「遼寧」と「いずも」

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この黄色い花、やがて、地中に入り込むと言います。それを見ようと昨年から努力していますが、そうそう簡単にその実相を見せてくれません。でも、秋にはこの花の植えられた場所を掘り起こすと、あの「落花生」がわんさか出てくるのです。


 「“出云”号半小时击沉辽宁舰?日专家口出狂言」

 これは、6月26日付の「环球时报」で発信された記事の見出しです。
 何と書いてあるのかと言いますと、<「いずも」は30分で「遼寧」を撃沈?ー日本の専門家は大口を叩く>とでもなりましょうか。

 「環球時報」が書いているように、確かに、中国海軍の航空母艦「遼寧」は、25日、母港の青島の基地を護衛艦を率いて出航しています。
 しかるべき海域で航空機の発着艦訓練を行いながら、香港に向かうのです。
 これは日本の新聞も書いていたことでした。

 香港では、明日7月1日に、返還20年を記念する式典が開催されます。
 国家主席として、習近平が初めて香港を訪問します。
 それに合わせて、「遼寧」も香港に入り、その威容を香港市民に見せつけようというのです。

 しかし、「いずも」について、ほとんどの日本の新聞が、その動向については書いていません。

 ファイナンシャル・タイムズが伝えるところによりますと、「いずも」は、6月下旬、4日間の日程で、東南アジア10カ国の軍関係者を乗せて、南シナ海の海洋境界を航海したというのです。これは、日本政府が行った艦艇や航空機の貸与と連動する軍事援助であるとしています。

 つまり、アメリカの太平洋海域での軍事的優位性への不安、そこにつけ込んで南シナ海の大半を自国の海域と述べてはばからない中国に対する対抗意識が、日本と東南アジア諸国にはあり、そのタイミングで行われた「いずも」の航海は、日本の防衛外交の象徴的な姿であるというのです。

 さらに、記事は、4日間の訓練の中には、海洋法に関するレクチャーも含まれていて、これは明らかに、中国が主張する、いわゆる九段線なる領有権を退けた国際仲裁裁判所の判決を支持する授業で、そうした中国の姿勢に対して、明確に対抗するものであるとも書かれていました。

 その上で、記事は、安倍政権が南シナ海で積極的な活動を展開し、日本国民に中国の海洋進出を阻止する決意を示すという戦略があると結論づけていたのです。

 外国の新聞が、日本の新聞が報道しないことを事細かに書いているのを読んでわかることは、日本の「いずも」が今、南シナ海のどこかにいるということ、そして、青島を出航した「遼寧」が香港に向けて、これまた南シナ海に入るということです。

 そうなりますと、日本の最新護衛艦、というよりヘリ空母、あるいは、軽空母、もっと言えば、最先端の軍事技術を備えた「いずも」と、ロシアからスクラップになったものを買い取り、補修をし、図体ばかり大きく訓練も不十分で、事故も少なからず発生しているという「遼寧」が南シナ海上で遭遇し、お互いに反目する中で戦闘が開始されるという<物語>をしたくなるのはもっともなことです。

 事実、「環球時報」がいうところの大口を叩く日本の専門家なるものは何者なのかと記事を読み進めていきますと、これは台湾の「中时电子报」なる新聞が書いていることで、日本の誰それということではないようなのです。

 「いずも」にしろ、「かが」にしろ日本の<准航母>は、16機のF35Bの搭載が可能で、この機体のステルス性能の優秀さは中国海軍の防衛網をすり抜けて、F35Bが持つ凄まじい対艦攻撃能力で、たったの30分で「遼寧」は撃沈されると、いうならば、台湾を威嚇し続ける「遼寧」を日本の「いずも」がやっつけてくれるという台湾の切ない願望が強く反映されている記事が言うところの日本の専門家ということなのです。

 海自には、オスプレイを搭載することはできても、垂直上昇するF35Bを搭載するに耐えうる甲板を取り付けていないという海自幹部の証言もありますから、「遼寧」を撃沈することのできるF35Bを搭載できない「いずも」は台湾の期待に添えないということになりますし、海自も中国海軍も細心の注意を払って、お互いにあの広い海域で遭遇することのないように航海をするはずです。

 しかし、これらの記事を読んで思うことは、日本の最新鋭のヘリ搭載護衛艦の活発な活動のありようです。
 しかも、その活発な活動は東南アジアの国々には概ね歓迎されているということです。
 そして、「環球時報」の記事が示すように、中国はそうした「いずも」の動きに少なからず敏感になっているのです。

 尖閣にやってくる海警局の4隻ひとグループの艦船群は、まるで定期便のように小一時間我が国の領海に入ってきては母港に戻ります。
 彼らからすれば、相手の国が主張する海域に侵入するのですから、怖いはずです。
 もしかしたら、砲撃をされるかもしれない、そこまでしなくても、体当たりをされるかもしれない、そういう恐怖を抱いてきているに違いないのです。
 しかし、日本の海保は一定の距離を保ち、島に近づかないよう、ひたすら言葉で訴えてくるだけです。
 きっと、それが不思議でならないと思うのです。

 自分たちがしていることは、もしかしたら、良くないことなのではないかと思う海警局の隊員もいるのではないかと思うのです。
 相手がいけないということを無理強いしてやることへの嫌悪感の作用です。

 海保の根気強い対応に、海自の武を備えるは戦うにあらずという精神を、この国が失わなければ、いかに隣に理不尽なことをする国があっても大丈夫だと思うのです。

 「遼寧」と「いずも」の南シナ海での航海のありようがそれをよく物語っていると思っているのです。


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未来人が解読しなくてはいけない現代文字

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在学中はもちろん、今もかぶることなく飾られている角帽。でも、ふと見上げるときがあります。こんな帽子でも、力を私に与えてくれることがあるからなのです。


 小学校にあがった孫がキッチンのテーブルで勉強をしている写真を、娘がラインで送って来てくれました。

 なんでも、宿題をするために必要な教科書と親に渡さなくてはいけない連絡帳を学校に忘れて来て、そのために、今日出された宿題ができないというのです。
 そこで、娘は、宿題を提出できない理由を担任の先生に書かせ、その代わり、漢字の練習をして、明日提出させるというのです。
 孫は、母親に言われて、やむなく、先生へのお手紙と漢字の練習をしていたというわけです。

 写真で見る限り、泣きべそをかいているわけでもなく、書いた文章は丁寧なものですが、さほど良くないことをしたという風情は感じられません。
 大したことはないよくらいの笑みを浮かべ、そして、漢字をノートに写している写真です。

 その写真にノートの一部分が写っていました。
 よく見ると、どうもちょっと異なる漢字があるようなのです。
 つまり、それらしい字なのですが、一部、反対に書いている漢字がありました。
 文字を習い始めた子供がよくやることです。
 ひらがなでも、「あ」が書けなくて、「ま」のように書いたりします。

 きっと、文字の成り立ちなど知らずに、見たままを写しているから起きる現象で、やがて、勉強をしていくうちに正しく書けるようになるでしょう。
 ですから、あえて、娘に間違いがあるよとは連絡もしませんでした。

 さて、漢字といえば、もともとは絵で描いていたものを、簡略化して文字にしたものであることは誰もが知っていることです。
 これらを私たちは「象形文字」と言っています。

 漢字に限らず、古代エジプトの「ヒエログリフ」もまた、絵そのものを文字にしたものと思われます。 
 古代においても、洋の東西を問わず、目に見えるものをそのまま描くのですから、同じような形になるのは必然的なことです。

 もちろん、古代においても、見たままのもの以外に、数字とか、空間とかにある抽象的なものは、絵にしにくいものがあります。
 漢字では、それらを「指事文字」と言って、文字を形成する上での約束事を決めたり、あるいは、「印」を使って作り上げました。

 これなどは、粘土板に書かれたメソポタミアの「楔形文字(せっけいもじ)」と同じです。
 「楔形文字」は元々は絵文字であったようですが、それが粘土板に刻まれた理由のほとんどが、経済上の約束事を記録するためのものであり、つまり、売りに出す牛や馬の数、買うための土地の広さ、あるいは、穀物の量を記載していたものですから、楔を粘土板に刻んで事足りたというわけです。

 さらに、漢字では、「象形文字」と「指事文字」を組み合わせて、さらに複雑な意味を表そうとしました。
 「会意文字」や「形成文字」と分類されるものを作り出していったのです。

 その漢字で最古のものと言われているのが『雨』という字であると言われています。

 その理由は、『雨』という字が、「象形文字」の原型とも言われる「甲骨文字」にも見られるからなのです。
 「甲骨文字」とは、亀の甲や動物の骨を焼いて、入ったヒビの形から物事を占い、それを記録として書き残したことで今に伝わる文字です。
 
 きっと、殷の時代、土地を広げるための戦いや、作物の出来不出来、子が無事に生まれ育つかなどを占ったのだと思います。
 そして、「雨」の文字があるということは、おそらく、「雨」を期待する、もっと言えば、「雨乞い」する回数が、この時代多かったことを表しているということになります。

 作物を育てるのも、隣の土地を奪いにいくにも、あるいは、甚大な被害を及ぼす大河の氾濫を予測するのことにも、「雨」の字は、甲骨に多く刻み込まれたのだろうと思うのです。

 また、これは私見ですが、「雨」という漢字、普通は<天から雨つぶが落ちる>図であるように解釈されていますが、それと同時に、これは<家の中に、雨が入り込んでくる>図ではないかとも思っているのです。
 洞穴から出て、柱を立て、藁を葺いて、家を作るようになった殷の時代の人ではありますが、結構な雨が降れば、家の中に雨つぶが降り注いでくる、そんな図ではないかと想像したのです。

 もちろん、学術的には認められていないものでありますが、想像するだけは勝手です。
 私は、殷の時代の人が、肩を寄り添い、雨音を聞きながら、漏れ落ちてくる雨粒を恨めしく見ている姿を、「雨」の字から想ってしまうのです。

 そんなことを勝手に想う私ですが、どうも、想像ができにくい文字があるのです。
 それも、21世紀の今、人工知能が人間の能力のはるか上をいく時代にです。
 
 それが、『顔文字』というものです。
 1982年に、IBMのScott Fahlmanという技術者が、『 :-) 』(笑い) と 『 :-( 』(怒り) を発明したというのが最初とされています。
 
 現代人が何らかの出来事で滅亡し、数千年後、発見された一台のコンピューター、そこに残されていた『顔文字』が、未来人たちの私たち現代人のありようを解く鍵になるかもしれない文字です。
 さて、今日も読んでくれて、(,,´∀`p【゚*。+゚☆謝々☆゚+。*゚】q´∀`,,)

 こりゃ、未来人もたいへんだ。


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「国の歌」

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秋でもないのに、色づきも艶やかな葉が我が家の小さい庭の一角にはびこってきました。セダムやつるバラに混じって自分を主張しています。はて、この色づきの良い葉の名前、なんといったかしら……。


 自慢でも何でもないのですが、私は、三つほど、外国の国歌のメロディーを口ずさむことができます。

 一つは、「The Star-Spangled Banner」、つまり、アメリカ合衆国国歌です。
 あの<Oh, say can you see……>で始まる歌です。
 私は、冒頭のこの一節しか覚えていませんが、なぜ、アメリカ国民でもないのに、メロディーを口ずさむことができるのかと言いますと、たぶん、野茂選手や松井選手が活躍していた頃から、BSで中継されていた大リーグの試合を見ていたからだと思うのです。
 それ以外には、なぜ口ずさめることができるのか理由が見当たらないのです。

 さて、もう一つは、「La Marseillaise」です。
 フランス共和国のあまりに有名な国歌です。
 『カサブランカ』という映画で、酒場でドイツ軍士官たちが雄々しいドイツの軍歌を歌っている最中、踊り子やバーテンダーがその歌に反発して、La Marseillaise を大合唱するシーンがありました。
 でも、それだけでは、私の頭に、あのメロディーは入って来ません。
 
 「La Marseillaise」のメロディーは、いうまでもなく The Beatles の「All you need is love」なのです。
 全世界に衛星中継されたこの曲の冒頭に、「La Marseillaise」が高らかに響くのです。
 
 ところで、三つ目はというと、これが中華人民共和国の「義勇軍進行曲」なのです。
 中国語では、「行進」を「進行」とする場合がありますので、これは私の間違いではないことをまずお伝えしておきます。

 いうまでもなく、これは私が若き日、中国についての勉強をしていたことが大きな要因になっていて、アメリカやフランスの国歌の場合と大きく異なります。

 ただ、私が中国語の勉強を始めた時、教科書にも、あるいは、生の中国語を聞くために夜中、ラジオをいじって北京放送を探していた時も、「義勇軍進行曲」は聞くことがありませんでした。それより、毛沢東を讃えた「東方紅」という曲が、まるで、中国を代表する歌のように聞かされていたのです。
 ですから、「东方红,太阳升,中国出了个毛泽东。他为人民谋幸福,呼儿咳呀他是人民的大救星。」と歌詞を含めて、今でも歌えるほどなのです。

 私が中国の勉強を始めた頃、中国では文化大革命の真っ最中でした。
 当時、世界は中国で何かがおきていることは薄々はわかってはいましたが、その内容は厚いベールに包まれたままでした。

 中国国歌「義勇軍進行曲」を作詞した方は、田漢という方です。
 彼には日本留学という経歴がありました。
 筑波大学の前身である東京教育大学で学んていたのです。
 実は、そのことが文革の際に、問題になりました。
 田漢の芸術の根底には、日本文化があるというのが、それです。
 そのため、私が勉強を始めた頃、田漢の書いた「義勇軍進行曲」は封殺され、代わりに、毛沢東礼賛の「東方紅」が何かにつけて歌われていたのです。

 田漢の作詞した「義勇軍進行曲」は、文革もだいぶ過ぎて、1982年に国歌として認知されました。

 そんな中国の国歌のメロディーを何故口ずさめるのか、きっと、日中の国交が回復し、そのことで、私はかの国の「国の歌」を覚えたのだと思います。
 日本と中国が互いに手を携えて、アジアの未来を作り上げるという青年らしい純粋な思いで、かの国に敬意を持って、覚えたに違いないのです。
 
 それにしても、この3つの国の歌の内容をそれとなく調べて見ますと、強烈なものがあります。
 「砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中 我等の旗は夜通し翻っていた」は、アメリカ国歌。
 「子どもや妻たちの首を切るために奴らは我々のところへやってきているのだ!さぁ、武器をとれ、市民たちよ」と、これはフランス国歌です。
 
 そして、中国国歌は「起て!奴隷となることを望まぬ人びとよ! 我らが血肉で築こう新たな長城を! 中華民族に最大の危機せまる、一人ひとりが最後の雄叫びをあげる時だ。」となります。

 どれも、激しい戦いを経て、国を作って来た国のありさまがうかがえて興味深くあります。
 彼らは、イギリスから、王制から、列強からの圧政をはねのけて国を作り上げて来たことを、そして、その誇りを忘れないように、その「国の歌」に刻み込んでいるです。

 それに比べて、我が国の歌は、それらとは一線を画しています。
 
 中には、天皇礼賛であるとか、全体主義の兆候があるという方もいますが、私はそうは思いません。

 『古今集』の中にあった一首は、大切な人の平和で素晴らしい時代が永遠に続くことを願う最上の愛を歌ったものであると思うからです。

 敵を倒せとか、飢えたものよ支配者をぶっ倒せとか、そんな無粋な言葉など一切なく、ただ愛を述べている歌であるのです。
 その「国の歌」こそ、日本が大切にしなくてはいけない心がこもっているのだと思っているのです。


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自由の国ーニッポン

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トマトが色づき始めました。これが採れると夏真っ盛りという感がします。梅雨の雨をたっぷりと浴びて、夏の太陽の光を吸い込んで、甘く、どことなく酸っぱく、そして、香りを楽しむのです。


 シリアからの難民が海を越えて、あるいは陸伝いに、ヨーロッパの端にたどり着き、そこから各国を横切り目的地のドイツに至るという、そんな過程を追ったドキュメンタリー番組を見たことであります。

 ある国は国境に警備隊を配して彼らの入国を拒みます。
 そこを通れないとわかった彼らは迂回して、ドイツへの道をオープンにしている国を目指します。彼らが通るルート沿いにある村では、露骨に困惑を示したり、あるいは、宗教的義務で彼らを受け入れたりと様々な姿を見せます。

 シリアからすべてを投げ捨て難民になった彼らはどうやってルートの情報を得て、そして、目指すドイツの情報を得ているのかと、関心を持って映像を見ていました。
 女子供、それに年寄りを抱えての難民行の中で、元気に振舞っているのが若い男たちでした。
 そして、その手には、いつもiPhoneが握られていたのです。
 
 つまり、彼らはiPhoneで祖国に残った仲間から、あるいは、すでにドイツに暮らす仲間から、そして、信頼できる通信社のニュースソースを元に、情報を得ていたのです。
 得た情報から、ドイツに至る途中の国で施設に入るか、それとも、もうしばらく辛抱して、ドイツを目指すか、あるいは、条件が整えば、フランスに入るかの判断をしていたのです。

 私は、この人たちはどこの会社の電話回線を得ているのだろうかと思い続けて、番組を見ていました。

 シリアの携帯電話会社なのだうか、それとも、ヨーローッパ全土を網羅する大手の会社なのだろうか、銀行口座から引き落としができなければ、即座に、通信回線は遮断されるはずだから、ある程度のお金の融通がつく人々が難民になっているに違いないと思ったのです。

 そして、iPhoneを手にすることのできない人は、シリアから出ることもできないに違いないとそうも思ったのです。
 
 イランという国があります。
 ついこの間、5月19日に選挙があり、現職のロウハニ大統領が再選を決めました。
 彼は、穏健派の代表です。
 そのことが、イラン国民にロウハニを選ばせる大きなポイントになりました。

 そして、選挙の投票日にイラン国民が驚く事態が起きていたのです。

 イランは自国が唱える革命に対する批判的な意見を封じ込めるために、サイトの検閲を強化して、不適当なサイトはアクセスができないようにしていたのです。
 しかし、この日は、すべてのネットに自由につながったのです。
 そのことが、ロウハニ支持者たちに投票を促し、ロウハニの勝利につながったというのです。

 ネットのありようは、体制をもひっくり返す力を持ち、ネットから得た情報は無防備の難民たちに行くべき道を指し示しているのです。

 しかし、5月19日の選挙の日以外、ネットが規制される中で、イラン国民はどうやって「情報」を得ていたのでしょうか。
 それは、シリアの難民の通信事情と相まってますます疑問を私に与えるものとなりました。

 思い出すことがあります。
 それはポーランドにおける『連帯』運動のことです。

 東西冷戦で世界が分断されていた時代のことです。
 ポーランド当局は、西側世界は青年たちは髪を伸ばし、汚い服装で、自堕落な生活をしていると喧伝し、自分たちの社会こそが最上のものであると教えられ、疑うことを知りませんでした。
 食べ物の配給があれば長い列に並び、ないものは欲しがらないという、慎ましやかな生活に甘んじていました。

 ところが、誰が最初にしたのか、中華鍋のようなものを屋根に掲げ、電波を拾い始めたのです。
 その電波から、西側の世界の様子が映像で見えて来ました。
 バナナが山のように積まれ、そればかりではなく、それを得るために並ぶ姿もありません。
 確かに、若者たちは髪を伸ばし、薄汚れたジーンズを身につけていますが、あふれんばかりの笑みを浮かべて、街を歩き、恋をしている姿がそこにあったのです。

 パラボラアンテナから衛星電波を拾い、西側のナマの姿を目にしたポーランド人たちは、自分たちが騙されていたことに気がつくのです。
 それが『連帯」運動の高揚につながり、社会の変革につながっていったのです。

 シリア難民のiPhone、イランの選挙でのネットの開放というのは、あの世界を変えるきっかけとなったパラボラアンテナであると言えます。それも、高性能な<アンテナ>です。

 私たちはネットに接続するとき、IP接続というのを用いて、安全に通信をしています。
 しかし、彼らが使っているのは、それではなく、Virtual Private Networkというもので、日本語にすると「仮想私設網」となります。
 つまり、安全性には脆弱性があるも、既成の専用回線の隙間を使って、ネットに接続できるという抜道みたいなものなのです。

 国家によって、情報が遮断されても、その国の人々はこの「抜け道」を使って、自分たちが生きるための情報、自分たちが望む情報を獲得しようとしているのです。
 
 そんなことを思うと、ニッポンという国はありがたい国です。
 いろいろな意見を述べることができる国で、さまざまな意見を世界中から、何の規制もなく、手にいれることができるのです。
 このことは何としても守り通していかなくてはなりません。


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造反有理世代からゴールデン・ジェネレーションへと格上げ?

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枯れたと思い鉢置き場に放置していたひと鉢からこんな綺麗な花が咲きました。毎年、タネをとり、手をかけて、そこから花を咲かせてくれるアサガオが今年は随分と成長が遅いのに反して、何もせずにいた、名も忘れたこの花に謝りつつ、いちばん陽の当たる場所で、今、我が世の春を満喫してもらっているのです。


 若い頃のことです。
 世の学者は、今高齢者となっている私たち世代のことを「造反有理の世代」と呼びました。

 その世代の少し上、戦争の時期に少年時代を過ごし、戦争の実相を見知っていた世代に対しては、戦後すぐ流行ったジェームス・ディーンの主演作にかけて、「理由なき反抗の世代」と呼んでいましたから、その言葉のあやから「造反有理」と言う言葉が出てきたものと思われます。

 そもそも、「造反有理」とは、中国における文化大革命時に、反右派闘争に血眼になる若い紅衛兵たちの行為を正当化するために唱えられた言葉です。

 「造反有理の世代」とその後の世代は、おそらく、日本歴史の中で、もっとも豊かな時代を経験し得た最初の世代ではないだろうかと思うのです。
 
 戦争を体験していない世代であること。
 日本経済が着々と成長していくありようをまざまざと見てきた世代であること。
 産業革命にも匹敵するIT革命の中に身を置いたこと。

 私はこれらが「造反有理の世代」の特徴であると分析しているのです。

 造反有理、つまり、反対するのにはいささかの理由があると言うのですから、反対する理由がなくなれば、この世代は「造反」をやめて、社会を「肯定」的に見て、ものごとを積極的に行うことができる世代でもあると言えます。

 ヘルメットをかぶり、角材を手にした学生が、翌日には学帽をかぶり、角材を捨て鉛筆を握って勉強に集中することに何ら違和感を持たないのがこの世代の特質です。
 もっとも、中には、思想を先鋭化させ、武力闘争に突き進む人間もいます。
 最初から、「ノンポリ」で、ギターを手に、フォークソングを歌う人間もいます。
 そう言う雑多な人間が同時に生存できる時代に、この世代は青春を送っていたのです。

 ひと世代前の「理由なき反抗世代」とここが違うところです。
 彼らは、戦争を知っています。
 実際、戦場には出て行かなくても、B29が空を埋め尽くすように低空で飛来してくるのを目にしているのです。
 同時に、学校で、地域で、国のために命をかけることを教わり、自分たちもそうあるべきであると思って生きてきた世代なのです。
 
 ですから、70代になった彼らは、常に、倹約こそ美徳という精神構造を持っています。
 そして、筋が通っていないことに腹をたてるのです。
 
 日本が意気盛んに戦争に突入し、勝った、勝ったと喧伝され、それを聞いて、自分もやがては戦場に出てと思っていた彼らが、ある日突然、降伏という事実を知らされるのですから、その失望感たるや理解を超える衝撃であったに違いありません。
 でも、彼らは生き残ったのです。
 だから、戦後のあの時代を必死で生き、必死で働き、戦後の高度成長の礎を作ることができたのです。

 それに比べると、造反有理の世代は、実にあいまいであります。
 
 家に、洗濯機が入ります。扇風機も入ります。そして、テレビなる摩訶不思議な箱も入ってくるのです。
 高嶺の花であった車も、その後しばらくして、家の中に入ってきます。

 テレビは、アメリカの豊かな文化をこれでもかと私たちの目に焼き付けて行きます。
 英語を喋ることができれば、金を稼げるとわかり、学校の勉強としてではなく、金を稼ぐために英語をものにする人が出てくる反面、学校でこれでもかこれでもかと英語を突きつけられ、英語そのものが嫌いになっていくという相反する現象が同居していった時代でもあるのです。

 この同居現象は、その後のIT革命でも見られました。
 パソコンを積極的に駆使したものとそれを拒んだものとの併存です。

 今、造反有理の世代は、ゴールデン・ジェネレーションと名を変えて、5、60代を過ごしています。

 自分でプロヂュースする旅を好み、つまり、あり合わせの旅を拒み、一点豪華主義ではないですが、車に凝ったり、船をもったり、あるいは、流行りのスポーツに興じたり、歳いってもロックに心を焦がしたりするのです。

 若き日に、経済的な事情とか、家庭的な事情で、断念していたことを、今になってやりだしたのです。
 それが高齢者らしからぬありようとなり、子育て真っ最中の3、40代の次の世代以上に消費を続けるのです。
 皮肉なことに、高度成長期を傍目で見ながら、おいらには関係ないさと嘘ぶっていた世代が、今の日本のささやかな成長を支えているのです。

 ひと昔前のように、老後のために金をためておこうなどと謙虚で慎ましやかな心がけなど持たないこの世代は、「人生は短い」「金など残して何になる」とパッと使っているのです。

 若い時がそうであったように、何とかなるのがこの世の中であると知っているのです。

 どうやら、私たちの世代は、日本歴史の中で特質すべき世代であるようです。
 何せ、造反有理として、言いたいことを言い、好きなことをして、雑多なありようを目にして、それを受け止めてきたのです。

 仕事も一流、遊びも一流をモットーにして、日本経済の安定的発展期を支えてきたのですから、この世代が、老いたからと引き下がるはずがありません。

 これからが「我らの時代」の総仕上げなのです。

 果たして、「ゴールデン・ジェネレーション」へと進化した「造反有理世代」は、これからの10年をいかに過ごしていくのか、大いに見ものではあります。


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男の足

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私はキャラと申します。主人の家に来て、かれこれ7年にもなります。暑い夏はエアコンを効かせて、冬は洋服を着せられ、なかなかっここち良い生活をさせてもらっています。あえて、クレームをつければ、ご主人様同様に太るという理由で食事制限をさせられているということです。公園で出会う私の仲間たち、とりわけコーギーは皆そこそこ太っているのに、私だけ痩せているのです。でも、健康であることが何よりです。そうそう、ついこの間、食事もシニアになったんですよ。


 夏は半ズボンに限る。
 とは言いながらも、半ズボンで電車に乗ることにはいささか抵抗があります。
 
 教師をしている時、そんな姿を保護者や生徒に見られたら、示しがつかないという危惧がありました。
 学校で、服装や、言葉遣いに対して口うるさく(生徒から見て)言う教師が、いかに、プライベートな時間だからと言って、半ズボンで、ビーチサンダルを履いて、電車に乗っていれば、それはちょっと違うんではないかと訝っていたのです。

 その考えは、教師を辞めたからと言って、すぐに改まるものではありません。
 やはり、不特定多数の人がいる場所に行くときは、それなりの服装でなければならないと言う強迫観念が強く働くのです。

 スーツを着て、ネクタイを締めて、革靴を履いて……、たったそれだけのことです。
 女性であれば、今日はワンピースがいいかしらとか、暑いから日傘もとか、色合いはどれがいいかしらとか、実際女性ではないのでよくわかりませんが、そのように、出かける際にはあれこれと悩むのではないかと思っているのです。
 それに比べれば、男など楽なもんだとも思っています。

 たまに、イギリスを舞台にした文芸作品なる映画を見ることがあります。
 あのイギリスの英語の発音や中世のイギリスの古い街並みや服装を見るのが楽しいからです。

 あの当時、具体的ではありませんが、例えば、ショエクスピアが描いた時代の映画では、男たちは、素足だか、あるいは、日本のももしきだかわからないようなものを着用していました。
 腰回りにはブルマのように膨らんだパンツをはき、しかも、色とりどりの生地が縫い合わされています。
 時には、股間がもっこりと、いうならば、体操選手が着用するような体にぴったりのパンツを履いているのです。
 そうした男たちが闊歩する中世の街に私が置かれたらと思うとゾッとするのです。

 一方、女たちは地を這うように長いスカートをつけて、それも数枚の布を束ねた、日本の十二単のようなスカートをはき、その美しかったであろう御御足を見せることはありませんでした。

 つまり、現代とは逆に、男は足を出し、女は足を隠していたということです。

 そういう意味では、男が足を隠すズボンを着用するようになったのは、なんらかの時代背景があったものを想像をします。

 そう、産業革命です。

 あのブルマで両足をニョッキと出した姿では、機械を動かし、油まみれになって働くのは難しいでしょう。
 
 日本が明治維新を経て、欧米の先進的な産業を受け入れた時に、袖のある着物、そして、裾が広がった袴を捨てて、ワイシャツにズボンになったことからもわかるように、生活の変化の要求から、服装というのも変化して行くものなのです。

 働き方改革で、自宅で仕事をしたり、子供を連れて会社に行ったりするようになれば、当然、服装にも変化が生まれてきます。
 今、社会の最先端にいるIT関係の人たちで、スーツにネクタイをしている人などいないと思います。
 そういう紋切り型の服装をしていては、先進のアイデアなど生まれ来ないのです。
 ジョブズがアップルの製品を紹介する際のジーンズ姿を見て、企業のトップが若者受けを狙って、あの姿になっているのかと最初は思っていましたが、そうではなく、心の解放がその姿に出ていたことを知り、教師であった私はその姿に憧れを持ったものでした。

 公立の学校などは、先生も生徒もジャージで過ごすことが普通ですが、私立学校にいた私には、生徒を指導する上で、容易に軽装になることは容認しがたいものがあったのです。

 最近のレストランは、ドレスコードもさほど厳しくなくなりました。
 だから、軽装でレストランに入ることもできますが、あまりに軽装、例えば、セーターだけだと、周りの客からはかえって浮いてしまい、美味しい料理を食べた心地がしないと言うことにもなりかねません。
 だったら、スーツとは言わないでも、ジャケットをつけていればなんとか、気まずい雰囲気は免れると、常に安全安心志向を持ってしまうのです。

 まあ、一種の職業病ともいうべきものなのでしょうが、その職業から足を洗ったのですから、半ズボンで、ビーチサンダル、それにサングラスをして、出かけてもいいのではないかと思うようになったのです。
 ロミオのように、ブルマを履いて、両足をニョッキと出して、先のとんがった靴を履くわけではないのですから、そのくらいの自由な服装をしても、なんの問題もないのではないかと。

 私はどうも、服装に関しては保守的な傾向が強いようです。
 ですから、今度、ゴールドコーストに出かけた折には、思い切り、自分を解放して、かの地に即した服装を試みてみようと思っているのです。
 
 そんなことしなくたって、つくばの街で、まもなくやってくる炎天下の夏に、やればいいではないかという声が聞こえてきます。
 それもそうだなと思うのです。

 さて、それでは両足を出して、サンダルを履いて、つくばの街を歩き、ついでに、つくばエクスプレスに乗って、浅草あたりにでも出てみようかとも思うのですが……。


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アジアにはその芽さえも出ていません

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自然の意匠と言っては大げさですが、草花が世界に示す姿は人の心をハッとさせます。そして、それらが群れて、私たちの眼の前に現れると、ハッとする気持ちに、時に、ドキッとする気持ちが加わるのです。この薄緑の草も、こうしてみると、砂漠の姿にも、あちらこちらで爆発してる煙にも見えてしまうのです。


 1984年、フランス大統領ミッテランとドイツ首相コールが、第一次大戦の激戦地ヴエルダンを共におとづれて、仲の良い子供のように手をつなぎました。
 映画『西部戦線異常なし』でしか、その戦争のことを知りませんが、互いに憎しみあった仏独両国が手を握り合ったことは確かに歴史的価値のある出来事であり、その結果がEUという形で結実していることは素晴らしいことであると思います。
 そのコールが亡くなり、新聞は「偉大な欧州人を失った」と書きました。
 新聞は、彼を、ドイツ人ではなく、ヨーロッパ人と表現したのです。

 ヨーロッパは、二度の大きな戦争を体験し、国土は疲弊しました。
 国土が疲弊すれば、経済も衰退し、人心もまた荒廃します。
 欧州を支配していた<帝国>は瓦解し、古き良き懐かしきヨーロッパは過去の遺物となっていったのです。
 欧州の果てには強大な力を持ち、考え方のまったく異なる<ソ連>が台頭してきました。
 太平洋の向こうでは、自分たちヨーロッパ人に変わり<アメリカ>が大国としての位置を確固としたものにしてきました。

 ヨーロッパ人たちは、<ソ連>や<アメリカ>が脅威になる前から、自分たちの地域が近い将来、危機的状況を迎えることを察知していました。
 その焦りが、ヨーロッパ人同士の戦争を誘発してもきたのです。
 その中で、日本人を母に持つオーストリアの貴族クーデンホーフ・カレルギー(日本名・青山栄次郎)らが、「汎ヨーロッパ運動」を唱えるのです。
 ドイツの作家トーマス・マンはこれに同調して、「ヨーロッパ的ドイツたれ」と述べます。

 まさに、EUの基本的な考えがここに成ったのです。

 しかし、アメリカに端を発する世界恐慌が起こり、ソ連はソ連、ドイツはドイツという、体制は異なりますが、一種の保護主義が台頭してきます。
 ヨーロッパの理想は一時的に悲惨な中断を余儀なくされるのです。

 しかし、国と国が国境をなくし、通貨を共通にして、行き来を自由にするという夢のような仕組みをヨーロッパ人たちは捨てることはありませんでした。
 自由・平等・博愛を精神に持つフランスを中心にヨーロッパは夢の実現に向かって言ったのです。

 その担い手の一人が亡くなられたコールであったこと、その政治精神を受け継ぐのが、コールが見出した現在の首相メルケルなのです。
 そして、衝撃的な当選を果たしたフランスの新大統領マクロンと新たな役者が出揃いました。
 
 今、アメリカの金銭的保護主義、ロシアの新たな拡張脅威、加えて、イギリスのEUからの無気力脱退という困難を前にして、ヨーロッパは、独仏という両大国の指導者の手腕に、ヨーロッパの見果てぬ夢の実現に向けて、歴史的な歩みを始めたのです。

 試練は、理想を実現するエネルギーを与えてくれます。
 同時に、試練は、それを挫けさせ、夢をはるかかなたへと押しやりもします。

 アジアに目を移します。
 
 中国が圧倒的な人口を背景にして、アジア全体にその威を張ってきました。
 清王朝の眠れる大国は遥か昔の話、今は、経済をテコに、世界中にその力を誇示するまでに成ったのです。
 中国国内は、言うなれば、ヨーロッパと同じ状況下にあると言ってもおかしくはありません。
 まず、言語は、広東や四川、上海、北京とそれぞれ異なります。それは、ドイツ語があり、フランス語があるヨーロッパとまったく同じです。
 しかし、ヨーロッパにはないものを中国は持っていました。
 それは「漢字」という共通の文字です。
 もし、「漢字」がなければ、中国もヨーロッパと同じく、広東省ではなく、広東国であり、四川国であったに違いありません。
 それがユーラシアの定めであるかのようにです。

 中国が「漢字」を手にして、自国内で穏健にしている間は、アジアには波風が立つことはありません。
 しかし、中国が、経済力と中華民族の野望を露骨に出してくることで、事態は大転換をします。

 かつてのシルクロード沿いに加えて、明王朝の鄭和が航海したルートにも中国は、その影響力を行使しつつあるのです。
 それは、日本も、アメリカも抵抗できない強い力で推進されています。
 時には、国際法を否定してまでも、強硬手段に打って出てきているのです。
 しかも、政治体制が、著しく異なる中での世界進出です。

 あえて、それに異を唱えて、明確に対抗し、また、その力を有しているのは、アジアでは日本とインドだけです。
 日本が、国際法の遵守と力による現状変更をやめるよう、声高に発言しても、一向に耳を貸さないばかりか、一方的な見解による歴史事項を差し出し、歩み寄りを示してきません。

 ヨーロッパには、ヨーロッパ人の自分たちの土地と文化を守るための大同団結の風潮が生まれました。
 それは文化の成熟と人間が争いに走るのではなく、お互いを理解することで、平和と安定を保とうとする当たり前の精神がそこにあったからです。

 しかし、アジアにはまだその芽さえも出ていません。

 かつて、欧米列強に国土を奪われ、唯一アジアで、日本がその欧米に伍した記憶の反動として、そこには、必要以上に自国を優先する保護主義的な風潮がのさばっているのです。


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千年の王城の地と、300年の徳川恩顧の地

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公園の花壇に植えられていた小さな花、名はわかりませんが、寄り添って、梅雨空の下、見事に咲き誇っていました。道行く人の歩みを止める花のように……と思いながら、それを眺めていたのです。


 天皇陛下の退位に向けた特例法が、参議院本会議で可決成立したのを受けて、6月13日の閣議で特例法の公布が決定しました。
 これに伴い、16日には、その旨が官報に掲載され、遅くとも3年後の2020年6月までに今上陛下が退位されることが確定いたしました。

 天皇退位は、江戸期の光格天皇以来、およそ200年ぶりの出来事です。
 生涯、天皇であり続ける仕組みとなった明治以降ではもちろん初めてのこととなります。
 今上陛下は、ご退位後は「上皇」になられます。

 これを機に、「上皇」さまには、京都にお戻り願いたいと言う意見も、京都の街にはあるようです。

 文化庁が京都移転を企図していますから、政府には、天皇は東京に、上皇は京都にと言う腹づもりでもあるのでしょうか。

 現に、京都にある御所は今でも、いつでもお使いいただけるように整備されていますし、時折は、海外からの賓客にご宿泊いただいていると言いますから、「上皇」がお暮らしになるにあたっても、なんら差し支えないといえます。

 代々、長らく、歴代の天皇の御在所は、京の都でありました。
 京の都は、東京などと比べると、そして、アメリカ軍の空襲を受けなかったことから、日本の古くからの街の形が残っている場所でもあります。
 ですから、「上皇」が京都の街にお暮らしになることは、天皇家にとっても、日本民族のありようにとっても、意味のあることであるとも思えるます。

 日本は曖昧なままことを運ぶことに長けた国です。
 それは、決して悪いことばかりではなく、相手を傷つけないようにするために、物事を曖昧にしておくと言う一種独特の風潮を持っているものでもあるのです。

 京都と東京という「都」のあり方についても、曖昧なまま、ことを運ぶという風潮が反映されています。

 歴史的には、明治の維新の折、京から江戸改め東京への「遷都」が正式にはなされていないと言うのが定説になっています。
 
 慶応4年8月、15歳で即位した帝は、元号を「明治」と改め、9月20日に東京行幸に向かいました。警護の兵は、長州・土佐などの藩兵で固められました。
 一ヶ月後、江戸城に入り、即日、江戸城は東京城と名を改めたのです。

 しかし、程なく、同じ年の12月8日には、明治帝は東京を離れ、京都に還幸遊ばされるのです。京都に戻った若き帝は、先帝の三年祭と立后の礼を行ない、翌明治2年1月25日に再び東京への行幸がなされるのです。
 
 欧米列強の脅威を背に感じながら、同時に、千年の王城の地と300年培ってきた徳川幕府恩顧の地との力関係も視野に入れての若き明治政府の曖昧な思い、同時に、それは両者に思い入れを施す思いでもあったのです。

 しかし、京都から、刑部省・大蔵省・兵部省などの役所が廃され、着々と東京に政府の機能が移されていきました。
 それでも、天皇家の大切なまつりごとである「大嘗祭」は京都でなされることが定められ、また、大正、昭和と続く天皇のご即位式も京都でなされたのです。

 今上陛下がご即位あそばした29年前の出来事を覚えていますが、あれは、有史以来、初めて、京都を離れて、東京でなされた式典であったのです。
 おそらく、皇太子のご即位も、今上陛下にならって、東京でなされるはずです。

 このように見て行きますと、京都の街が「上皇」のご還幸を心底願う気持ちもよくわかります。
 千年の王城の地として、おつとめを終えられた天皇陛下が、ご存命中に、ご先祖がお暮らしになられた京の街にお戻りになられることは、何よりの名誉だからです。
 天皇陛下は、東京にあって、日本国憲法のもと象徴としてのおつとめをなされ、「上皇」になられたら、京の都で、ご研究やお好きなことを自由にされるのです。
 時には、京都の繁華街をご散策されていたり、あるいは、お車を運転されて、嵐山あたりにお出かけになったり、私たち日本人がするように、お好きになされるのです。

 きっと、そうした「上皇」のお姿は、これからの日本人の働き方、生き方、在り方にも大きな影響を与えて来るものと思われます。

 明治から150年が経過し、千年の王城の地と、300年の徳川恩顧の確執もありません。
 むしろ、大きくなりすぎ、何もかもが集中しすぎた東京から、京都・大阪に少しでも政府の組織が移ることは大きな価値があると思うのです。
 
 しかし、文化庁の京都移転は目標の2020年には難しくなったと言います。
 お役目につかれている方々には、ぜひ、今後100年の日本の形を念頭に置かれて、「上皇」がどこにお暮らしになられたらいいのかをご検討していただきたいと思うのです。

 しかし、よく考えて見ますと、「上皇」は、東京でお生れになり、疎開先も北関東、美智子さまとお逢いになられていたのも軽井沢となれば、京都で暮らすということに少なからず違和感があるかも知れません。

 はてさて、千年の王城の地と、300年の徳川恩顧の地がいいのか、勝手に議論することが憚れる次第ではあります。


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もっと、もっと、もっと、未来を!

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浜辺に横たわる子供。水を怖がり、波の音に驚き、それでも、浜辺に横たわり、いつもと違う光景の中で、じっと腕の中に囲い込んだ水を見つめています。大人だって、海を見たとき、波の音を聞いた時、心がワクワクするのですから、子供であれば、それは大人以上です。なりふり構わず寝転がりたがるものです。


 国会が閉会し、内閣支持率が下降しました。

 首相は、対応策として、この秋にも内閣改造を意図しているようです。
 一方、野党の議員たちは、この数字に、幾分溜飲を下げたものと思われます。

 経済では、日経平均が2万円台に一時的に届いたことが速報で報じられる程度の話題しかありません。
 TPPは影を薄め、IAABが影響力を強めつつあることも不安材料になっているようです。

 このような風潮の中、まるで日本がダメになっていくかのように、マスコミは、時代は混沌とし、閉塞感が漂っていると報道をしています。

 でも、私は「日本は大丈夫!」と言いたいのです。
 つくばでも、東京でも、これだけものが豊かにあるではないですか。

 美味しいパンも、珍しい日本海の魚も、オーストラリアからの柔らかいお肉も、つくばでは容易に手に入るではないですか。
 マッカートニーのコンサートも、京劇の公演も、プロ野球も、卓球もラグビーもサッカーも、東京ではやっているではないですか。

 それでも、心配しなくてはいけないのが、無口な政府と独りよがりな野党の議員の噛み合わない議論の行く末です。

 政府は、国民が納得するように、雄弁にものごとを語らなくてはなりません。
 野党は自分たちがどのくらいの国民から支持を受けているかを知ることが肝要です。

 ある野党の有力議員が、自分が政府を執拗に追及するのは、自分を議員にしてくれた有権者への期待に応えるためであると述べました。
 一見、まっとうな見解のようですが、そのような考え方では政権を担える人材とは言えません。
 自分を支援してくれた人たちの利益を尊重することと、国の利益を尊重することを同等に扱うことは間違っています。
 後者を、前者より優先していくのが国会議員の務めです。

 市町村の議員ではないのですから、そんな了見の狭いことを言っているようでは国政を任せることはできないことを、有権者は知っているのです。
 それが、政党支持率に端的に出てくるものなのです。

 国会という場で、選ばれた議員は、もっと、もっと、もっと未来への展望を語って欲しいと念願するのです。

 仮に、彼らによって、なんらかの「未来」が話し合われていたとして、一部の野党が執拗に問いかけてくるつまらない出来事ばかりを表面化して、肝心要の議論が表立って出ないと言うのなら、それは明らかにマスコミの怠慢であり、責任のなさであると思われます。
 マスコミもまた、未来への展望を語ると言う役目を放棄していることになるのです。

 もっと、もっと、もっと、未来を展望していかなくてはなりません。

 この春、つくばで唯一の名のあるデパートが閉店をしました。
 銀座に行っても、あの名のある百貨店が消えて、何やら姿を変えて、そのため、大いに繁盛しているようです。
 品物の良し悪しを価格で決める、あるいは、買った場所で手にするものへの価値を評価する、そういう時代が終わったことを、どうやら多くのデパートの関係者はわからなかったようです。
 そればかりではなく、どこもかしこも皆、一様に同じにしてしまったことが、消費者の乖離を促してしまったことを悟らなくてはなりません。

 そんなことを考えると、学校もそうではないかと思うのです。
 生徒数は少なくなっているのに、どの学校も同じように百年一日のようなあり方に安住してはいないでしょうか。

 もっと、もっと、もっと個性を出さなくてはなりません。

 あのデパートに行けば、自分の欲しい帽子が、選ぶのに困るくらいある。
しかも、店員が自分のスタイルにあった帽子を選んでくれる、そんな安定感のある個性です。
 あの学校に行けば、生徒の考えていることを引き出してくれて、その生徒の行くべき道へのヒントを的確に指し示してくれる、そんな当たり前の個性です。

 ひとたび、そのありようが利益をもたらすとなると、皆、それを真似て、結果、皆が同じになって、つまらないものになり、飽きられてしまうのです。

 個性は、品物を売るだけではなく、また、学業を授けるだけではなく、文化を売り、感性とか未来を与えてくれるものなのです。
 だから、それらを持っている店や学校は大いに注目を集めるのです。

 私も高齢者の一人になっていますから、言いにくいことなのですが、今、もっとも溌剌としているのが、この高齢者ではないかと思うのです。

 高齢者にもいろいろありますから一様ではもちろんありません。
 しかし、先の見えるような年齢になっても、未来を語り、個性を出していくことにかけては、誰にも負けないくらいの意欲を持っていると思っているのです。

 ですから、もっと、もっと、もっと、ファッショナブルに装いをしていこうと思っているのです。自分も、住んでいる家も、やることすべてに、もっと、もっと、もっと、おしゃれになっていこうと、そう思っているのです。


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レノン=マッカートニー 

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笠間の陶芸美術館に出かけた折、隣接する公園でトランポリンに興ずる子供達に出くわしました。夢中になって、真剣になって、飛び上がっている子供達の表情は生き生きとしていました。そんな表情を描いてみました。


 ジョン・レノンの『イマジン』が<世紀を代表する歌>に選ばれました。
 そしてまた、『イマジン』の共作者に、オノ・ヨーコが、アメリカの音楽出版協会から認定されました。

 レノンは、生前、『イマジン』の発想を妻であるヨーコから授かっていると発言していましたし、ヨーコを共作者にできなかったことにいくばくかの悔悟の念を持っていましたから、今回のことはその思いを叶える出来事でもあったのです。

 <レノン=マッカートニー>ならぬ、<レノン=オノ>という素晴らしい創作者の誕生であると言えます。

 そのマッカートニーも、以前から、ヨーコがいなくては『イマジン』のような曲をジョンが生み出すことはなかったろうと述べていますから、この素晴らしいクリエーターの誕生は価値あるものとなるに違いありません。

 レノンがビートルズから離れて、最初に発表した曲の一つに、『マザー』というのがあります。

 彼の叫ぶような歌声が印象的な曲で、彼が持つ天性の才能がいかんなく発揮されたものでした。きっと、この曲で、彼はビートルズという巨大なバンドから自らを解放し、内に秘めていた率直な思いを、純粋な形で表現し得たのではないかと思っています。

 そう思うと、その内に秘めた、彼の原点とでもいうべき、心のありようを率直に表現させ得たのも、この時期、ひとときも離れることのなかったヨーコの存在なしにはあり得なかったのではないかと思うのです。
 つまり、ビートルズの時には、マッカートニーが彼のそばにいて、刺激をしあいながら、後世に残る曲を作り上げていき、ビートルズを離れてからは、ヨーコがそばにいて、ビートルズにも及ぶとも劣らない曲を作り出していったとも言えるのです。

 ビートルズの革新性は、音楽に限らず、社会、文化に多大の影響を与えたことは、すでに、学問レベルで研究され、実証されています。
 そして、その影響は今も続いているといっても決して大げさなことではないのです。

 そして、その革新性の最たるものが、<レノン=マッカートニー>という創作スタイルであったのです。
 それは、まだ、場末の盛り場で酔客を相手に演奏し、下品な言葉で喝采を浴び、酔狂な振る舞いで時には顰蹙を買っていた時代のことです。
 そんな彼らが、真剣になるひとときがありました。
 それが、二人して曲を作る時でした。

 一人にアイデアが浮かぶとそれをギター一本で演奏するのです。
 もう一人は、そのアイデアに一つ足したり、あるいは一つ削ったりして、曲を完成していきます。そして、最初にアイデアを生み出した一方が、その曲のボーカルをつとめるのです。

 私たちは、マッカートニーがメインで歌っていれば、それはマッカートニーが最初にアイデアを出したのだとわかるのです。

 分野は異なりますが、私がビートルズと同じくらい尊敬し、そのゆえ、彼らの作り出したアイデアを受け止めているものがあります。
 アップルのコンピューターです。

 アップルの商標を巡って、彼らがビートルズと裁判で争ったことがありますが、それも、一興であると思っています。

 ガレージでアップルコンピューターを作り上げる姿は、<レノン=マッカートニー>が狭い部屋で、あるいは汚い楽屋でギターを寄せ合って曲を作った姿によく似ています。
 
 ガレージに集っていたのは、いうまでもなく、あのスティーブ・ジョブスと、スティーブ・ウォズニアックというヒューレッド・パッカード社の技術者でした。
 彼らが、アップルと名付けられたパーソナルコンピューターを作り上げ、紆余曲折を経て、世界を変える発明を続々と発表していったことはいうまでもありません。

 今、この文章を書いているのは、いや、キーボードを打っているのは、MacBook Proですし、この時間、メールが大量に送られてくる時間帯で、MacBook Proの脇に置いてあるiPhoneが盛んに着信音を立てているのです。
 そして、彼らの後継者が作り出したApple Pencilが今、我が家に向かって移動中で、1週間後には新しく発表されたiPad Proが手元に届くはずです。

 それはともかく、私は、羨ましいと思うのです。

 なぜなら、彼らには、類まれなパートナーがいたからです。
 レノンは、マッカートニーがいて、ヨーコがいました。
 スティーブにはもう一人のスティーブがいたのです。

 ライト兄弟は二人して飛行機を飛ばし、キューリ夫人は夫とともに世紀の発見をしました。
 たとえ、二人ではなくても、人は、誰か他の人から刺激なり、共感を得て、何かとてつもないものを創り上げるです。
 
 自分の才能のないことを憂うる前に、自分の才能を導き出してくれる他の誰か、あるいは、刺激や共感を与えてくれる対象を持つべきなのです。
 それが、創作をする上で、最良のあり方であるのです。

 さて、今日も一人、私はMacBook Proの前に座り、キーボードを叩くのです。


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プロフィール

nkgwhiro

Author:nkgwhiro
ご訪問
ありがとうございます。

《10/22 Sunday》

‼️現在、<Puboo!><Facebook>で、金曜日に発信した作品を公開しています。‼️

❣️<Puboo!>にて、『だから、朝は素晴らしいんだ』を発信しました。ぜひ、お読みください。

❣️<Facebook>で、『Mermaid beach at Gold Coast. - The forcing look blows and is no swimming allowed on this day. I was walking a beach. When I try to take a picture of a no swimming allowed flag's trailing along in a wind, one man has begun to come near the field and take a picture of the skyscraper group. That makes a picture.
美人鱼海滨於黄金海岸。- 强的风吹,这天是游泳禁止。我,走着在海滨。我,预先打算拍下来游泳禁止的旗在风上密布的话,一人的男人为田地的荞麦面来,开始拍高层群的照片。那个如画。』を公開しました。

❣️<Twitter>では、『ものかき』と銘打って、朝と晩『つくばの街であれこれ』の更新情報をつぶやいています。朝は、その日の記事について、晩は、明日の記事についてのつぶやきです。

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