弄するべきなのです。

 ちなみに、この落書が掲げられて、程なくして、二条富小路の政権は足利尊氏の軍事力により、その権力を奪取されたのです。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

申酉騒ぐ、その酉年が目前に

ekimadadmfacdxfea
つくば駅の入り口です。その向こうはバスターミナル。さらに向こうはつくばセンターつくばセンターのビル。実に欧米的な街の在りようだと思います。


 経済界では、「申酉騒ぐ」と言って、申年と酉年は好景気を暗示する年として位置付けているようです。

 「騒ぐ年」という言葉は、投資家たちの相場格言で、上昇相場を意味します。
 今、円安が経済界を賑わせています。
 一方で、石油の値上がり、輸出産業の痛手といった局面もありますが、他方、円安であるからこそ、日本を訪れる外国人の数は伸び、交通・観光・商業施設は好況を極めています。
 浅草、銀座など、外国人だらけです。
 その訪日客の落とす金銭は、国内の景気を上昇させることは確実です。
 
 トランプが来年、アメリカの法人税を減額すれば、アメリカの産業界においては設備投資が盛んになるとの予測がなされています。
 試算では、アメリカでの設備投資1万ドルごとに日本では200ドルの経済効果を生むとされているのです。
 アメリカにある膨大な企業が設備投資をすれば、そこからの好循環が日本にも波及してくるという試算です。
 これを「トランプ効果」といって、経済界では、これも好感を持って受け入れています。
 市場関係者は、日経平均2万円超の回復も夢ではないと予測しています。
 
 このような予想を見ると、まさに「申酉騒ぐ」年という相場格言にふさわしい条件が揃っているようです。
 過去の酉年を見ても、日経平均は上昇しているといいますから、業界の人々は密かに微笑んでいるに違いありません。

 株も、相場も、縁のない私にはどうでもいいことなのですが、それでも、ちょっと気になる年の在り方なのです。

 といいますのは、経済ばかりか政治の世界でも注目すべき変化が、酉年には起こっているからです。
 株や相場に縁のない私でも、政治における動きは、経済よりも興味があります。

 2005年が前回の酉年です。
 この年は、「小泉劇場」が華々しく、激烈に展開された年です。

 8月8日、衆院本会議で郵政民営化が否決されました。
 同夜、小泉首相は記者会見を開いて、「郵政民営化に賛成する候補者しか公認しない」ことを明言、この際のテレビ中継は20パーセントを超える瞬間視聴率を獲得し、選挙での小泉大勝、郵政反対派の大敗北を暗示するかのようでした。

 そして、その前の1993年の酉年には、細川護煕内閣が誕生しています。
 非自民・非共産の連立内閣です。
 自民党と社会党が牛耳る「55年体制」が崩れたのです。
 これもまた、大きな歴史の転換点でした。

 さて、2017年の酉年は、いかなる政治情勢がその後の世界の転換点になるのでしょうか。

 トランプの大統領就任とそれに伴う日米同盟の行方、日中の政治的軋轢、日露領土問題は、それぞれにリンクされています。

 予想もつかない決断をするであろうトランプの動きで、世界は翻弄されるはずです。
 一番の懸念は、南シナ海での米中激突です。

 国を挙げての戦争にはならないとは思いますが、局地的な衝突は発生する可能性が非常に高いものがあります。
 なぜなら、これまで「大人の対応」をしていたアメリカが、中国に対して、中国と同様に「大人らしくない対応」をする可能性が出て来たからです。

 アメリカの空母打撃群が中国遼寧艦隊を圧倒する姿が見えますし、同時に、その紛争の影響が確実に日本にももたらされます。

 日本は、アメリカの傘の下での、安全を保障される時代が終わるのではないでしょうか。

 尖閣問題も、北方領土問題も、それが解決しないのは、極めて単純な理由によると私は考えています。
 それは、日本が、政治的かつ安全保障上で、「独立」していないからです。
 つまり、日本はアメリカの傀儡に過ぎないとみて、甘く見られているからなのです。

 傀儡は、いつの時代も、どこの政権にとっても、敬意を払うに値しない存在です。
 
 ですから、中国政府は、定期的に、何隻も公船を連ねてやってくるのです。
 時に、何百隻もの漁船に設備を施し、高額な手当を出して、押し寄せてくるのです。

 ロシア政府は、21世紀にもなって、19世紀的な領土奪取を実際に行なった政府です。
 そして、戦争で奪取した島は返さないと公言してはばからない国です。

 それもこれも、日本が「傀儡」であり、「独立」していないからなのです。

 ロシアは、自国領土に日本の漁船が入れば、拿捕し、時に、銃撃を加えました。
 中国でも、そこが違法に埋め立てられた島であっても、他国の漁船が近づけば、力づくの圧力をかけてきます。
 韓国では、違法操業する中国漁船に対して、銃撃を加えました。
 インドネシアでは、拿捕した中国漁船を爆破しました。

 これが、自分の国の安全を保障する活動なのです。
 あそこへ行ったらやられるんだとなれば、外国の船は近づいてくることはできません。

 5兆円という日本の過去最高の防衛予算に中国政府が反応しています。
 当然のことです。
 それは脅威に値するからです。

 酉年に、日本に「政治的騒擾」「軍事的脅威」が起きないようにとするには、自国を守り、国民の生活を何としても守りきる強い政府が日本にあらねばならないのです。

 なんだか、物騒な話になってしまいました。
 しかし、日本は、私ごときが心配するまでもなく、優れた政治家により、道を過たずに進んでいくに違いないと、思っているのですが……。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ
にほんブログ村

この煮え切らない中途半端な感情の揺れ動きの中に身を漂わせる

hikaridamicadkamx,;a;
冬の日の、人々幸せ満ちるこの月の、この日に、我もまたそこに浸る。


 「一年の計はクリスマスにあり」

 何を血迷ったことをおっしゃっていると、これを読んでおられる方は思われるかもしれません。
 キリスト教徒でもない人間が、キリスト様のご生誕記念の日に、一年の計はクリスマスにありと何ゆえのたまうのかと。
 
 いつの頃だったか、そう、思い返せば、学生であった時から、それが始まっていたのか、それとも、教師として勤め始めてからかは、定かではないのです。 
 が、確かに、12月25日を一つの新しい年度の始まりに据え始めていたのです。
 
 元旦を迎えるちょうど一週間前が25日です。
 その日が、たまたま、キリストさんの祝祭日であったというだけであったのかもしれません。

 ですから、学生であれば、この日は学期の区切れで、アルバイトや旅行に出かけ、教師であれば、通知書を書き終え、冬の特別講座へと忙しくシフトし、それでも、時間の自由を得たことで、いくばくかの解放感感を得ていた時期なのです。
  
 そんな時期に、私は、手帳を新調し、次年に向けての私的な方策を立てていたのです。

 ここ最近は、手書きのものは身の回りになくなり、すべてが電子化されていますから、新たなに、マックの中にノートを作り、データベースを作成し、気持ちを新たにするというのが、25日だということなのです。
 ですから、晦日には、おおよそのことは、我がMac上に整えられ、大晦日と元旦は、それを眺めながら、ちょこちょこと修正を加えたり、言葉を付け足したりして、過ぎし次年とやってきた新年への期待に胸膨らませているのです。

 昨日、日経小説大賞が決まったという新聞記事に目を見張りました。
 215編の応募作品のうち、過半数が60歳以上の方であったと言います。
 
 「俺は賞には縁のない男よ」と嘯いていないで、己の才能のないことを知って、それでも、才能の有無や多寡を問うべきだと、この記事は己を叱咤する良い機会となったのです。
 過去、ものした作品を眺めて、ニヤニヤしているのではなく、新たな作品に挑戦すべきであると。
 
 ある塾長が自身のフェイスブッックに、「教育の閉塞感を嘆く」というコメントを載せました。
 この若い塾長は、自分の塾の利益だけを考えて行動しているのではないのです。
 教育が国を、青年の未来を作りあげる高尚な活動であることを知っているのです。

 そういう意味では、仕事に追われ、教育活動の素晴らしさを堪能できない学校の先生よりも、実に教師らしい活動を展開しているのです。

 その若い塾長から、二つの宿題を、先だって飲んだ折に、いただきました。

 一つは、学校に復帰することです。
 「教育の閉塞感を打破する」ために、一緒に活動をというのです。
 私の返答は、「考えておきましょう」という、実に日本的な、曖昧な、煮え切らないものでした。

 翌日、彼から来たメールには、教育の閉塞感を打破するために、さらなるご一考をとありました。
 その誠実なありように、次年、私はこの件の「一考」を果たさなくてはならないのです。

 もう一つの宿題は、彼の本業とは別に、教育のための諸活動に協力して欲しいということです。
 これはまったくもって問題がないので、即答で了解しました。

 何をやるかといえば、実のところ、よくわからないのです。
 彼は、IT企業の若い実業家を呼んだり、東大から宇宙工学のエキスパートを招いて、子供たちに話をさせているのです。
 そのようなことをしろというのかもしれません。
 
 教師であったものにとっては、大勢の人の前で、話をすることは苦にはなりません。
 ですから、この申し出であれば、何ら問題はないのです。

 李白に『将進酒』なる詩があります。

  <君見ずや高堂の明鏡 白髮を悲しむを 朝には青絲の如きも 暮には雪と成る>

 人が老いることは、避けることができないのです。
 ついこの間まで、黒髪を撫でていたのが、今は、薄くなった髪を愛おしむように軽く押さえるのです。

  <人生意を得ば 須らく歡を盡くすべし 金尊をして空しく月に對せしむる莫れ>

 だから、その短い人生を楽しむべしと。
 思いのままの人生を送ることができるようになったのだから、思う存分に楽しむがいいのだ。好き勝手に、人生を過ごせばいいのだ。
 後生大事に、財を飾り立て、眺めているなど虚しいことよ。

 老後にいくら必要かなどとつまらない心配はしないたちですから、ありもしない財でも、そう思えば、宝とも見えるから不思議です。

 そして、李白は詠いあげます。

  <天 我が材を生ずる必ず用有り 千金散じ尽すも還た復た来たらん>
 
 一方で、人生の末を、楽しく過ごすべしと歌いつつも、他方で、俗世への関与を謳いあげるのです。

 天は、きっと私の才能を用いる時がある。無駄に使った金もきっと戻ってくるのだと詠いあげる李白の心情を私は好むのです。

 次年もまた、私は、この煮え切らない中途半端な感情の揺れ動きの中に身を漂わせることになりそうです。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

私とラプラドール脳との戦い

hinohiksadafmcaaod
我が家の門から玄関までのアプローチに朝日が差し込み、このような光と影を作りました。この日は、少し寝坊して、新聞を取りに行ったのです。この光景を見て、早速、カメラを取りに戻り、シャッターを押した次第です。



 我が家でも、クリスマスには、ケーキを食べます。
 冬至であれば、卓球仲間で家に柚子の木のある方から頂いた大量の柚子を湯船に浮かべ、これもまた、母からもらっていた「江戸崎かぼちゃ」を食します。

 ここ数年、孫たちの親の世代が、妙な風習に染まり始めているようです。
 オーストラリアに暮らす次女ならばわかるのですが、日本で暮らす長女とそのママ友たちも、子供に珍妙な衣装を着させ、呪文を唱えさせ、近所の店を巡り、お菓子をもらうのです。
 孫たちも嬉々として楽しんでいるようです。

 ただし、オーストラリアでは、近所の子供達が皆、リアルにお化けになるようで、そこで暮らす1歳半の孫は、やってきたお化けの集団を見て、あの日、恐怖の瞬間を過ごしたようです。
 
 それはともかく、昔の人の知恵の深さには驚かされます。

 冬至の日にかぼちゃを食べる、一体なぜ、かぼちゃでなければいけなかったのでしょうか。 
 旧暦の冬至の時期になると、葉物の秋野菜も尽きて、残っているのは保存のきく、かぼちゃくらいしかなかったのでしょう。

 しかし、この日は、いつもと違って、少々砂糖を加えて、少し贅沢に煮て食すのです。
 目先をかえるだけではなく、それを食べると、風邪を引かなくて済むというおまけまでついて、人々の舌と気分を飽きさせないようにしていたのです。

 実際、かぼちゃにはカロチンやビタミンAが多く含まれています。
 ですから、動脈硬化を防ぎ、乾燥した冬でも肌をツヤツヤにしてくれるのです。

 年寄りたちは、それを身を以て知っていましたし、子供たちは毎日出て来るかぼちゃの煮っころがしを自分の体を守るために必要な食べ物だと教わり、決して、これくらいしか食べ物がないと後ろ向きには思わないようにさせていたのです。

 正月のおせちは、少し豪華になりますが、これも節供料理の一つです。
 昔の人は、この節供料理にも意味をもたせていました。

 例えば、「田作」というおせちがあります。
 田んぼに肥料として撒いていた片口鰯、それを正月には、人間も食べて栄養をつけようというのです。
 小さくても、「尾頭付き」の豪華な料理だと、貧しい時代の日本人たちは思って、それを食べたことでしょう。

 「煮しめ」に入っている「サトイモ」は、小芋がたくさんつくことから子宝祈願に、「レンコン」は、穴がたくさんついているので、先が見通せるようにと、そして、「くわい」は、その芽の大きさから出世を祈願して、食していたのです。

 こう見ていくと、子孫繁栄、立身出世、将来展望の三つが、日本人の願いの主たるものであったことがよくわかります。

 しかし、私にはもう一つ願いがあるのです。

 それは、私のどうにもならない大脳辺縁系の横暴な振る舞いをなんとか制御したいという願いです。
 欧米では、この大脳辺縁系を「ラプラドール脳」とも言います。
 まさに、言い得て妙なる言葉です。

 我が家には、一匹の胴の長い、尻尾を切り取られたコーギー犬がいます。
 すこぶる食欲旺盛で、肥満にならないよう食事にも気を使っています。ですから、食事の時間になると、ない尻尾を振り(なくても、そう見えるのですから不思議です)、部屋中を走り回り、喜びをあらわにします。
 食べるまで、30を数えます。が、どうしてそうしているかはよくわかりません。
 そして、一瞬のうちに食べ終わります。

 飼い犬は、主人に似ると言います。
 実は私も、肥満になりやすいタイプなのです。
 「コーギー脳」ならぬ「ラプラドール脳」が大いに発達しているようです。
 
 「ラプラドール脳」の特色の一つは、生きるために常に何かを求めるというものです。それは、闘争本能に直結しています。
 また、生殖本能を維持するために、あらぬことを妄想したりすることもそこが作用しているようです。

 まあ、その二つはともかくとして、問題は三つめの特色です。 

 生命を維持するために、手当たり次第になんでも食べるという、人類が根源的に持っている特性なのです。

 クリスマスのケーキ、お正月のご馳走、普段はあまり飲まない酒もこの時期には飲みます。
 「ラプラドール脳」の無法な振る舞いに対して、私の体は危機を感じ、それを克服するために、膨大な「糖」を欲するのです。
 
 それが問題なのです。

 お正月が終わり、体重の増加、血糖値の上昇、それよりも、自分を制御できないという意志力の欠如が大きな後悔となって身も心を苦しめるのです。

 今年も、きっと、同じことの繰り返しがなされることは目に見えています。
 この傲慢にして、野放図なラプラドール脳との戦いが、まもなく始まるのです……。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ
にほんブログ村

日本と中国

kindnaidfdfq;m,as
つくばの駅前で。地下に駅がある入り口がガラスでできた円筒形の建築物です。その向こうに、万博記念館に展示されているH2ロケットが展示されています。


 いつだったか、地方都市の短期大学で、学生が集まらず、中国から大量の学生を集めてきたというのがニュースになったことがありました。
 この短大は、さらに、ニュースを提供してくれました。
 それは、大量の中国人留学生が「失踪」してしまったというニュースです。

 一般的には、保護者に対して申し訳ないと謝罪するか、学生管理の不備をつかれるところですが、この件は、そうではなくて、来日した多くの学生の目的が、「就学」ではなく、この短大に支払った入学金や当初の授業料を回収し、それに倍する金額を手にする「就労」であったということがニュースとして取り上げられたのです。

 確かに、日本で稼いで、それを中国に持って帰れば、想像を絶する金額になるのです。

 1978年に、私は四人組が排除されたばかりの、華国鋒が主席の中国を訪問したことがあります。その時、8万円を両替し、700元あまりを手にしました。
 この700元というお金は、当時の中国の人々の年収に値する金額だったのです。
 
 一学生の分際で、大金を持ち歩くというのは爽快でもあり、何やら理不尽な、悪いことをしているような気がしていたことを覚えています。

 ですから、大量の中国人学生たちは、日本に来ることで、そして、そこで働くことで、入学金などの出費を即座に回収でき、帰国すれば、日本で稼いだ金で家くらい建てることもできるし、商才があれば、起業するための潤沢な資金を手に入れたということになるのです。

 つくばの畑で、腰を折り、白菜の頭をビニール紐でくくる仕事をしている中国人たちは、きっと農業実習生として来日し、仕事をしているのだと思います。
 その彼らも、日本人にとっては低賃金でも、彼らにとっては大金を稼いでいるということになるのです。

 さて、またある種のニュースに目が釘付けになりました。
 
 それは、立命館大学の周先生が、学会に参加するために中国に出張している最中、連絡が取れない状況になり、家族が心配しているというのです。

 周先生の専門は、地球温暖化です。
 テレビや新聞で、政治的な発言をしていたという方でもないようです。
 いや、むしろ、中国政府の国策でもあり、資金援助を受ける「立命館孔子学院」の名誉学院長でもあるのです。
 
 今年3月には、法政大学の趙先生が、同じく中国出張中に音信不通になり1ヶ月後に瀋陽から帰国するということがありました。

 何年か前にも、東洋学園大学の朱先生が半年も音信不通になるという事態が発生しています。
 朱先生は、今も、時々、政治討論番組に出ては、中国政府を代弁するかのような発言を繰り返していますので、あの半年間の間に、何らかの圧力を受けたのかしらと思いながら、私はその発言を聞いているのです。

 そういえば、香港の銅鑼湾書店の事件も思い起こされます。
 習近平の悪口や、発禁されている書籍を堂々と売る書店に対して、その関係者を拉致するのです。
 敵対する人物を、国家権力でもって、拉致し、問いただすことの怖さは計り知れません。
 家族に対しても、あるいは、知人や友人に対しても、それは無言の圧力になっているに違いありません。
 
 それにしても、日本で教鞭をとり、研究活動に従事する彼らが、なぜ、帰国時に軟禁状態に置かれるのでしょうか。
 私には、それが不可解です。
 他に、特別な理由でもあるのでしょうか?

 日本にも、矛盾や政治的見解の違いから激しい論争があります。
 しかし、敵対する勢力だからといって、あるいは、外国に暮らす知識人だからといって、その人権をないがしろにすることはありません。

 地方自治の長も、国のあり方と真っ向対立することがままありますが、それを法を持って対していくというルールが確立しています。
 それでも、対立するというのであれば、それも法のもとに解決していくという算段を取るのです。 
 相手が、政府の言うことを聞かないから拉致して、懲らしめるということはないのです。

 最近の日本政府は、賃金の向上、働き手の格差の是正、働き方のあり方への提言など、労働団体のようなことも叫んでいます。

 中国の新聞を見ていると、日本への手厳しい反応、それを示す言葉のあり方に驚かされます。
 まるで、「日中開戦」かと思わせるような書きっぷりです。
 それに、対日デモをする人々が、私たち日本に対して、「日本鬼子」とか、「小日本」とか蔑称を使うこともどうかと思うのです。

 そんなんでは、「人民中国」の栄光がはげ落ちることにつながります。

 10億の中国人民が、国土は狭いけれど、豊かで、安全安心で、どこに国よりも自由で、暮らしている日本と日本人を、知ってほしいと思うのです。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

你的名字!

matunihigakasdfmamljm
とある研究所の裏道沿いで見つけた光景です。西日が左から差し込み、松の幹を照らしています。幹は、西日を受けて、半面を照り輝かせているのです。そのなんともない様が、美しく感じられたのです。


 「日政府同意“鱼鹰”复飞  冲绳知事怒斥:日本不是法治国家」

 12月20日付の「環球時報」国際欄に掲載されていた日本関連のニュースの最初にあった記事の表題です。
 漢字とはありがたいもので、多少の字の違いはあっても、そして、日本の新聞やテレビニュースを見ていれば、その内容はおおよそ判断が可能です。

 「鱼鹰」、これは<ユーイン>と発音します。
 日本語では、鷹科の「ミサゴ」を意味します。
 中国語では、そうそう簡単に、英語の発音をそのまま受け入れることはしませんから、Ospreyという音を当て字で表現することはありません。
 これが日本と違うところです。

 「墜落」か、「不時着」かで、マスコミの姿勢がどうだの、こうだのと言われていますが、事象に対して、それを好意的にみるか、そうでないかで、「不時着」か、「墜落」かに分かれて表現されていると見たほうがいいと思います。

 「国防部:日本自卫队对中方飞机发射干扰弹」

 これは12月10日付の同紙の記事の表題です。
 自衛隊機が中国機に「妨害弾」なるものを発射したというのです。

 この日、「我空军多型战机穿越日本列岛」なる飛行を中国空軍は行いました。
 つまり、2機の戦闘機SU-30、2機の爆撃機H-6、それに1機の旅客機とプロベラ機で構成される「多型战机」が、中国南部から、台湾とフイリピンを隔てるバシー海峡を通過して、宮古海峡を経て、中国北部に戻るルートで飛行をしたのです。

 異なった機種が、しかも、自国基地から遠く離れて、同じルートを飛行するということは、高度な技術をパイロットが持っていなくてはなりません。
 なぜなら、スピードも、高度も、そして、性能自体も、さらには、異なる空域をお互いの位置を認識しながら飛行は、その技術の高さを示すには十分だからです。

 この飛行には、中国空軍がその技術を見せびらかす以外に、もう一つの意味がありました。
 バシー海峡を通過するということは、その両端にある台湾とフィリピンへの示威行為、とりわけ、トランプと電話協議し、「一つの中国」を認めない台湾政府への威嚇であるということです。

 ですから、台湾空軍は、この多機種編隊に対して、スクランブルをかけて、自国海域から追い払ったと述べています。
 一方、自衛隊の防空識別圏は、中国本土からわずかに100キロで設定されているので、中国空軍機が南方の基地を飛びだった瞬間にも、自衛隊機はスクランブルをかけての対応が可能になっていると言われています。
 国を他国の言われなき侵略から守るという強い姿勢が感じられ、頼もしい限りです。

 さて、台湾空軍に引き続き、この強力なスクランブルに対して、中国空軍他機種編隊が神経を尖らせるのはもっともなことです。
 ですから、自衛隊機が「妨害弾」なるものを発したというのであれば、それは、中国軍機が自衛隊機に対して、意図的にミサイルのロックオンしたということになるのです。
 ロックオンされた戦闘機は、酸化しやすい金属粉末を、航空機のエンジン排気口から放射する「フレア」を作動し、ミサイルを避けようとするのです。

 宮古海峡では、国際認識から大きく逸脱する行為が、中国空軍によってなされているかと思うと、非常に恐ろしい気がします。

 来年、日本は4隻の(事実上の)空母の運用が可能になります。
 「ひゅうが」「いせ」、そして、ひとまわり大きい「いずも」と来年就役する「かが」です。
 そこに、ヘリはもちろん、オスプレイを乗せることができるのです。
 日本の国土が侵略をされないための抑止力としての運用されるはずです。

 ですから、沖縄でのオスプレイの一件は、中国にとって格好の素材となるのです。
 確かに、沖縄の人たちは米軍基地に囲まれて大変な目に遭っていることでしょう。それはよくわかります。しかし、バシー海峡から宮古海峡でこのような事態が起きていることも知っておく必要があると思うのです。

 国は、基本的人権を尊重すると同時に、公共の福祉、ここでは安全保障を確保することが求められます。

 12月2日金曜日のことです。
 日本のアニメ「你的名字!」が中国各地で公開されました。
 公開されたその週末、日本、台湾、タイ、香港に続き、中国でもランキングトップに躍り出たのです。
 初日の興行収入は、7596元(11億円)というから驚きです。

 一方、韓国の映画、ドラマは中国から姿を消したようです。
 消したというより、消されたと言った方が的確なようです。

 中国で暮らす人々が、そうした政治の傘の下で、公平な考えを捨てないように願うばかりです。
 映画のように、日本と中国が入れ替わって、お互いを知りえたら、無用な争いは起きないと思うのです。
 そして、日本とアメリカのように、お互いが広い心で、相手を認め合い、尊敬しあうようになれば、東アジアに素晴らしい国際環境が整うのです。
 豊かで、自由で、おおらかな環境です。

 それは、決して、不可能なことではないと思っているのです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ
にほんブログ村

偏差値が日本の教育をダメにする

bini-ruasa.mam
冬の冷気から菜っ葉を守るために貼られたビニールの囲い。これも、つくばの風物の一つです。時に、陽の光を受けて輝き、時に内側に水滴を輝かせて、暖かさを見せてくれます。


 教育は常に、国家にとって最重要課題であるべきものです。

 日本が明治維新で国の形を一挙に変えることができたのは、明治政府の教育政策の寄与するところ大なるものがありました。
 我が国の最初の「学制」は、維新後、わずか5年余にして整えられたのです。

 明治5(1872)年8月、この「学制」により、全国に、24303の小学校が作られました。
 平均年齢30代とも言われる若き明治の官吏たちの熱情たるや敬服に値するものがあります。

 この小学校の数は、21世紀の今、設置されている小学校の数と大差がないということからも、この最初の学制が、いかに的を射ていたかがよくわかります。
 少しづつ増やせばいいというのでは、欧米列強には勝てないという切迫感が、国の力の根底となる最低限の教育を施された人材を作り出すという事業を成しえたのです。

 つまり、この学制は、子供達に、世の中で生きていく上で必要な、「読み書きそろばん」という基本を植え付けることに大きく寄与したと言えるのです。
 これが、その後の日本の、よくも悪しくも、発展を下支えする原動力になったことは確かなことです。

 それから100年後の、1970年代、中学で教鞭をとっていた桑田昭三先生が、高校進学指導を、教師の経験による「勘」ではなく、統計学を使ったより確実な方法で行うようになりました。
 その統計学的算段が、「偏差値」というものです。
 元になった理屈は、統計学の父とも呼ばれるベルギーの統計学者ケトレーが、一般統計学に適用していたものです。

 「勘」による受験指導で不合格になる生徒を少しでも減らしたいという一教師の生徒を思う心から生まれたものなのです。

 しかし、この偏差値が一人歩きを始めます。
 私学が、偏差値を使って、事前の合格確約を出すようになったのです。
 一回の試験よりも、その子の学力のありようを的確に判断できる、つまり、少しでも偏差値の高い生徒を誘導する手段に使われるという事態に陥ってしまったのです。
 
 そして、さらに大きな弊害が生じてきました。
 それは、偏差値がその生徒の人格であるかのように、そして、学校もまた、教育内容より偏差値で値踏みされる風潮が蔓延してしまったのです。

 つい先ごろ、国立大学協会は、これまでのセンター試験に代わるものとして、仮称ではありますが、「大学入学希望者学力評価テスト」と、これまでの「個別大学入試」の両方で、全員に「記述式問題」を課する方針を公表しました。

 選択肢から正解を探し出す安直な試験から、「ものごとを構造化する思考力」「その構造を的確に表現する力」「答えを自ら生み出していく判断力を持つ」生徒を選抜することへの転換になるものです。
 これにより、偏差値が一掃されるとは考えられませんが、日本の高等学校、中学校での教育のあり方への変化を促すものとなることは予測が可能です。

 知識の量ではなく、思考・判断・創造の力が問われることになるからです。

 確かに、桑田先生の作られた偏差値は、当初の生徒への愛情に満ちた思いを超えて、日本独自の価値観を持って、日本の教育を牛耳る悪弊となっていってしまったのです。
 オーストラリアでも、アメリカでも、イギリスでも、そのほかのありとあらゆる国でも、この偏差値を使って、子供をランク付けしたり、ひいては、学校そのものをランク付けしたりする国や地域はないのです。

 ましてや、桑田先生が現役でいた時代、生徒の数は非常に多く、中には、午前と午後に分けて、二部授業を行う地域もあったのです。
 大学受験は、「受験戦争」と揶揄され、そのため、各地で大学なるものが作られ続け、日本における学卒の価値は下降の一途をたどっていったのです。

 今、少子化を迎え、学校は、大学も、高校も、志願者の減少で、東大・早慶といった上位に位置する大学、またはそこに入れられる高校以外は、非常に厳しい状況下に置かれるようになってきました。
 きっと、早慶でさえも、危機感を持って、改革を推し進めているはずです。

 偏差値で物事を決するのは、明らかに限界にきているのです。

 さて、勇気を持って、痛みを受け入れ、偏差値を捨てる学校が出てくるだろうか。
 それを材に、稼ごうとする受験会社がなくなるだろうか。
 
 この問題は、北方領土の問題解決以上に、難しい問題ではないかと思案するのです。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

日本の首相も「正常」でない人たちと付き合わなくてはいけないのだから大変だ

koshiwokagambafda
「落穂拾い」の図ではありません。白菜の葉の上を縛って、朝晩の気温の低下で内側の美味しい菜っ葉の味を保つ工夫なのです。腰を屈めて、何面もある白菜ばたけで、この作業をしていきます。実は作業をしているのは、中国人とパキスタン人の研修生なのです。


 うそをつくことは悪いと、学校では教えます。
 なぜだろう? と、そのあまりにも常識的なことに、疑義を持って、自問を試みます。

 嘘つきは泥棒の始まりだからです。
 友達を殴ってしまった。しかし、それを認めない子がいます。
 困り果てた教師が、うそは悪いことだと教える。
 そして、悪いことを認め、謝れば、それは悪いことではなくなるのだから、勇気を持って、友達に謝り、仲良しになりなさいと。

 この一連の指導教育に、不審な点があろうはずもありません。
 純粋で、素直な子供たちの多くが、この言葉を受け入れ、教師の指示に従います。

 長じて、「噓も方便」という言葉を、子供たちは知ることになります。
 元来、この話は、『法華経譬喩品』にある、「三車火宅」が出典となって、人口に膾炙されたものです。
 曰く、火事が発生しました。その家の中には子供達がいましたが、遊びに夢中で、逃げようとしません。そこで、外にはお前たちが欲しがっていた鹿の車、牛の車、羊の車があるよと嘘を言って命を救ったというものです。

 ですから、「噓も方便」という言葉は、悪事に結びつくことに対して使うことは許されません。
 オバマ大統領が、残り少なくなった記者会見を、故郷のハワイに休暇で戻る前の16日に行いました。
 その記者会見である事実について話をしました。
 それは、この9月に中国で開催された、G20の会議の最中、プーチンと立ち話をした時に、いい加減にサイバー攻撃をやめないかと申し伝えたというのです。

 それまで見せたことのない鋭い目つきで、背の低いプーチンを背の高いオバマが、威嚇するかのように見下していたあの写真の真相が、これでわかったような気がしました。

 アメリカとしては、自国の大統領を選ぶ選挙に外国勢力の不当な介入があったとなれば、由々しき事態です。
 100年前であれば、即刻、軍事行動の発動ということになったでしょう。

 しかし、あの鋭い目つきで、威嚇されたプーチンは怖気ついたのか、それ以降、ロシアによるサイバー攻撃は止まったというのですから、正直といえば正直な対応です。

 プーチンにも、ヨーロッパに根付く騎士道精神が少しは残っていたのかもしれません。
 ヨーロッパには、「white lie(良い嘘)」という言葉があります。
 他人を喜ばすためには嘘をついてもいいというのです。
 ロシアは、自国のためにアメリカにサイバー攻撃を加え、有利な展開を期待して、情報を操作したのですから、明らかに、それは「white lie(良い嘘)」とはいえません。
 ですから、あの鋭い目つきでオバマに言われた時に、プーチンは良心の呵責を感じたのかも知れないと思ったのです。

 もう一つ思い出すことがあります。
 一年くらい前のことでしたか、モスクワで、ギリギリの交渉をしていた日露外相が共同記者会見を行いました。
 日本の外相の記者会見での言葉を打ち消すかのように、何食わぬ顔で、北方領土の問題は少しも話をしていないと嘯いたのがロシア外相ラヴロフでした。
 その言葉を聞いて、唖然として、憤懣やる方ない表情で、席を立つこともできなかった日本外相の姿が印象的であった、あのシーンです。

 日本人なら誰が見ても、どっちが嘘をついているか、いや、世界中の人があのシーンを見れば、それがわかったはずです。

 このロシア外相ラヴロフは、この度のオバマの記者会見の言葉に対して、記者から問われて、歩きながら、何食わぬ顔で、彼が何を言っているのかわからないと、記者たちを煙に巻いていました。
 ヒゲこそありませんが、まるで、その舌から出てくる言葉は、あのロシア宮廷を牛耳ったラスプーチンのようです。

 政治の世界では、とりわけ、国際政治の舞台では、相手を欺くこと、そのために嘘をつくこと、そして、相手に不利な情報を流すこと、そのために情報を盗みとることが平然と行われているようです。

 人は、ある程度の「うそ」を無意識的に、かつ、日常的に行っているといいます。
 自分のことを振り返って見て、そう言われてばそうだと納得してしまうのですから、それは事実と言わざるを得ません。

 統計学では、一般に、その件の発生数が多ければ「正常」と判断し、少なければ「異常」と判断します。
 さらに、それが常識的な範疇を大きく逸脱したりすると、今度は、精神医学的には「虚言癖」があると診断されるのです。

 とすると、ラヴロフという外相は、明らかに精神医学的に、この「虚言癖」に充当するということになるでしょう。
 プーチンは、多少軽度の「異常」が認められるということにもなるようです。

 日本の首相も、こうした「正常」ではない方々とわたりあわなくてはならないのですから大変なことです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ
にほんブログ村

プロフィール

nkgwhiro

Author:nkgwhiro
ご訪問
ありがとうございます。

《8/22  Tuesday》

❣️<Puboo!>にて、『神様のおかげ』を発信しました。ぜひ、お読みください。

❣️<Facebook>で、『The silhouette:The person who sits down in a seashore bench
It's covered with a green tree and give the shade of a tree to two people. Many waves are surging over the beach.A vast sea and the sky spread over it.
人影 : 卸下腰到海岸的长凳的人。绿的树木落到身上,将树阴给予二人。向海滨的对面几个也波浪涌来。并且,到那个对面汪洋大海和天空扩展着。』の絵を公開しました。

❣️<Twitter>では、毎日の朝と晩『つくばの街であれこれ』の更新情報をつぶやいています。


⏬下の[リンク]欄から、歴史小説『一門』『福明と李福』、旅行記『ポーツマスの旅』、また、<水彩画>など、<nkgwhiro>の創作活動にアクセスができます。  

皆様のアクセスを心よりお待ちしております。🙋‍♂️

リンク
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
フリーエリア