手掛かりにするもの

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会津には何度か足を運びました。その折、民芸品として、持って帰ってきたのがこれらの置物です。着物の切れ端を使ったのが始まりではないかと勝手に思っていますが、素朴で、壊れることもなく、部屋の片隅で自己主張をしっかりとしています。まるで、会津人のように。


 子供の頃、私には一つの楽しみがありました。
 それは、親が定期購入してくれている「画報」が我が家に届くことでした。

 いつも、確か白色の帽子をかぶったおばさんが届けてくれていました。
 そのおばさんが本屋さんなのか、それとも、「画報」を発行している会社の人なのかを今となっては確かめようもないのですが、私は帽子をかぶったそのおばさんが自転車のブレーキをかけて、家の前に停まるとドキドキしてたまらなかったことを覚えています。

 おばさんが届けてくれた「画報」には、素晴らしい絵と文章で、ピラミッドの秘密、イースター島の不思議、宇宙の成り立ちなどが示されていたのです。
 宇宙人の円盤の話、未来への空想、そして、人知を超越した時をめぐる話も書いてありました。
 「画報」に示された文章と絵画は、確かに、子供の私の興味関心を満足させてくれました。
 それは、私に何か<手掛かりになるもの>を示してくれていたのです。
 もしかしたら、私の原初の知性なるものを磨き上げてくれたのではないかとも考えています。

 時に、広場で友達と三角ベース野球をするよりも、ベーゴマで隣町のやんちゃと競うあうよリも、「画報」をみて、未知の世界に触れる方を圧倒的に好む時期があったのです。

 しばらくすると、「画報」から「岩波文庫」に、私が<手掛かりにするもの>は移っていきました。何の抵抗もなく、文字通り、自然なありようで移っていったのです。

 もう、そこに絵がなくても、文字だけで、私の頭は理解ができるようになっていたのです。
 そして、理解ばかりではなく、そこに思いを入れ、つまり、空想力を使って、イメージを浮かべることが可能なようになっていったのです。

 旅に出る時、文庫は必ずジーンズのお尻のポケットにしまわれていました。
 旅の最中に読むことがなくても、旅に出る前に、真剣に選んで、それはしまわれた文庫だったのです。
 時に、文庫の表紙や余白に、記録しておくべき事柄があればメモし、そしてまた、素晴らしい光景があれば、それをスケッチするのにも文庫は役立ったのです。

 文庫は「画報」の後に、ちょっと大人になった私の興味関心をつなぐ材となっていったのです。
 私の書架を見ますと、様々な種類の本が並んでいます。
 文庫もかなりの数、書架に収まっています。
 ところが、と私は気がつくのです。
 文庫ばかりではなく、本当いうものを買う機会が随分と減ったと……。

 私の<手掛かりにするもの>は、もはや、「画報」でもなく、文庫でもなく、そもそも、「本」というあの独特の匂いのするものではなくなっているのだと……。

 そのことを憂うる声を、私はいろいろなところで耳にします。
 知性と教養を鼓舞する雑誌が休刊もしくは廃刊に追い込まれている、そんな日本の未来はどうなるのかという悲劇的な声で危惧が囁かれているのです。
 また、若者たちの活字離れが進み、将来、漢字という文字はなくなるのではないかと極端な意見も耳にします。

 でも、私はそれらの危惧の言葉をあまり真剣には受け止めることはできないのです。

 それらの声は、例えば出版に関係する人の声であったり、物を書いてそれを生活の糧にする人の声であったりするからです。
 つまり、そこに「利害損得」があっての危惧だからです。

 私が「画報」に心ときめかしたように、今の子供たちは、両手に機器をもち、指で動作をして、情報を引き出し、いかにすれば新しい情報を見つけることができるかを模索しながら、興味関心、つまり、原初の知性を手に入れようとしているからです。

 私は、物を書き、絵を描くことが好きな人間です。
 ですから、今、それを思う存分にしているのです。
 そこには、これでお金を稼ごうとか、なんとかという賞を取ろうとか、そのような純粋で、無垢で、ひたむきな、そして、利を思う気持ちさえもないのです。

 子供が新しい機器を手にすることに、もっと言えば、「画報」や文庫、書籍を手にしなくてもなんの心配もしていないのです。
 むしろ、最新の機器を与えてやることに賛成をしているのです。

 <手掛かりにするもの>は、時代の変遷とともに当然変化するものです。

 私の親が、私に「画報」を買い与えてくれたのは、それが当時、最新の知性を養う道具だったからです。
 今の子供に、分厚い本を与えても、それは無用の長物になるだけです。
 今の子供たちは、手のひらに乗る小さい機器で、ちょっとした動作をすることで、最新の情報を得て、しかも、絵ばかりではなく、動画さえも、近い将来には香りや好悪を感触するなんらかの未知のサインを得ることのできる機器で、興味関心、知性を悟ることになるのだと思っています。

 ですから、当事者としての狭い了見で、未来の人間たちの知性を訝る意見には賛同はできないのです。

 冷酷なようですが、<手掛かりになるもの>としての本がその使命を終えるなら、それも人間の在り方だと思っているのです。
 本が、大英博物館に鎮座しているロゼッタ・ストーンのようになることはないにしても、<手掛かりとするもの>としての、一つの時代の役目を終えたとも考えることができるのです。


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こんばんは

コメントありがとうございます。

今日、相子さんの記事を読ませてもらいました。幅広くいろいろなことに関心をもって取り組まれていることが
よくわかります。知識の獲得が人をより前と導くのだと思いました。
中国語を、私も勉強を始めた時は、クラスに13人しかいませんでした。
国交回復で学習者は増えましたが、それでも、中国語を学ぶ人数は、英語を学ぶ学生に比べると圧倒的に少ないのです。
私は今の政権を良いとは思いませんが、中国や中国文学、文化を愛で、敬意を表する気持ちはたくさん持っています。
今は、勉強はしていませんが、それをなさっている相子さんにも敬意を表したいと思います。

山に持っていった5万分の1の地図が売れないそうです。理由は、デジタルの地図を、スマホに入れて山に持っていくからです。
本も、地図も、デジタル化していくのですね。
ニュースで会議の様子が映る時がありますが、よく見ていると、参加者の目の前にあるのがiPadだったりします。
つまり、紙の資料をやめているんですね。

時代は変化しています。
私も、孫に、iPhoneやiPadを、娘に聞いて、いいと言ったら、お古を与えているんです。
すぐに、指を動かして、あれこれやりますから、見ていて、すごいなと思っています。

それでは失礼します。

No title

今日は
ご意見を拝見し、傍に住む孫たちと仲間の様子に目が行きました。
機器の発達や情報の伝達などを思いますと、いつの間にか大きく変化が起きて来るのかも知れませんね。ただ知識の取得は出来ても、情意の健全な発達はどうなるのか、見当が付きません。諍いのない世界であって欲しいと思っています。
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