それこそが働く理由

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掃き溜めに鶴とか、泥中の蓮など昔の人は、とんでもないところに美しいもの、似合わぬもの、そぐわないものがあることに、美の極致、在りどころの素晴らしさを愛でててきました。いつかの朝、私も、ドブに映る月を見ました。天空に浮かぶ美しい月を見ながら歩いていると、ふと、足元の、それもドブの中にも月があるではないですか。……気づいてくれましたか? ここにも私がいるのです。ありがとう! そんな声が聞こえてきたのです。


 随分と昔のことですが、生徒を就職させる時、教師はどのようなスタンスであるべきなのかを考えたことがありました。

 自分でさえ、やっとのこと、教師の職を得た若造であり、世の中の実態などわかろうはずもないのに、生徒の一生を左右する就職活動を担うという校務分担は責任重大な仕事でした。

 いい加減にやって良いはずはありません。
 まだ「ブッラク」だとか、「ホワイト」などと、会社を区分する時代ではありませんでした。
 世間に名の知れた会社か、福利厚生はどうか、せいぜい、そのくらいの情報を生徒に提供するだけです。
 むしろ、会社のため、ひいては、世の中のため、身を粉にして働き、自らの手で人生を構築せよなどと、檄を飛ばすくらいの指導だったと思います。

 そうした中で、生徒に言うように心がけていた言葉があります。
 実は、これが就職するにあたりいかなるスタンスであるべきかの答えでもあったのですが、『自分が成長するために会社はあるのだ』と言うことでした。

 残業も、転勤も、休日返上もあるだろうし、上司からキツイことも言われるだろう、でも、若い時に、そうしたことを経験することは、これからの何十年と、世の中で生きて行くための力をつけることになるのだから、耐えなくてはいけない、耐えて初めて、自分の価値が定まるのだと言ったことを覚えています。

 裏返せば、それは、私自身が、教師になったばかりの自分にも言い聞かせていたことであったのです。

 どんな組織にも、理不尽な出来事というのがあります。
 また、それを声高に述べて、騒動を起こそうと企む人間もいるのです。
 そうした中で、自分を見失わず、純粋に教師としての職を追求して行きたいと熱望することが、やっと職を得た若造の切なる願いであったのです。
 理不尽な上司、騒ぎを密かに企む先輩教師、上手く立ち回る同僚、それはこちらから一方的に見るばかりではなく、向こうからも、何を考えているかわからない新人とみられることも含んでのドロドロとした環境の中で、私がすべきこととして自得したものなのです。
 
 アメリカでは、大学卒ではない白人中年層の死亡率が急上昇しています。

 薬物依存やアルコール中毒、あるいは、自暴自棄になって自殺をすることなどがその率を上げているのです。
 簡単に首を切られる社会、住宅ローンの破綻、そして、社会からの疎外感があれば、当然の帰結ではあります。
 それが現在のトランプ政権の誕生にもつながったと言うのです。

 これらのアメリカにおける現象は、<アメリカでの民主主義の失敗>だと、ノーベル経済学者らによって唱えられてもいます。
 実に、由々しき問題提起ではあります。

 これらの学者は、アメリカには二つの社会があるとも述べています。
 大卒以上の国民で構成するアメリカ社会と高卒以下の国民で構成するアメリカ社会です。
 一方の社会は、アメリカのリーダーとなりうる立場にあり、努力次第では高額の給料を受け取り、何不自由ない生活を送ることができるのです。
 他方では、安給料で働かされ、会社の事情で解雇され、挙句に、人生もうまく行かず、生きる意味をなくすというものです。
 それを放置したアメリカの政治の責任は重いものがあります。
 この指摘は、オバマと、その系列のクリントンが、大統領選に勝てなかったこと、そして、アメリカ社会の現状を分析するに誠に雄弁ではあります。

 でも、日本だって、中国だって、いや、世界中のどんな国であっても、多かれ少なかれ、事情は似たようなものなのです。

 まして、AIの席巻する時代がすでにきているのです。
 大学を出ていても、解雇される時代がすぐそこにあるのです。いや、もうすでにそれは始まっているかもしれません。

 さらに、AIは、今ある仕事の過半を人から奪うとされています。
 それは社会的ステータスを持つ医師にも及ぶといいます。
 政治や経済においても、ファジーな人間より、的確な判断をするAIの方が、平和を追求し、利益を上げるとまで言われるのです。

 そうした中で、人が社会にでて働く、生活するためのお金を稼ぐ意義は、ともすると、あやふやなものになってきます。
 働く場を失った人間に、政府が生活資金を支給する時代を想定することもなされているのです。

 ですから、なおのこと、私たちは、何故、働くのか、何故、社会と関係性を持つのかということを考えていかなくてはならないのです。

 若い時、私が思っていたあの<自分を成長させるために>ということの意味が、ここへきて再びクローズアップされているのです。
 もっとも、今は、<生きるということは>という前提ではありますが。
 
 学校や社会は、時に、酷なことをする場でもあります。
 それも正々堂々、人をある種の数字で酷な環境に置く場であるのです。
 さまざまな差別には、人や政府もやかましくいうのに、ある種の数字については、大方の人間が目をつむっているのです。
 勉強の出来不出来で人を差別すること、仕事の出来不出来でもそれはなされています。
 いや、それは差別ではない、と誰もかれもがいえるでしょうか。

 一つ紹介したい話があります。
 私が懇意にしていた同僚に意見をした話です。

 卒業生が訪ねてきたのです。その同僚はその生徒が言った言葉に対して、軽率にも、無礼な言葉を吐いてしまったのです。
 机に広げられていた数学の教科書を覗き見て、卒業生曰く、こんな難しい問題、もう解けないと。
 それに対して、同僚の教師は、もう解けないではなく、今も解けないだろうだと言ったのです。

 その卒業生は、顔には笑みを浮かべていましたが、内心は複雑であったと思います。
 的確な言葉は時に、人の心に刺さるのです。
 刺さるが故に、人は笑みでそれを覆い隠すのです。

 この子は、ブラスバンドで活躍し、学校行事には積極的に参加し、学校のために尽力してくれた生徒です。
 私が担任で、就職先は市役所でした。
 昔のことですから、親のコネなどもあったでしょうが、心ない教師の言葉にも、上司や同僚の言葉に負けずに、きっと、自分を成長させるために働いていたのだと思っているのです。

 数年後、クラス会で会った時には、子供を二人授かり、自分のようにならないように、塾に通わせ、随分と入るのに難しくなった自分の母校に入れるんだと言っていました。

 きっと、たくさんの悔しさと情けなさを経験したのでしょう、でも、この子は、確かに成長した人であったのです。
 私が意見した同僚も、私の意見を受け入れてくれました。
 その日のうちに、わざわざ電話して、その子に謝ったのです。

 仕事も、生きることも、<自分を成長させる>ことがいかに大切かがわかる例ではあります。




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算数とじいじ馬鹿

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夜明けの月。松の枝葉の向こう、西の空に、浮かんでいます。十五夜の月もいいですが、夜明けの月もまた美しいものです。でも、どこかに冷たさを感じるのは、冬の朝を思わせる寒さからでしょうか。


 小学生になったばかりの、忘れ物が多く、先生に注意されてばかりいる、それでいて、絵がすこぶる上手な孫が遊びに来ました。

 私の暮らすつくばに来るのが楽しみらしく、前日からリュックに、恐竜の図鑑を入れたり、オセロゲームを入れたりしていたと言いますから、可愛いものです。
 幼稚園に通う弟の方も兄の真似をして、今はやりの戦隊モノのおもちゃをいくつもリュックに入れて持って来ました。
 しかし、電池が切れていて使えないので、つくばのホームセンターで電池を買うと言うのです。

 さて、買いに行くという段になって、父親が、小学生となった兄に尋ねました。

 1つのおもちゃには電池が3個必要です。
 今、ここにある4つのおもちゃを動かすには、幾つの電池が必要ですか、と。

 小学生の孫は、きっと、指を折って計算をするだろうと思いきや、思いの外のことをし始めました。

 1つに3つ、と言うことは2つで6つ。
 2つで6つなら、後2つあるから、6足す6で12個、とひときわ大きい声で言ったのです。

 小学1年生ですから、もちろん、かけ算は習っていません。
 彼が知っているのは足し算と引き算です。
 だから、孫は、あのような方法で計算をしたのです。
 それを、私は非常に感心してみていたのです。
 指で数えるのではなく、頭で、<知恵>を絞って計算をしたからです。

 そこで、今度は私が、ちょっと、意地悪な質問をしてみました。

 公園に、5歳、8歳、7歳の3人の子供たちがブランコで仲良く遊んでいました。
 公園のベンチには1人のお兄さんが座っていました。
 さて、お兄さんは何歳でしょうか。

 すると、小学生の孫は、少し考えたあと20と言って、ちょっと待ってと思案顔になって、答えを確認し始めました。

 孫は、この間に、示された数字の余計なものを除外し、必要な数字だけを取り出し足し算をし、20と言ったのですが、何やら妙なことに気がついたようなのです。

 実は、この手の解けない<算数>の問題に対して、子どもたちはそこに出て来た数字をやりくりして答えを出そうとすると、ある記事で読んでいたのです。
 このことはヨーロッパ各地で実験されて、ほとんどの場合、子供達は与えられた数字で答えを導き出そうとしていたと言うから驚きです。
 算数を学び始めた子供たちにとっては、ことの真偽よりも、算数の問題は、足すか引くかのいずれか、それを判断して、出て来た数字を足すか引くかすれば答えが出ると言う、それだけのことで反応をしていると言うことになります。

 江戸の時代から、私たち日本人は、<読み、書き、そろばん>を基本として学んで来ました。

 <読む>力も、<書く>力も、世の中を生きていく上で、大切な要件になっているのはいうまでもありません。
 お上のお達しを知ったり、丁稚奉公をして、注文された品物とその数を知るには伝票を<読め>なくてはなりません。さらに、それを届ける先に送る伝票も<書け>なくてはなりません。
 さらに、決済をしたり、取引先に価格を引いたりするには、<そろばん>で計算する技能も必要です。
 そういう意味で言えば、<読み、書き、そろばん>は、お給金をもらい、あるいは、才覚があれば独立して商売を始めるには必須の勉強であったのです。

 でも、学校で学ぶ<算数>がどれほど実生活に役立つかは、学年が進むつれて、<そろばん>ほどではなくなります。

 つまり、今の学校の算数の勉強では、実生活から乖離したことも学ぶからです。
 それゆえ、多くの人が<算数>なんて、何の役に立つと不平を言うのです。

 一体何のために<算数>なんて勉強するのかということは、算数を得意としない多くの人が抱く疑問であり、それを方便として、自分が算数のできないことの言い訳にするのです。
 しかも、コンピューター全盛の時代、加えて、人間より的確な判断が可能で、深層学習の成果として、学ぶことのできるAIが出て来る時代となれば、それは方便や言い訳ではなく、実際問題、必要のないものになるのです。

 昨今、暗記学習の是正からか、坂本龍馬や上杉謙信などは覚えなくていいという誠にアホくさい見解が示されていますが、算数無用論と並んで、実に愚かなことです。
 算数に関わらず、勉強というのは、<知識>を得ることで、新たな<知恵>を得て、そこから観念、つまり、物の見方、そして、概念、つまり、物の考え方を培うことなのです。

 レゴを使って、ロボットを作り、それをコンピューターで動かすために、プログラミングが必要です。
 そのための授業も、昨今の学校では組まれます。
 誰もかれもがコンピューターに関わるわけではないのだから、プログラミングなど勉強する必要などないと批判する人がいますが、そうではありません。
 ものを動かす過程で様々な勉強がそこにはあるのです。
 たとえば 、部品管理です。
 だらしなくしていれば、小さな部品をなくしてしまいます。
 すると、ロボットは完成がされません。
 これなど基本的なしつけに通じることです。

 また、わからない子にわかる子が教えてやること、グループでものを作るときには人間関係の大切さも学びます。
 いろいろな教育効果をそこには見いだすことができるのです。

 <読み、書き、そろばん>が基本であれば、歴史や国語もそうですが、算数はとりわけ、論理的な思考を作り上げ、仕事ばかりではなく、人生設計を構築する大きな力となるなるものなのです。
 会社員として大成するためにも、独立して世のため、人のため会社を経営するためにも、算数は重要な要素を子供たちに与えてくれる教科なのです。

 基本である<読み、書き、そろばん>が、言われたことを素直に受け止め、それを正しく実行していく技術であるとするなら、<算数>は、生きる力を獲得する応用の勉強だと言えるのです。

 さて、くだんの孫のちょっと待っての言葉ですが、私の孫が発した言葉は、<そんなの計算できないよ>、というものでした。
 なかなか、やるではないかと、じいじ馬鹿で思った次第ではあるのです。




「きのえうま」の年のこと

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ある日の夕方、羽田に向かう飛行機が大きな飛行機雲を残して飛び去って行きました。そして、その向こうには、パリに行く飛行機が新潟を目指して飛行していました。そこから日本海を越えて、北極海に出て、パリまで飛ぶのです。ある日の夕暮れの一瞬のことでした。


 来る年、2018年は「つちのえいぬ」ではないですか。
 それなのに、「きのえうま」とはなんですかと、年賀状の準備をなさっている方は訝しげに思われていると思います。
 確かに、来年は「つのえいぬ」の年です。漢字で書けば<戊戌>となります。

 <戊戌>という言葉で、私が思い出すことが二つあります。

 一つは、天保9年、1838年、戊戌の年の、日本での出来事です。
 この『つくばの街であれこれ』でも書いたことがありますが、漂流した音吉がアメリカにたどり着き、現地の人に奴隷にされたり、イギリス人に売られ、日本人で初めてロンドンを訪れた話です。
 その音吉がモリソン号で日本に戻って来た時、砲撃されて帰国できなかったというあの歴史的なモリソン号事件、そして、これを契機に発生した蛮社の獄という歴史的な一連の流れがそこにはあります。

 この蛮社の獄で、捕らえられ、永牢処分となった人物に高野長英という人物がいます。

 なぜ、彼が捕縛されたのかと言いますと、『戊戌夢物語』なる著作をものし、その写本が流布し、幕府の逆鱗に触れたということです。
 長英は、イギリスの国力及びアジア方面への海洋進出について、事細かに事実を列挙し、日本国としておろそかにはできないとしたのです。
 また、漂流民を届けてくれた船を砲撃で攻撃することは、「仁」を重んじる国のすることではないとも断じたのです。
 つまり、人道的な行いをすることは国際的な決まりであり、その上で、日本の政策を進めなくてはいけないと意見をしたためたのです。
 今では、当たり前の意見も、当時はお上に楯突く不届きものということであったということです。
 しかし、この戊戌の年に書かれた作品がその後に日本に与える影響は大きなものがありました。

 先人の偉業があればこそ、開国がなされ、近代化を行い、その結果、今の日本があるということで、私の中に<戊戌夢物語>なるものがインプットされているのです。

 もう一つの<戊戌>は、世界史的にも著名な『戊戌の政変』です。
 これは、1898年の<戊戌>のことです。

 清は光緒帝の時代のことです。
 このままでは清は列強のなすがままに国土を失うことになると、思い切った改革を意図するのです。
 いわゆる「現代化路線」を進めるわけです。

 手本は、一足先に近代化を果たしていた日本です。
 日本と同じように立憲君主制をひき、科学技術を学び、清を強大な国家にしていくという計画です。
 しかし、そのためには邪魔者がいます。
 実母の姉であり、幼い光緒帝の後見人であった西太后です。
 急激な改革を嫌う保守的な人物です。
 
 改革の始まりはこの西太后を幽閉することから始めなくてはいけません。
 ところが、この計画への参画を求められた実力者の袁世凱は西太后に密告し、<戊戌>の年に企図された光緒帝の大改革は潰されてしまうのです。
 光緒帝は幽閉されます。
 首謀者であった譚嗣同は死罪、のちに中国史に名を表す康有為や梁啓超は日本に亡命をするのです。

 時代は繰り返すと言いますから、来年の<戊戌>の年、中国で第二の<戊戌の政変>が起こることもなきにしもあらずです。

 経済では、随分と数字を塗りたくっていますから破綻が起こらないとも限りません。
 政治では、人民の思いを随分とねじ伏せていますから、ここからも体制を覆す勢力が出ないとも限りません。
 まあ、来年のことを言うと鬼が笑うと言いますから、これ以上は言いませんが。

 ところで、表題の「きのえうま」ですが、当然、意味もなく出したわけではありません。

 「きのえうま」とは、漢字で書けば<甲午>となります。
 直近の<甲午>は、2014年、今から4年前のことです。

 この年6月、前年に第7代国家主席についた習近平はこう述べています。

 『今年は甲午の年である。
  中国人民と中華民族にとって特別な意味を持つ年である。
  我が国近代史上においても特別な意味がある。……そしていま、われわれは中華民族の偉大な復興という目標にかつてなく近づいている。』

 彼が、<甲午>の年に思い込みを持ち、特別な意味を持つとするのは、彼ばかりではなく、中国人なら誰しも持つ大きな理由があるのです。
 光緒帝が戊戌の年に改革を行おうとし、幽閉されたのも同じ理由からなのです。

 中国人にとっては、<甲午>こそが、国家的な悔悟の始まりなのです。

 それは、1894年の<甲午>を指します。
 中国では清王朝光緒20年、日本では明治27年のことです。
 日本と中国はついに武力衝突にまで発展してしまったのです。

 それを、日本では「日清戦争」、中国では「甲午戦争」と呼びます。

 7月25日の早朝のことでした。
 朝鮮半島の仁川沖豊島で、警戒中の日本海軍遊撃隊が、清国軍艦「済遠」と「広乙」を発見しました。
 そして、両国の艦隊はためらうことなく砲撃を交えたのです。
 この海戦で、「広乙」は直撃弾を受けて炎上擱座。「済遠」は直撃弾を受けるも海域から離脱します。

 離脱逃走した「済遠」を追撃したのが、日本海軍の「浪速」です。艦長はあの東郷平八郎です。

 この時、あのイギリス商船「高陞号」撃沈事件が起きるのです。
 一時は無慈悲な撃沈事件として、国際世論が日本に対して厳しい反応を示しますが、清国兵を満載し、イギリス人船長を脅迫していたことが露見すると、一気に国際世論は沈静化するのです。

 以後の日清間の戦いはいうまでもなく、日本の勝利に終わり、日本は朝鮮半島での権益を手にし、台湾を割譲します。
 しかし、中国人から見れば、この日本との戦いは、軍事的なプレゼンスからは、優に勝てる戦いであったとする意見が大方なのです。
 にもかかわらず、もし西太后が大金を使って頤和園を作らなかったらと悔悟するのです。

 劉亜洲という人民解放軍の上将がいます。
 彼もまた、あの戦争は軍事的には僅差でありながら中国が惨敗した戦いであり、それはただ一つ近代化への取り組みの差が勝敗を決めたと述べています。
 劉亜洲は習近平と同じく太子党の一員で、日本に対しては厳しく対応している政治家でもあります。
 彼の言で、ひときわ注目すべきものがあります。

 それは、日本という国は、強い政権が成立すると朝鮮半島に出てくるという傾向があり、そして、大きな自然災害があると外国への武力行使に出てくる、というのです。

 日本人からすると、突拍子もない発想ですが、中国ではまことしやかに語られていることです。
 彼らは日本への警戒感をこうした形で持っているという点で耳を傾けておく必要があります。

 現在の中国政府による日本に対する歴史認識は、きっと、勝てる戦争に勝つことができなかったという一点に集約されるのではないかと思うのです。

 つまり、心の中に充足感がないのです。
 政治的にどうだとか、あれこれ言っていますが、勝てる戦争に、それも、ちっちゃな島国に負けたと言うこと、それが発端で、列強により、国土が蹂躙されたと言うこと、戦争が終わった後も、偉大な中国が島国に長らく経済で上位にいられたと言うこと、それらが、中華の思想を持つ彼らの中に松ヤニのようにひっついているのです。

 その松ヤニを剥がすのは、彼ら自身が自らの心にはびこらせている、このへんちくりんな歴史認識を改め、素直に、自らの近代史を受け止めることに他ならないのです。




<フレネミー>では行こうではありませんか

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その日は、淡く霞がかかった朝でした。筑波山の方角を見ると、水彩画で描いたような光景が広がっていました。水を落として、そこに絵の具をそっと置いたような静かな光景でした。


 銀行が大変なようです。
 実質業務純益が40パーセント以上も減ったというのですからただ事ではありません。
 かつて、給料面や破格のボーナス支給のニュースを見て、銀行員というのはすごいなと嫉妬にも近い感情をもって、羨ましく思ったことがありましたが、実に大変なことです。

 日本を代表するメガバンクの一つが、人員と店舗数の削減を行う改革に乗り出しました。
 日銀のマイナス金利、それに、人口減少やシニア連中のタンス貯金の増加により、収益が大幅に落ち込んでいるのです。
 さらに、今後は、これまで金融関連業務にはまったく関係のなかった、今を盛りのIT企業もそこに参画してくるということで、これら異業種の新規参入による減益にも備えなくてはいけないと次善の策を講じたでしょう。

 銀行にもロボットが導入されているようですね。
 銀行業務の大半が人手を必要としなくなっているといいます。
 店舗数が減れば、支店長とか次長とかいう役職も少なくなります。
 行員の中には、その知らせを聞いて、次の仕事探しに勤しむという人もいるようです。
 さすが、銀行員です。機を見るに敏の振る舞いではあります。

 もっとも、この方針には、経営陣の、積極的に、銀行こそが異業種に打って出ていかなくてはならないという思いも託されていると私などは、門外漢ではありますが、好意的に思っているのです。
 なぜ、好意的かといいますと、これからの時代は、それまで区切らていた業務分担を超えて、異業種が競うあう時代が到来すると踏んでいるからです。

 例えば、自動車産業はこの100年、比較的安定傾向の中で業務を遂行してきました。
 しかし、いま、自動車そのものが大きく変貌を遂げようとしているのです。
 ガソリンを使って、有害物を出すのではなく、電気や水素を使って、クリーンなエンジンで車を動かすことが求められてきているのです。
 ガソリン車は、もはや、社会の求める車ではなくなってきたのです。
 さらに、車は地上を走るものではなく、空を飛ぶものとなるのは時間の問題でもあります。

 よって、自動車会社は、AIを扱うIT企業と、これまで以上に、手を携えていかなくてはならなくなってきているのです。
 いや、IT企業の方が、ともすると、自動車会社を飛び越えて、自分で車を作り出そうとしてもいるのです。

 これまで、第3の産業革命だ、情報革命だとさまざまに言われてきましたが、本当に、蒸気機関以来の画期的なアイデアによる時代の変化の時を迎えているといっても過言ではないのです。

 そうした意味での、今回のメガバンクトップの判断は正当なるものだと思っているというわけなのです。

 先日、新聞を読んでいましたら、『フレネミー』という言葉が、アメリカでは盛んに使われていることを知りました。
 <フレネミー>というのは、「フレンド」と「エネミー」を複合させた言葉です。
 世の中が今以上に多様化し、一つの物差しでは測れない事態が生じている。
 ですから、それまで敵対していたものがともに手を携えていかねばならない、そういう時代が来たということではないかと思っているのです。

 アップルとサムスンは、お互いに技術の保護を求めて、露骨な裁判闘争も行いますが、一方では、自社の機器を支える部品供給では手を組んでいます。

 ロンドンタクシーの運転手は、ロンドンの道の隅々まで知り尽くし、もっとも近い道、安い道で客を目的地まで運ぶことができます。
 そのために、彼らは何年も勉強して、そのライセンスを取りますが、それと同じことを車に設置したカーナビゲーションが今では行ってしまうのです。
 ですから、長年勉強してきて、誇りの高いロンドンタクシーの運転手たちは、カーナビを積んだロンドンに来たばかりの移民たちが行っている新参者のタクシーに敵意をむき出しにするのですが、客にとっては、早く、安く行ければいいのですから、どちらでもいいということになります。

 さて、ロンドンタクシーは、伝統やドライバーのプロ意識を取るか、それとも、カーナビを積んだ新参のタクシーにどこまで対していくのか興味深いところではあります。
 日本でも、タクシーやホテルの業界で、新たな改革がなされようとしています。
 相乗り、民間宿泊といった流れです。

 営業妨害だと声高に叫んでも、時代は動き出したら止まりません。新しい動きに対して、敵意をむき出しにするのではなく、握手を求め、そこに新たな戦略を講じていくというのが、どうもこの『フレネミー』という言葉には隠されているような気がするのです。

 経済面でそうであるなら、当然、政治面でも同様であるのはいうまでもありません。

 韓国で、日韓合意に尽力した元駐日大使で、情報機関のトップであった人物が、秘密資金を青瓦台に渡したという嫌疑で逮捕されました。 
 少しは政治に興味あれば、これが韓国新政権による、いわゆる慰安婦合意破棄の道筋に繋がることになる端緒であることは容易に読み取れます。
 あれは政府間の取り決めではなく、秘密交渉で決められたものだから破棄するのが当然だということになるのです。

 政権が変わるたびに、前政権を罵倒し、その権威を失墜させるのは韓国の常道ではありますが、それは韓国ばかりでもないのです。アメリカもまたオバマの真逆を推し進め、そのレガシーを破砕しています。

 中国とて、ロシアとてとどのつまりは同じです。
 まして、北朝鮮であればなおのこと、現政権が潰れれば、かつての政権への風当たりは革命的な激しさを増すはずです。

 それがため、これらの国々は強権を敷いて、政権を維持していくのです。

 ただ、アメリカだけは民主主義がきちんとしていますから、きっと、あるべき道に戻るかとは思います。
 さて、政治における『フレネミー』ということですが、これらの強権を敷く国々と、日本は物の見事に接しているのです。

 しかも、ロシア、韓国には領土を占有され、日本の島をそれは中国のだと声高に言われ、定期的に公船を派遣するというお得意の嫌がらせを受けているのです。

 だからと言って、一戦を交えるわけにはいきません。そうではなく、日本は、『フレネミー』なるものを展開していかなくてはならないのです。
 我が国には、相手が気に入らないからといって攻め込む軍事力も法的な意義もありません。
 だったら、彼らを『フレネミー』として、活用をしていかなくてはならないのです。

 現に、中国人民は、<小日本><日本鬼子>と中国政府が主導して叫んでいるこの国に、大挙してやってきます。
 いかに強権を発動する政府でさえも、もはや止めようがないというのがそのありようなのです。

 だからこそ、私たちは彼らを歓待し、親切にし、日本のあるべき姿を見せているのです。
 だから、彼らは二度三度とやってくるのです。
 数こそ違え、韓国もロシアも同じです。

 日本は、彼らにとって、自由で、しかし、規律のある素晴らしい国なのです。
 彼らはそれを知っているのです。

 機械や技術というのは、盗みとり、真似することはできますが、心意気だけは不可能です。心意気は、社会の熟成、何よりも、それを支える規律がなければ、生まれてこないものなのです。

 それをこそ『フレネミー』として、根気よく、対していくのです。
 きっと、いい方向に新しい時代が切り開かれていくことと私は思っているのです。




騙されるのも愉快なり

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大輪の菊も素晴らしいですが、道端に群れて咲く小さな菊の花も、秋を堪能させてくれます。いつも歩く裏道には、農家の方が、畑と道の境に、菊を植えて、歩く人の目を和ませてくれているのです。


 私の趣味の一つに、マジックがあります。

 私の机の一番下の引き出しには、マジックの道具が密かに隠されているのです。
 隠されているということは、マジックを人に見せようとか、観客相手に楽しんでもらおうというのではないということです。
 私にはカードを操る器用さもありませんし、第一、コインを巧みに操るマジシャンの繊細な指先もありません。どちらかというと、質の悪いロボットのようなギクシャクした動きしかできない私の指なのです。

 ただ、マジックに隠されたトリックを暴きたい、そして、いかにうまく騙されていたかを知り、その騙しのテクニックを納得したいという気持ちが、その趣味を営む動機としてあるのです。

 人を騙すということは、もちろん、ありようによっては犯罪になります。

 母が生きていた時のことです。母の暮らす家に、栃木県警のものだという男がやってきて、警察手帳を見せ、チェーンのかかっているドアの向こうで、玄関に入れてくれと言ってきたそうです。
 母はその男に不安を感じ、隣のいつも世話になっているペンキ屋のご主人に電話をし、すぐにきて欲しいと大きな声で言ったそうです。すると、栃木県警を名乗った男はさっと姿を消していったというのです。
 栃木県警を名乗る男がどんな詐欺を働こうとしてのかはわかりませんが、母はとっさの機転で引っかからなかったわけです。
 日本中で随分を年寄りが詐欺にあっているのですから、あれやこれや、詐欺師たちは知恵を絞って人を騙しにかかっていると言えます。

 一方、人を騙すことほど、面白いことはないということも、私たちは知っています。

 映画『スティング』が、そのことを証明しています。
 仲間が一体となって、ギャングを騙すのです。見ていて、あの一連の騙しのテクニックに爽快感さえ持つのですから、その良い証明となるでしょう。
 そして、その爽快感は、私たちの日常生活では決して得ることのできない快感でさえあるのです。

 それは、推理小説を読んでいるときも同じです。

 私たちは作家の筆致に騙されていることを自覚しながら、ストーリーを読み進めていくのです。そして、最後のどんでん返しに、してやられたと思い、この本に何がしかの代金を払ったことに満足するのです。
 騙されることに、金を払うなんて、もしかしたら、この世の最大の詐欺師は、作家ということになると言っても、おおよそ間違いではないとも言えます。
 また、逆に言えば、作家になり、ベストセラーを作り出すには、いかに読者を騙すかにかかっていると言ってもいいかもしれません。

 今年のノーベル経済学賞にリチャード・セイラー教授の理論が選ばれました。

 「ナッジ理論」というやつです。
 <He nudge Paul in the ribs>といえば、ちょっとポールの脇腹を突っつく、つまり、相手に注意を促すという意味です。その「ナッジ」という言葉を使った理論です。

 人間というのは、強制されたり、口うるさく指示されたりするより、優しく言われた方が動くと言うのです。
 あっまり良い例ではないのですが、昔、立ち小便がされがちな場所に、「立ち小便をするな」と強面に書くより、「鳥居の絵」をさりげなく描いておいた方が効果があったと言うことです。
 このようなことを言っていると思うのです。

 でも、そんなことが学問として、ノーベル賞をとるとは思えません。

 私たちは、何かの意思決定をするとき、常に選択肢を頭の中に提示して、その優劣、損得、出来不出来などで判断しているといいます。セイラー教授は、そうした人間が持つ選択肢を経済にも応用しようと提唱したのです。

 それを効果的に活用しているのが、スーパーマーケットです。
 店内にパンを焼く香ばしい香りを漂わせること、売れ筋の、あるいは、売りさばきたい品物を買い手の目の高さの位置する棚に配列すること、また、買い手が必要不可欠とする品物は決まった場所から動かさない、つまり、わかりやすく棚に置いておくこと、それらの工夫で、ものを買ってもらおうという魂胆なのです。
 これらは皆、意図的にものを売るための「ナッジ理論」が応用されているのです。 

 そればかりではありません。
 臓器提供の申請、以前は登録制でしたが、それでは面倒です。だから、誰も登録を面倒がります。当然、臓器提供の意思表示が伸びようはずもありません。今では免許更新時にちょっとした用紙にマークするだけです。
 また、レストランが割安のランチを提供するとき、多少儲けの高い1000円代のランチを売りたいときに、800円と1500円のランチを用意します。人間は、一番高いものとか安いものを敬遠し、その中間を選択すると言う傾向があることを見抜いた売り上げ作戦です。
 これにも「ナッジ理論」が応用されているといいます。

 小さなちょっとしたナッジを与えることで、人の選択肢を効果的に導くことができると言うのが、ナッジ理論なのです。

 ここまで述べてきて、経済に心理学が活用されていると気づいた人は相当に騙しのテクニックに興味のある方だと思います。

 人の選択肢には、確かに、心理が作用しているのです。
 今更述べるのも気が引けますが、都知事の「排除」発言が随分と尾を引いています。
 先だって開票された葛飾区の選挙では、彼女が代表を務める党からの当選者は5分の1だったそうです。
 セイラー教授によれば、「第一印象が悪かったり、複雑な議論と統計データに訴えたりする候補者は苦戦する可能性が高い」と言っています。 
 「排除」で印象を悪くし、横文字を多用し、シニア層から毛嫌いされ、市場移転をややこしくさせたわけですから、まさに、教授の言と一致します。

 夕方のニュースを見ていたら、自分の家の前の道路が私道だと言い張って、そこを通る人に文句を言ったり、突っかかっていた男がいました。
 女の人の自転車をつかんで離さず、挙句に自分から転がって痛い痛いと叫んで大騒ぎをしていました。その映像が証拠になったのかどうかはわかりませんが、警察に逮捕されたといいます。 

 この男に、ナッジ理論を教えてやればいいのではないかと思ったのです。

 私道を通る人々を勝手な言い分でゴリ押しするのではなく、反対に、茶を振る舞い、菓子を振る舞い、愛想をふりまくのです。
 そして、それとなく私道である旨を述べるのです。

 あの人はなんて素晴らしいんだ。今度、家で取れたトマトを少し持って言ってやろうとか、田舎から新鮮な魚が送られてきたからお裾分けをしてやろうとなるかもしれません。
 また、そんなもの期待をしなくても、自分たちはいいことをしていると言う充足感で、あの男は幸福になれるのです。

 しかし、世の中には、この男のように、いかなる理論も当てはめることのできない不測の事態というものがあるものです。
 ノーベル経済学賞をもらったあの先生も、<縁なき衆生は度し難し>と言う東洋の警句はご存知ないようでした。




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《11/20 Moday》

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❣️<Puboo!>にて、『我は切望す、我が真意のありようを受け止めんことを』を発信しました。

❣️<Facebook>で、『Park in the Gold Coast School is a holiday in the end of a term today. We can see the children who are led by a teacher and carry on the outside of the school activity. Surprisingly, they'll be enthusiastic teachers. There are children who play at a park of course, too. Even though facilities in a wonderful park.
黄金海岸的公园 学校,是今天,学期末的假日。我们能看活动校外的孩子们被老师率领。她们,如何热情老师们吧。当然,玩公园的孩子们也在。即使那样,是极好的公园的设施。』と題する動画を公開しました。

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