二つに割れたピンポン球

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ブログをやっている皆さんのサイトを訪問していると、いいことがあります。例えば、先日、公園で見かけたこの木、枝に何やらくっついています。それで、写真をとったのですが、さて、なんの木やらと調べようとしますと、ちょうど、私に教えてくれるかのように、あるブログの記事で、これがスモークツリー、すなわち、煙の木であると書かれていました。それ以上は調べていませんので、正しいかどうかの確信はありませんが、学者ではあるまいし、煙に巻かれるのもいいし、いや、むしろ、ブログの記事を信頼して行くことも大切だと思ったのです。私もそうであるように、なるべく、人様からご指摘を受けないように、努力をしているのだから、この方のブログもそうであるに違いないと。


 なぜ、中国外交部の報道官たちは、あのように怒気をにじませた表情でものを語るのでしょうか。それとも、笑顔で何かを語っている姿を日本のマスコミがカットして報道しないのでしょうか。

 日本の野党の先生方も、目くじらを立てて、政権に何やらまくし立てています。
 あの美しい女性議員たちも、歯茎をあらわにして、ロバのように吠えています。
 
 教師もまた、怒りを生徒に対して露わにすることがあります。
 目を怒らせ、生徒を睨み付けるのです。
 生徒には緊張感が走ります。
 誰が、いつ、良からぬことをしたのか、それは自分であるのかと生徒たちの脳裏には反射的に恐れを伴ったいなづまが走るのです。

 人が人に対する圧力をかけるうえで、「怒る」という方法は一番の得策であるのです。

 中国外務省の報道官たちは、自国の不利益になることを他国がやれば、それが国際社会で正当なものであろうとも、特有の怒りを持って糾弾してきます。

 国会の様子を見ていますと、怒ることが一つの作戦であるかのように思える時があります。
 気の弱い大臣たちは、その言葉に萎えているかのようです。
 それを見ている国民の中には、気が弱いのではなく、やましいことがあるから、あのように言葉に力がないのだと思う人もいるはずです。
それに輪をかけるようにテレビのコメンテーターたちがもっともらしい意見を述べます。
ですから、国民はますますマスコミの意見に流されて行くのです。

 でも、私などは、一国の総理や大臣に対して、あまりにも非礼な、いきすぎた暴言ではないかなと思うときもあるのです。
 なぜなら、大臣たちは、その人格や性質はともかく、日本国の行政を現実に行なっているのですから、それに対する敬意を払わなくてはいけないのです。
 国民の選択により、彼らは政権を維持し、運営しているのです。

 一方、野党の先生方は、国民の信託を受けられないから、行政を担えないわけです。
 そのあたりの分別があって然るべきであると考えるのです。

 議員だから、同じ土俵にいるのではなく、一方は政権を担う力を票で与えられ、一方はそれが与えられていないという違いを知っていなくてはいけないのです。

 だから、野党は下手にでていればいいというのではありません。
 語るべき議論は、「正々堂々」と為すべきなのです。
 「怒り」を露わにしておこなったり、相手への敬意を払わないのは議論の正道を外し、ともすると、一票を投じる国民の信を失うことになるのです。

 現に、支持政党の率の低さがそれを雄弁に物語っているではないですか。
 自らの党を大切に思うなら、そこへ考えが行くはずですが、そうでないということは、やはり、自分第一の考え、強硬な批判を展開することで知名度をあげようとか、そんな魂胆があるのではないかと勘ぐってしまうのです。

 中国外交部の報道官が、日本政府へのなんらかの批判をするときに、涼やかな笑顔で、日本はかようなことを述べていますが、それは中国には受け入れられないことですとやったらどうでしょうか。
 ですから、日本政府の言い分に対して、中国国民も日本国民も冷静になって、このことを考えていかねばならないと中国外交部は考えているのです、と述べるのです。

 しかし、そんなことをしたら、中国人民はきっと黙っていないでしょう。
 下手をすると、北京市朝阳区朝阳门南大街2号にある中国外交部の建物は、中国共産党の意を受けたデモ隊に包囲され、放火されるでしょう。
 怒りを専売特許にする報道官たちも吊るし上げを食ってしまうでしょう。

 でも、日本の国会であれば、そんな無体な出来事はおこりえません。

 怒りを封じ、相手への敬意を持って、真摯な議論を行うのです。
 仮に、政権が野党の真摯な問いかけに応じなければ、日本国民は無知でも、愚かでもありませんから、政権をきっと見限るはずです。
 政権が、礼節を持った意見に応えて、自らに過ちや行き過ぎがあったと判断すれば、それを改めていけばいいだけの話です。
 しかし、劇場型と言う、一人の人気者が「風」を吹かせてしまうと、国民がいくら冷静でいようとも、その「風」に押し切られてしまう風潮があるのは、日本国民もまた自戒をしなくてはなりません。
 
 「風」を操る政治家には危険がつきものだと言うことを知っていなくてはいけないのです。

 そうそう、思い出しました。それは私の同僚であった教師の話です。
 終礼の会のとき、クラスの生徒が悪さをしたのを叱らなくてはいけなかったのです。
 生徒たちも、それを知って、今日の終礼は長い説教の時間になると諦めていました。
 
 その先生が教室に入ってきました。
 全員黙想と声をかけます。
 生徒たちは姿勢を正し、担任教師の次の言葉を待ちます。
 黙想やめの声がかかります。
 教師の目には、いつの間にか、二つに割ったピンポン球がくっついています。 
 その教師の姿を見て、しかし、笑っていいものかの判断を生徒たちはしかねています。

 先生は、怒る代わりに、独特のユーモアで生徒に対したのです
 怒るはいっ時、教えさとすのもいっ時なのです。


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台湾有情

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梅雨が明けたら、途端に梅雨らしい天気になり、空も、このように二種類の雲が同時に存在するようになりました。天気は周期を持ちます。ですから、ジーと暑さが染み込む太陽も、涼しさをと感じる緑陰も、そして、空中に放り出されるホースの水も、それを楽しめる周期が来るに違いありません。


 新聞の、見落としてしまいそうなくらい小さな記事に、ふと目がとまりました。

 台湾政府が、九州北部豪雨の被災2県に対して見舞金を届けてくれたという記事です。
 日本と台湾の間に、政府間レベルの交流はありません。
 ですから、民間の交流機関を通じての、これは寄付となりました。
 
 私の暮らすつくばも、そして、我が家も被災した東日本大震災の折には、200億円もの義援金を送ってくれたのは台湾でした。
 それも、他国に先んじて、いち早くです。

 1895年、日本は清国との戦争に勝利し、その際に締結された下関条約により、割譲された台湾を領土に組み入れました。
 日本が太平洋戦争で連合軍に降伏する1945年に至る50年もの間、台湾は日本であったのです。
 以後、台湾は、清国滅亡後、中国で政権を樹立した中華民国に戻されました。
 国共内戦で大陸を追われた国民党はここ台湾に政権を移して、世界に類例のない30年に渡る戒厳令をひき、台湾を支配をしてきました。
 1987年、この戒厳令が解除されると、国民党の支配も弱まり、今年、30年の節目を迎えたのです。

 今、私たちがニュースで知るように、台湾では、自分たちは中国人ではなく、台湾人であると認識する方々が90パーセントに達すると言います。
 
 私はカンボジアのアンコールワットに出かけた際に、航空機の事情で、台湾の桃園空港に立ち寄っただけで、実際のところ、台湾のことは何も知らないのです。
 でも、台湾の人たちが日本の50年にわたる支配に対して、南洋の人々同様、さほど悪くは思っていないことを知っています。
 台湾でも、パラオでも、お年寄りは日本語を喋り、童謡を口ずさみ、日本の文化の影響が、暮らしぶりや言葉遣いにも、今でも残っていることに感動するのです。

 中国や韓国と、どうしてこうも違うのか、そこにかつて派遣された日本人の違いなのか、それとも、異国人が来ることに対する土地の人々の反応の違いなのか、今に至るまで結論が出ないままでいるのです。

 台湾やパラオには行っていないのですが、中国と韓国には複数回出かけています。
 訪れた先の人々の人懐っこい表情や温情に接してはいるのですが、一旦、政治のことになると、彼らの政府は、目くじらを立てて、攻撃をして来るのです。

 まだ事情のよく分からない若い頃、私は、日本があの時代、悪いことをしたからそうなるのかと思っていましたが、台湾やパラオのことを知るにつけ、そうではないのかもしれないと思うようになりました。
 私たちの祖先は、アジア太平洋の国々をなんとか素晴らしい地域にしようと踏ん張ってきたに違いないのです。
 だったら、負のイメージばかりにとらわれずに、前向きに捉えてくれる地域のありようをもっと評価していかなくてはいけないと思うようになったのです。

 同時に、日本という国は、きっと、あの時代、白人支配を打破し、アジアやアフリカの独立を志し、アジア人やアフリカ人が豊かな生活ができるようにすることが正義であるとして、行動したに違いないと思うようになったのです。

 そう考える方が、日本人として、あるべき姿であると思うのです。

 今年の4月、鳥山頭ダムを建設した八田与一の像が傷つけられるというニュースがありました。
 きっと、日本時代に台湾のために尽くした日本人を顕彰することに異論を持つ人がいるのでしょう。

 さらに、7月7日には、びっくりするほどのニュースに目を見張りました。
 台北に置かれている日台交流協会の事務所にデモがかけられたのです。
 7月7日は、盧溝橋事変が起きた日です。
 びっくりしたというのは、そのデモ隊が掲げていた旗でした。
 
 青天白日旗を国の旗とする台湾で、あまたの五星紅旗が振られていたのです。

 掲げたグループは、統一促進党のメンバーです。
 詳しいことはわかりませんが、五星紅旗を掲げるということは、中国共産党の支援を受ける組織であることは間違いないでしょう。

 そういえば、2012年に、尖閣が国有化された際も、台湾から漁船に乗り込んだ人々が尖閣上陸を叫んで、行動を起こし、台湾当局から止められたという話も思い起こされます。
 
 明らかに、共産党の食指が台湾に伸びているのです。

 IMFの取り決めでは、最も資金を拠出する国に本部が置かれるようになるが、そう考えると近い将来、IMFの本部は北京に置かれることになると、冗談で述べていたIMF幹部の会話が世界を駆け巡りました。

 ある種の特定の思想に固められた人間というのは、自分以外を認めようとはしません。
 ですから、人類の価値ある史跡も平気で壊し、功績を讃える像にも、相手の国の旗にも敬意を表することもできないのです。
 そのような特定の思想に染まった国が大きな権力を持つのは、人類にとって危険なことです。

 少なくとも、日本は、有情の国を大切にして、無情の国と区別をつけて行かなくてはいけないと、今、考えているのです。


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「う」の字に、「あ」の字に、「む」の字、おまけに、「な」の字

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やっと咲きました一輪の朝顔。毎年、タネを取っておいて撒きます。今年は、発育が遅く心配していました。でも、こうして、鮮やかな、涼しげな花一輪を見ることができました。これからツルを伸ばし、我が家のバルコニーの一角を華やかにしてくれることでしょう。


 古くからの習慣を守るという認識は人一倍あると自認はしていますが、どうも、丑の日だけは香りだけで十分で、「う」の字を口にすることは滅多にないのです。
 決して、食べられないというのではありません。
 
 土浦の学校に勤めている時、土浦という土地柄、そこは「う」の字を振る舞う名店がいくつもあり、ちょっとした会合を市内の老舗で行ったことも度々ありました。
 そんな折には、お重から、お吸い物まで、美味しくいただけることはできるのです。

 ただ、自分から進んで「う」の字を食べに行こうとか、マーケットで白焼きを買って、わさび醤油で一杯やろうとか、そういう気分にはなれないのです。

 やはり、「う」の字のあのにょろにょろとした姿形は私の性分に合わないというのが原因であると思います。

 東京湾でカサゴ釣りをしていて、滅多にないことですが、予想外に、湾名物の「あ」の字がかかった時なども、閉口してしまいます。
 「あ」の字の天ぷらは好物ですが、釣竿の先で、「あ」の字がとぐろを巻いてのたうちまわっているのを見るのがダメなんです。
 魚バサミを使うこともできません。
 「あ」の字が、手のひらや腕に絡まってくるのではないかという不安があるのです。

 そんな時は、隣の釣り師に声をかけて、取ってもらい、それをその方に進呈をするのです。

 大量の「う」の字が台湾などから輸入されたというニュースを見て、「う」の字にとっては災難だなと思っています。
 金子みすゞの詩ではないですが、きっと、捕らえられずに生き残った「う」の字たちは、弔いをしていることと思います。
 
 私たちは、そもそも、なぜ、このような生きた物をとらえて、食べるようになったのかと考えることがあります。

 日本では、魚も肉も、消費者が嫌悪感を抱かずに手に取ることができるように工夫されています。
 豚の頭をそのまま置いて売っている肉屋さんはありませんし、生きた鳥をマーケットで売っている光景にも出くわしません。

 海に囲まれた国で、獣肉より魚肉を好む国柄か、魚に関しては、魚屋さんや寿司屋さんで「マグロの解体ショー」などをやっていますが、これなどは魚をあまり食べない国の人間から見れば、気持ちわるい出来事に違いないと思ってしまうのです。
 その挙句が、日本と鯨の文化を理解してもらえない事態を招いているのかも知れません。

 人間は自分たちの常識は理解できても、他人の常識は理解しようとしないものです。

 さて、なぜ、私たちは生きている物を食べるのかということですが、こんなことを想像して見ました。

 きっと、私たちの遠い先祖が樹上で暮らしていた時、そして、木の実や葉っぱを食べていた時、木の枝に、あるいは、木の根元になんらかの事情で動物の死体が置かれ、これもまた何らかの適切な条件のもとで、香ばしい香りを発するようになり、それがあまりに脳に刺激的で、勇気ある一人がそれを口にし、美味しいと思ったことからそれが始まったのではないかと考えるのです。

 ホモ・サピエンスと呼ばれるようになるずっと前の出来事です。

 肉を口にすることで、樹上で暮らす私たちの祖先の脳みそを少なからず大きくしたのです。
 大きくなった脳は、さらに、それを活動させるためのエネルギーを欲します。
 それが、狩猟となり、集団の行動や獲物の分配という社会性を、私たちに付与したのです。
 やがて、不確かな狩猟から、確実な牧畜へと私たちはその大きくなった脳を活用していくのです。
 肉の美味しさを知った私たちの祖先は、脳へのエネルギーの供給という本質的な目的から離れて、食べるという欲を満たすために肉を食べるようになっていったのです。

 今や、獣肉も魚肉も、単に食料にとどまらず、国家間の問題となる重要な産物となってしまいました。
 食べるという欲のためだけに、無造作にそれらをとっていれば、必ず、それらを失うことになります。そして、それらは現実のことなのです。
 「う」の字の一件にしても、今年はいくらかは持ち直したというものの、絶滅危惧を疑わなくてはいけないことに変わりはありません。
 
 ですから、未来の人類は、無尽蔵にあるとされている「む」の字を食べようと企画しているのです。
 今、気味わるいと両手で口を覆う美しいお嬢さんたちが、このイナゴ美味しいとか、あの芋虫は甘みがあるわという時代がきっと来るのです。
 
 港で、絵を描いていると、隣の船の方が友人と連れ立ってやってきました。
 これから「な」の字を釣りに行くというのです。
 私にも一緒に行こうと誘ってくれますが、丁重にお断りしました。

 彼らは、取った「な」の字をたらいに入れて、泥をはかせ、その後、切り刻み、天日に干して、焼いて食べるのです。

 地震にはもうこりごりですから、そんなことしたら、なんとか壊れずにすんだつくばの家が倒壊の憂き目にあってしまうと、私は真剣に思っているのです。


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嫉妬する者の遠吠え

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夕景は、人の目を時に、ハッとさせたり、うっとりとさせたり、さまざまな感情を引き起こさせてくれます。この日の夕景は、何か偉大なものがそこにあり、私たちがゆくゆくはそこにいくことになる、かのようなイメージを持たせてくれるものでした。



 夏になると、いろいろとやかましくなります。

 夏休みで家にいる子供たちの声が我が家にも響き渡ってくることではありません。
 ましてや、蝉が騒がしい音で叫び続けることでもありません。

 「レキシ」という発音が妙にけたたましく響くように感じるからなのです。
 
 <誤ったレキシ認識をあらため、日本は正しいレキシに真摯に向かえ>と、彼らはいうのです。日本は侵略国であると、そして、多大の犠牲を他国に及ぼしたのだと。

 そんな言葉を聞くと、私は萎縮をしてしまいます。

 私の父は、近衛騎兵の下士官として、朝鮮半島を経て、ソ満国境に配置されました。
 そして、圧倒的な軍事力を持つソ連軍との戦いに敗れ、捕虜となり、シベリアのイルクーツクで、5年に及ぶ捕虜生活を経て命からがら戻って来たのです。
 
 無理のある戦いであるとわかっていても、そうしなくてはならなかったのです。
 ですから、父は、当時の軍部のありようについては、言葉こそ柔らかいものでしたが、批判的でありました。
 でも、だからと言って、あの当時の国のありようを否定することはしませんでした。
 それが事実であり、国のいっときの姿であったからです。

 もし、1945年のあの時点で、日本が崩壊し、国体もなくなり、国土が連合国によって、分割統治されていたら、きっと、彼の国はこれほどまでにあの時代の日本への批判をすることはなかったと思います。
 なぜなら、その国はこの世から抹殺されてしまったからです。
 
 でも、日本は存続しました。
 国歌も、国旗も同じくして、国体も堅持して、国は持続したのです。
 これを、マッカーサーのなせる技とする認識はもちろん間違っていませんが、それをさせた当時の政府関係者や日本人の一致した認識があればこそ、国は残ったとも言えるのです。

 同時に、アジアにおける日本のあり方、それまでの列強支配を冷徹に見てとる欧米人の見識にも目を向ける必要があります。

 ごく最近のことですが、二人の英国人の書いたものが、一つは年月を経て公開され、一つは書籍となりました。

 昭和天皇の崩御された年に、駐日英国大使であったホワイトヘッドの外相宛文書が機密扱いを解除されて公開されました。
 そこには、昭和天皇の、駐日大使から見た感想が述べられていました。

 「内省的で、練兵場より科学実験室にいるほうが向いている性格」と記したホワイトヘッドの文章は、単なる天皇評価ではなく、正当に、そして、中立に日本という国のありようを見ることがきた欧米人の知性が見て取れるのです。

 つまり、一国の歴史というのは一人の統治者によってはどうなるものではなく、そこには複雑多岐な事情が反映して、レキシが組み立てられるということです。
 イギリスという国が、天皇崩御に際し、かような報告書を11ページにわたり記していたことに驚くと同時に、その見識に脱帽するのです。

 また、記者であるヘンリー・ストークスは、我が国を「奇跡の国」と評し、白人がそうでない人間を支配した時代に終止符を打たせたのが日本の行動であると、著書で述べるのです。

 世界に類を見ない天皇という存在、そのもとで独自の文化を育み、時代の変化を察し、いち早く近代化に傾倒し、欧米の強大な力に対抗し、アジア・アフリカの国々の独立を助長したのは日本であると言う内容です。
 少々、こちらが恥ずかしくなるくらいの評価ですが、まっとうなレキシ認識でもあるとも思うのです。

 レキシは、勝利者の側からみた出来事の羅列であるとよく言われます。
 確かに、日本はかつて、「大東亜共栄圏」を掲げ、皇軍をアジア各地に派遣し、支配をしたレキシを持ちます。
 当然、そこにはよき出来事もあり、悪しき出来事もあるはずです。
 それが、レキシが伝える真実の姿です。

 レキシが伝えきれなければ、人間はそれを物語、小説という形で伝えて来たのです。

 彼の国がレキシ認識を問うてくるのは、明らかに、政治的な意図がそこにあります。
 ですから、私たちはその政治的な意図にはぐらかされてはならないのです。
 それもこれも、彼の国の戦略の一環であるからです。

 それにしても、ヘンリー・ストークスの述べる「奇跡の国」という言い方、素晴らしいと思います。
 
 あれだけの戦いを行い、完膚なきまでにやられた国が、国体を守り、国を復興させて来たのです。復興ばかりではありません。勝った国よりも経済を興し、世界の豊かな生活を支える貢献をしているのです。
 
 私からすれば、それは「奇跡の国」であると同時に、日本という国への誇りを改めて持つ契機となる言葉なのです。

 そんなことを思うと、彼の国のレキシ云々という叫びが、なぜか嫉妬する者の遠吠えのように聞こえてくるのです。


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船の上で

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つくばの自宅の裏道沿いにある田んぼの稲の穂に、僅かながらもつぶつぶが見えてきました。実るほどこうべをたれるとまではまだまだ言えませんが、これから暑い夏の日差しを浴びて、このつぶつぶは大きく膨らみを増していきます。それにしても、植物が持つ遺伝子というのはすごいと思います。5月の連休に植えられた稲が着実に身をつけていくすべを持っているのですから……。


 土浦の港に係留してある船、そのデッキにディレクターズ・チェアーを出して、そこに座り、足を投げ出して、iPad ProとApple Pencilを使って、絵を描いたり、文章を書いたりする時間が、私はとても好きなのです。
 
 私の暮らすつくば市に茨城県南最大の都市としての名誉ある地位を奪われてはいますが、私の船が係留されている土浦の港の周りには、大きなビルが立ち並び、それが適切な日陰を私の船に与えてくれているのです。
 私は、その日陰に佇む船の上に、チェアーを出して、たった一人の優雅なひと時を楽しむのです。
 時たま、ボート仲間が一杯のコーヒーを手にしてやって来ます。
 そんな時、二人して、世間話です。
 下世話な話から、夢のある話まで、種々雑多な話をします。
 
 下世話な話の代表は、この港の主を任ずる「親分」の悪口です。
 私もボート仲間も、この人からは色々と世話になっていますが、少々、口うるさく、船を汚くしていると、自宅にまで電話して来て、いい加減にしろと言って電話を切るのです。
 だから、胡散臭く思う人が多いのです。

 でも、嵐の前、係留ロープを確認してくれたり、夏、桟橋に茂る雑草を刈ってくれたり、潮の関係で集まってくるゴミを拾っていてくれたりしていること私は知っているのです。
 ですから、私は、相手の話をウンウンと聞いているだけにしているのです。

 いい年をしたおっちゃんが、船のデッキで、一杯のコーヒを手にして、下世話な話をする図もまた世間並みでいいとは思っています。

 夢のある話は、いつかは行ってみたい航海の話です。
 土浦から、霞ヶ浦を南下して、利根川に入ります。
 まっすぐ進むとそこは銚子の河口です。
 その先には群青の太平洋が控えています。

 霞ヶ浦に船を置いている船長の夢は、外洋を舞台にするヨットマンからすれば、たわいのないものかもしれません。
 しかし、それを成し遂げた人物はそうそうはいません。
 
 私の知っている、それを成し遂げた唯一の船長は、この港で胡散臭く思われているあの「親分」に他なりません。

 なんでも、銚子から大洗を経て、女川まで行ったと言います。
 小型ボートは、太平洋の荒波の中、高さ10メートルを上下しながら航海し、生きた心地がしなかったと言いますから、それが本当かどうかは確認のしようがありませんが、心踊る話であることには違いありません。
 
 その日、悠長な港での時間を過ごしている時、私の船に勝手に上がりこんで、釣りをしている一人の若者がいました。

 私が近くのコンビニで一杯のコーヒーと甘いケーキを買って戻って来た時のことです。
 その10代と思しき若者は、夢中でバス釣りをしていました。
なんでも、この港はバス釣りでは一目置かれているポイントであるということです。
 きっと釣りたいあまりに、無我夢中になって、私の船に乗り込み、船の船尾に立って、竿を振っているのです。

 私はその釣りの様子を桟橋に腰を下ろしてしばらく眺めていました。
 声をかけたり、船に乗り込んで行けば、思わぬ事故を起こすと考えたからでした。

 釣りを終え、若者が舷側をたどって、こちらにやって来ます。
 若者は、そこらのおっさんが自分の釣りをする姿を見ていてくれたとでも思ったのでしょう、私に目もくれずに飛び降り、去って行こうとしました。

 私は、お兄さんと呼びかけました。
 若者はこちらを振り向きました。
 
 「この船に勝手に乗ってはダメだよ。何かあったら困るからね。」

 若者は、この時、一切の事情を察したようです。
 急に改まって、すみませんでしたと小さな声でいい、頭をちょこんと下げたのでした。

 きっと、私がいない時、私の船はこうした釣り人に利用されているのかしらと思いましたが、そんなわけがないとも思いました。
 なぜなら、「親分」が目を光らせているし、船の上が汚れているとか釣りをされている、そうした形跡も見当たらなかったからです。

 きっと、あの青年は単に釣りに夢中になったにすぎないのです。

 デッキに戻り、チェアーに腰掛け、買ってきたコーヒーを飲んでいると、先ほどの若者が戻って来ました。
 父親らしき連れも一人います。
 わざわざ、謝罪するために戻って来たのです。
 
 この日、私は夕闇が迫る頃まで、船の上で過ごしました。
 なんだか、気分が良くて、ここを離れるのがもったいないように思えたからです。


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有無も言わせない力と向き合って……

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古くからの街と学園都市を仕切るように林立する5本の樹木。つくばには、朝、鶏も時を告げる声が響き、里芋を植え、梅をつけ、みかんを収穫する家があるのです。おかしいことに、言葉も幾分異なります。でも、これらの樹木は「遮断」を明示しているわけではありません。かつて、ここにあった「村」のありようを示しているだけなのです。


 シリアの人々が愛する故郷から逃れ、異国を彷徨う姿を報道映像で見ることがあります。
 もし仮に、自分たちがそうなった時、果たして、これだけたくましく生きて行くことができるのだろうかと、私は考えるのです。

 亡くなった母が、暑い夏になると、自分が体験した戦争の話をよくしてくれました。
 幸いなことに、下町に暮らしていた母の家は空襲の被害にあうことはありませんでした。
 しかし、焼け出された人は、バラックを建ててそこに暮らし、そうでなければ、親戚を頼って疎開をしていったと言うのです。

 川のほとりに建つ藁葺きの家で、母とその一家は、相変わらず、そこで暮らし続けるのです。
 夕方、炒った豆を与えられ、それをモンペのポケットに入れ、畳の上に横になって、腹の虫がなったらそれを口にし、水筒の水を飲むのだと言います。
 そうすることで、豆が腹の中で膨れ、満腹感を感じると言います。

 テレビもなく、あかりもなく、おまけに満足な夕食も取らず、腹をすかせて体を横たえるのです。それが普通で、ただ、じっと横になり、眠れるときに眠っておくと言います。
 でないと、深夜、もしくは未明にやってくるB29に備えることはできないからです。

 そんな話を聞かされると、よくもまあ、我慢ができたものだと思うのです。
 それに、「焼け出される」と言う状況に陥ったとき、その心理状態はどうだったのだろうかとも思いを重ねるのです。
 すべてが灰燼にきした際、人は尋常でいられるのだろうかと。
 
 今、私が自宅から火を出し、すべてを失い、隣家にも損害を与えてしまったなら、いかなる心理状態に私は陥るのだろうかと、それを考えただけでも身を震わすのです。

 私は、勤めていた学校を変えた経験があります。
 公立学校の先生であれば、ある一定の年限で学校を移り、ときには、教育委員会などの行政にも転じることはなんら不思議ではないですが、私学の教員であれば、他の学校に転じるというのは、なかなかありうべからざる出来事であります。

 前の学校で何か問題行動があり、そこにいられなくなり、やむなく転じるとか、あるいは、上司とぶつかり、居にくくなるとか、そんな事情が見え隠れするものです。

 私の場合も、確かに、理事会側から見れば、問題行動のある教師であり、上司とぶつかり、居にくくなったといえないわけでもないので、この推測はあながち一般論であると一蹴するわけにもいきません。

 あのとき、私はたいそう気落ちしたことを覚えて居ます。
 
 どういう「気落ち」であったかというと、それは学校での仕事へのやり残しを意識した思いではありませんでした。
 そうではなく、如何ともしがたい人間の心のありようをそこに見たからです。

 人というのは、御身大切であり、それはそれで当たり前のことなのですが、ついさっきまでよいしょしていた相手を、次の瞬間に蹴飛ばすことができるのだという現実を見せられたのです。
 そればかりではなく、今度は、自分の正当性を立証するために、敵対する立場となった者への仕打ちを、自分を守るために、強烈に示すようになって行くのを目の当たりにしたのです。

 森鴎外の『阿部一族』に描かれる、あの下劣な嫉妬心に満ちた中で、己の信念をただひたすら貫き通す武士の生き様に心を動かすことでそれに耐え、あるいはまた、アラモの砦にこもって、メキシコからの独立を唱え、命を投げ出すテキサス人の心意気にも、自分を重ねることで、ともすると、くじけそうになる心を保っていたのです。

 そもそも、人間というのは、ありうべからざる出来事に遭遇するようになっている動物であるに違いない。
 そう考えるのです。

 だって、私たちは、生まれる国も、時代も、そして、親さえも選ぶことはできないで、この世に放り出されてきたのですから。

 これこそ、「うむも言わさぬ力」と言ってさしつかえないと思うのです。

 だとするなら、シリア人が今対峙している困難も、私があの時直面した困難も、些細なことのように思えてきます。
 いやむしろ、ありうべくしてあった出来事ではないかと思うようになるのです。

 その根拠はわかりません。
 シリア人にも、私にも、そうした仕打ちを受ける因を明確には見つけ出せないものと思われます。
 第一、シリア人にとっては支配層が、利害関係のある勢力と争っているだけで、自分たちはごく普通に生活をしているだけであったという観念しかなかったはずでしょうし、私にとっても、なんということはない、あそこで、「蹴飛ばしておけばいい」だけの話であっただけのことです。

 しかし、シリア人は祖国を出て行くことを選び、私もまた「蹴飛ばさない」道を選んだということだけであるのです。

 ただ、彼らも私も、有無も言わせない力があること、そして、それに向き合ったことだけは確かなことです。
 
 暑い夏になると、そのことがどうしても思い起こされるのです。


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乗り越えろ!こんな「坂」あんな「坂」

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つくばの街を歩いていたら、こんなマンホールが歩道上にありました。色鮮やかに、目立つマンホールです。消防関係のマンホールには、こうした目立つものが多いように思います。娘の暮らす松戸でもそうでしたから。


 教員というのは、専門職であると言われます。
 しかし、これといった専門的な訓練を受けてきたわけではありません。

 私は文学部中国文学科に籍を置いていましたから、文学部で取れない教職の単位は、教育学部まで出かけて行って、受講し、教員免許取得に必要な単位をとっただけに過ぎないのです。
 中国文学科に所属している学生が取得できる免許は、中学・高校の「国語」となっています。
 日本文学専攻の学生のように、源氏や漱石を一回も学ばずに、それでも、「国語」の教師になれたのです。

 ですから、実際に教壇に立つにあたっては、相当な勉強をしていかないと優秀な生徒から軽く見られてしまいます。
 それでは教師としてたち行きません。

 そういう点から見れば、教員になって、専門科目である教材研修は人一倍やった、いや、やらざるを得なかったということになります。
 私の専門職としての矜持は、この新米の時の研修で培われたのではないかと思っているのです。

 その専門職という概念に対する職は何なのかと考えますと、それはおそらく、一般職となるでしょう。
 会社員がその典型です。
 会社員といえば、転勤がつきものです。
 転勤を繰り返し、営業職についたり、経理をやったりと将来会社のために役立つ人材となるべく、総合的な力をつけていくのです。

 先だって、JRの幹部の方のお話を聞かせてもらいましたが、彼もまた、入社当時は、電車の運転手であったというから驚きました。
 そうして現場に立って、着々と地歩を固めていくのです。

 しかし、そうした日本の企業のありようが少しづつ変化をしてきているといいます。

 つまり、日本人の健康寿命が伸びていくのと反比例して、日本の企業の会社寿命は減っているというのです。
 どういうことかというと、人は50年働ける体力を得ても、会社がそれに応えられないということです。
 もっと、明確にいえば、定年まで一つの会社には働けないということです。

 人生には、いろいろな坂があります。
 ほとんどの人が、その坂を、人それぞれに乗り越えて生きていくのです。

 ある人は、坂を目の前に、意を決して登ろうとしましたし、またある人は、また意を決して別の坂を目指しました。
 あるいは、坂を登ろうとしているのに、もういいよと断られることもあります。

 そんなとき、人はそれぞれに考えるのです。
 もっと、自分に力があったなら、もっと、別の何か役立つ才能があったならと。

 私は教職にあって、世間では専門職と言われる範疇の中に身を置いてきました。
 だから、それはそれで、価値のあることであり、取得した免許は生涯消えることなく、例えば、取手の学校をやめて、土浦の学校に転じるということが可能であったのです。

 これからこの日本で活躍する若い人たちにも参考になるので、あえて書くのですでが、要は、組織の中に自分を置いていても、組織がその人を守ろうしてくれることに期待を寄せるのではなく、自分は組織をでても、別の場でやっていけるというものをつけておかなくてはならないということなのです。

 つまり、専門職、一般職に限らず、何かを創れる力、立ち上げる力、総合的に把握し、進める力、いうなれば、「プロデュースする力」を持たなくてはいけないということです。
 また、コンピューターのことに関しては右に出る者はいないというくらいの技術力を持つとか、そうした「特別な技術力」を意図的に自分に付与していかなくてはならないということなのです。

 私の場合は、免許に助けられ、人に助けられてやってきたわけですから、偉そうなことは言えませんが、今、一線を退いて世の中を見ていると、自分の孫たちの時代、今まで以上にとんでもない坂が待ち受けているのではないかと思ってしまうのです。

 きっと、彼らの世代は彼らの世代なりに、乗り越えていくとは思いますが、それでも、やはり、年越し苦労というか、できることなら、自分たちが乗り越えてきたあの不毛な坂の数々を乗り越えていくことのないようにと思ってしまうのです。
 
 最初の孫が、初めての通知書を持ってきたと娘から電話がありました。
 まだ、まるとか、さんかくの通知書ですが、それでも、気になるのは教師であったからばかりではないのです。
 まるやさんかくを持ってきたこの孫がどんな職業人生を送ることになるのか、そして、どんな坂を乗り越えて行くのかと考えてしまうのです。

 それに加えて、まだ幼稚園ですが、オーストラリアで暮らす孫もいます。
 さまざまな人種の中に身を置き、英語の文化の中で暮らしています。
 はて、この子は一体どのようにして己の人生を構築して行くのかとも考えてしまうのです。

 孫たちの世代は、それぞれが着実に一歩を踏み出しているのです。

 いつの日か、この『つくばの街であれこれ』の文章を読む機会もあるのかと思います。その時に、少しは役立つこと、そうではなくても、一介のじいじが心配していたことは残しておこうと思っているのです。


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たそがれ人の独り想い

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心地よい風のたよりを、この魚は軽やかな音色で、涼しさを伝えてくれます。 「風鈴」……この文化、ひょっとしたら、我が国独特の文化かもしれません。たった一つの音が醸し出す妙なる調べが夏の風情を演出するのです。


 それは、ジャカルタから帰国した際のことでした。

 成田の駐車場に預けておいた車を第二ターミナルまで持ってきてもらい、久しぶりのマイ・ビートルを運転してつくばの自宅に戻る際、ちょっとした違和感に誘われたことを思い出すのです。

 それは、かの地の交通事情と日本のそれが大きく異なっているという違和感でした。
 ジャカルタでは、あまりの交通量の多さのため、三車線であったはずの道に、五車線ほどになるのではないかというくらい、車が氾濫していたというのを目の当たりにしてきたばかりで、それが今、日本に戻って、整然と車が走っている姿に、かくも異なるものかと、今更のように気がついたからだったのです。

 いや、決して、ジャカルタのドライバーの無謀さを責めているのではないのです。
 
 香港でも、バンコクでも、クアランプールでも、私が出かけて行ったアジアの都市では、めまぐるしい車の動きが共通してありました。
 上海では、偶然乗り合わせた日本人旅行者が、けたたましく鳴る車のクラクションに対して、付いているものは使わなくては損だとばかりに鳴らしていると怒りを伴った口調で言っていましが、そう思うのももっともだと同感するくらいのけたたましさでありました。
 でも、それだけ、エネルギーに満ちていたのだとも言えるのです。

 そう、私がジャカルタから帰国して、整然とした日本の道を走っている時に感じたことというのは、けたたましさではなく、車線に割り込んで来るくらいの「活気」さであり、伸び盛りの子供が見せる少々乱暴なくらいまでの生きるための「闘争」であったのです。

 あの時、車のハンドルを握りながら、自分たちが子供の時、そう、街には都電が消えつつあり、地下鉄や首都高の建設のため、あちらこちらで工事がなされていた時代を思い起こしたのです。
 日本にも、ジャカルタやバンコク、そして、クアランプールで見てきたあの活気ある、そして、人には負けないぞという意気込みを多くの人が持っていた時代があったのです。

 先日、つくばの自宅の屋根の修理をしてくれた親方が、この方は生粋のつくば人で、今子供が自分が通った同じ小学校に通っているけれど、クラス数が減ってしまって、自分の時と比べると、なんだか寂しいと言っていました。
 確かに、私たちの時代、学校には子供達があふれていたのです。
 
 そういう私たちが大人になると、会社の一員として、がむしゃらに働き、そのおかげであるかどうかわかりませんが、日本の経済は右肩上がりで伸び、子供の頃、自家用車を持つなど夢のまた夢と思っていたのが、さほどの夢のような話ではないぞと感じだし、ついには、気がつくと、一家に二台の車を保有するまでになっていったのです。

 その時代を駆け抜けてきた私たちも、今は、孫の成長に目を細め、若者たちの動きに目を見張り、今は、自由にすごさせてもらう世代になりました。

 昔、落語で、近所のご隠居さんというのがいて、ちょっと足りない与太郎を叱咤し、熊さんや八っあんにもののありようを教えていましたが、そのご隠居の年になった今時の私たちには、実は、与太郎や熊さんなどを相手にする時間などないのです。

 それより、仕事に追われ、自分のしたいこともできなかったことを悔いるかのように、「マイ活動」を活発化させています。

 なんでも、若い世代では将来への不安が原因で緊縮財政をとっていて、車は買わないで借りる、生活は質素で、購買欲は低い、そうなっているといいます。
 でも、これはもっともなことです。
 今の政権は一生懸命にやってくれていますが、それでも、これからの日本を支える国民には、将来に対する不安が払拭できていないのです。
 国会での議論は茶番化し、そうした若い世代の不安を取り除こうとする先生方が一向に出てきません。

 そうした中、そろそろ、「マイ一線」を引き、「マイ階段」を降りようというシニアもまた一向に出てこないようなのです。
 相変わらず、活気ある活動を展開し続けているのです。
 仕事人間であったことを悔いるかのように、今は、自分と家族のためにすべての時間と、限りはあるけれど、自分の財を投じて、「何か」をしているのです。

 今、一番消費をしているのは私たちの世代であるといいます。

 いつまで生きるのかではなく、いつ死ぬか、まもなく死ぬであろうというベクトルを意識し、だったら、今のうちにやれることだけはしておこう。
 何も残すことはできないが、生き様だけは残すことができるという思いで、生きているような気もするのです。

 人にも、世の中にも、必ず「たそがれどき」というのがあります。
 人も、世の中も、常に光さしてばかりはいないのです。

 ここまで考えてくると、私にはもう一つの思い出が頭をよぎるのです。

 それは、カナダのビクトリアという街での出来事です。
 いかついスポーツカーに乗ったおっさんが歩行者の私たちが道路を横断するそぶりを見せたの察知し、車を止めて、私たちに微笑みました。
 
 ここビクトリアはカナダ人たちが一線を退いたら過ごす人気の都市です。
 きっと、このおっさんもそうした一人に違いありません。
 サァーと車を走らせるのではなく、人を大切にして、人を優先させるこの余裕が、かの地の交通にはあるのだと思い出したのです。

 私は、そこに素晴らしい「たそがれ」の姿を見たのです。


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素晴らしき「最終形」!

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1階に門はありますが、玄関はこのエントランスを経て階段を上がらないとはいれません。つくばの地は風光明媚、より素晴らしい景色は地上よりもさらに高いところから見るに越したことはありません。


 たまにしか乗らない船など持っていて、宝のもちぐされではないか……、とよく言われる言葉です。
 港に行けば行ったで、港の主を名乗る方から、もっと沖に出ろよとせっつかれたりします。
 私は、港に船を停泊させて、そこでゆったりと時を過ごすのが好きなのです。
 ですから、沖にたまにしか出ない私を、港の主は歯がゆく思って声をかけてくるのです。
 
 そんな時、私はそうだとも、そうではないとも、言明せず、ただ、微笑んで、それらの言葉をかわすのです。

 先だって、水道管の漏れから、ガレージがびしょ濡れになり、あの大震災以来の水不足を経験したわけですが、それを契機に、ひときわ広い我が家のバルコニーの防水工事を行いました。
 そこが綺麗になったら、ひさしのペンキの剥がれ具合も気になり、梅雨時にもかかわらず家の周りに足場を張り巡らし、屋根周りをすべて綺麗に塗ってもらいました。

 さらに、足場を伝って、恐る恐る屋根まで行くと、瓦をとめる漆喰もところどころ抜け落ちているので、ついでだからと今度は白い漆喰ではなく、今流行っているという黒いのを詰めてもらったのです。

 えんじ色の屋根瓦に黒い漆喰は、キリリとした締まった雰囲気を醸し出してくれています。
 雨樋からひさしまで塗った鮮やかなペンキの輝きが、つくばの我が家を一層引き立ててくれるようになりました。

 近所に暮らす卓球仲間がやってきて、「随分と張り切っているな」と言います。
 張り切っているとは、金もないのに、よくやるわという意味だと捉えています。
 
 実は、さらに私は余計な工事を頼んでいたのです。

 北と西にある窓に、「飾り」を今回つけたのです。
 サッシだけの簡単な窓が壁にポツンとあるだけの無味乾燥なものです。
 家の裏側に当たる部分ですし、西側は、通りの反対側、通りがかりの人が見るわけでも窓です。
 そこは、前回の増築の折に、予算の関係で、諦めていた箇所です。

 西の窓には、鋳物でできた重厚な花飾りをつけました。
 これだけ見れば、イギリスの田舎の素朴な佇まいとなります。
 
 北の窓には、開き戸の飾りを取り付けました。
 無味乾燥な北の壁に、アクセントができて、これもイギリスの田舎の風情が漂ってきます。
 思っていた以上の出来で、私は大いに満足しているのです。
 
 しかし、卓球仲間は、それには気がついてくれません。
 ですから、わざわざ手を引いて、そこまで連れて行って、説明をしました。
 その時、あの言葉が出てきたのです。
 <随分と張り切っているな>

 でも、私にとって、つくばの家は、一生をかけて作り上げた、いうならば、生きてきた証みたいなものなのです。

 30代の若造が誰の支援も受けずに、独力で借金をして、家を建てるというのは並大抵のことではありません。
 幸いなことに、教員であったことで、銀行の信用度は高く、少ない給与でも結構な額を貸してくれましたので、そこそこの家を建てることができました。
 しかし、満足をしていたわけではありません。
 そのため、40代後半に入ると、増築を図ったのです。
 
 今回再び防水工事した広いバルコニーでは、家族が食事もできますし、孫が遊びにきた時、プールも置けます。
 居間は、山小屋然とし、天井をなくしたので、一層広々とします。その上、暖炉も設置したのです。
 お金に糸目をつけずにではありません。
 住みたい家に、そして、飽きない家にしたいためなのです。
 
 ですから、設計や建設にあたっては、こちらがあれこれと言わなくてはなりません。
 設計屋さんと喧々諤々の議論をするのです。
 妥協も必要ですが、主張も大切です。
 何せ、命を担保に銀行から借金をして、つぎ込むわけですから……。

 そんな、つくばの家ですから、今回の工事は私にとって、思い描いた家の形の最終形となったのです。
 
 いや、最終形ではありません。
 続きがあるのです。

 もうちょっと我慢をして読み進めて行ってほしいのです。

 いつの日か、この家も、私にとって必要のない大きさになると思います。
 子供たちは、それぞれに独立し、他処に居を構えています。
 つまり、つくばのこの家は、私の後を継ぐものがいないのです。

 さて、その時です。
 私は、手塩にかけたこの家を売り、綺麗さっぱりとした気持ちで、港に移り住むのです。
 
 私は、全国で最も利便性の高い、土浦駅から歩いて1分の港に、そこに停泊させている私の船で、ロンドンのナローボートの主人同様に暮らしを始めるのです。

 どうですか、素晴らしい「最終形」だとは思いませんか。


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打ち合わせもなく、かくも時代は同じ色となる

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梅雨の開けた空があまりにも青く、そこに残る雲があまりに白く、それが気持ちに驚きを伴って作用しました。そして、ミーミーゼミの鳴き声が間髪を入れずに聞こえてきたのです。あぁ、夏だ!


 お昼過ぎ、一本の電話が入りました。
 一本調子の、明らかに、コンピューターが生成した女性の声が私に問いかけてきます。

 それは、近々行われる県知事選挙に関するアンケートでした。
 支持政党は? 誰に投票しますか? 
 回答は、電話番号を押すことで受け取っているのです。

 3分ほどで終了し、受話器を置いた私は、そんなことに答えている自分を振り返って、ちょっと、滅入ってしまったのです。

 それは、コンピューターごときに、体良くあしらわれたことに対する慚愧の念であったのかもしれません。
 きっと、数年先には、通院している病院でも、諸手続きをする役所でも、丁寧な言葉遣いのロボットに、きっと、これまた体良くあしらわれるに違いないと私は思ったからなのです。

 さて、ロボットに次の選挙の意向を問いただされ、正直に答えた私ですが、昨今の奇妙な一連の流れに、実は、注目をしているのです。

 そこそこの国の国家予算を持つ東京都議選での結果は、何か特別なものを提起しているのではないか、という点です。

 この選挙で、二人の大物がその役職を辞しました。
 自民党と民進党の都連会長です。
 つまり、我が国を代表する二大政党の都連会長が選挙での大敗北の責任をとったのです。

 二大政党の敗北は、都民ファーストという新手の党の躍進を意味しています。
 大阪で、維新の会が勢力を伸ばし、地方政党から国政に打って出たことは周知の事実です。
 ですから、都民ファーストが国政ファーストになることも予想が容易につきます。

 でも、もっと世界に目を転じますと、東京都の選挙の結果はなるべくしてなったと言ってもいいくらいだと気がつくのです。

 先だってのフランス大統領の選挙では、フランスを代表する社会・共和の二大政党の候補者は第一回の投票であえなく敗退、決選投票にまで残ったのは、極右のルペンと泡沫候補であったマクロンでした。
 そして、フランスが選んだのは極右ではなく、若い、演説のうまい、マクロンでした。
 その後の下院選でも、マクロン新党はなんと6割の議席を確保したのです。

 東京の様相と、本当に似ているではないですか。

 そればかりではありません。
 アメリカ人もまた、民主・共和の既成の概念から逸脱した人物を最後まで残したのです。
 民主では、民主社会主義を唱えるサンダースが民主本流のクリントンに食らいついていきましたし、共和では、泡沫候補に過ぎなかったトランプが次々と敵対候補をおい落としていったのです。
 こう見ていくと、既存政党への反乱が、いま、起こっていると言っても差し支えありません。
 それも、打ち合わせもなく、世界の主要な箇所で、同時に発生しているのです。

 日本、アメリカ、フランスという自由を基調にする国で、同時に、これらの変調が起きていることにも気がつかなくてはなりません。

 私たちは、もしかしたら、大きな政党、任せて安心できる政党に魅力を失いかけているのかもしれないということです。
 それよりも、柔軟に、自分たちの利益を代弁し、同調できる、まったく新しい風を吹かすことのできる党に肩入れをせざるを得なかったのではないだろうかと思うのです。

 政党というのは、その国の未来の形を指し示し、かくあるべき形に政策を打っていき、現実にしていく力を持つものです。
 そのために、民主的な段取りを踏んで、国民の納得する形で国の未来を定めていくものです。

 ところが、政党が安穏として、いわゆる「エスタブリッシュメント」と呼ばれる支配体制の頂点に悠々とあぐらをかくことになって、人々はそれに反発をするというわけです。
 そのことが、日本やアメリカ、そして、フランスであったに違いないのです。

 しかし、マクロンにしろ、ドランプにしろ、揺れ動きが目に見えます。
 その揺れ動きを、長期にわたり、大様に捉えることができないのではないかという不安が実は大きいのです。
 それは、我が国の新進気鋭の政党にも言えます。
 
 その根拠は、酸いも甘いも、そして、清濁併せ吞む度量のなさです。
 アメーバのように、触手を伸ばして、敵対する勢力にも、多少の思想の違いなど気にせず、全てをうちに包み込んでいく姿勢が必要です。

 時代は、対立する項目を失う時代に突入しています。
 経営者と労働者、農村と都会、妻帯者と独身者……、これまであった対立事項は、そのありようを保ちつつ、同じ土俵で共存できる社会になっているのです。
 加えて、それまで範疇になかった、異邦人の受け入れ、既成の概念を超えるあり方、働き方、価値観の個性化と、政党が時代の奔流についていけないがゆえに、こうした番狂わせが発生してしまったと考えるのです。

 政治の世界ばかりではありません。
 私たちの身の回りの生活においても、それは同様です。
 私たちは、今、密かに起きつつある「動き」に気がつき、即刻対応を強化していかなくてはならないのではないかと思っているのです。


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プロフィール

nkgwhiro

Author:nkgwhiro
ご訪問
ありがとうございます。

《10/22 Sunday》

‼️現在、<Puboo!><Facebook>で、金曜日に発信した作品を公開しています。‼️

❣️<Puboo!>にて、『だから、朝は素晴らしいんだ』を発信しました。ぜひ、お読みください。

❣️<Facebook>で、『Mermaid beach at Gold Coast. - The forcing look blows and is no swimming allowed on this day. I was walking a beach. When I try to take a picture of a no swimming allowed flag's trailing along in a wind, one man has begun to come near the field and take a picture of the skyscraper group. That makes a picture.
美人鱼海滨於黄金海岸。- 强的风吹,这天是游泳禁止。我,走着在海滨。我,预先打算拍下来游泳禁止的旗在风上密布的话,一人的男人为田地的荞麦面来,开始拍高层群的照片。那个如画。』を公開しました。

❣️<Twitter>では、『ものかき』と銘打って、朝と晩『つくばの街であれこれ』の更新情報をつぶやいています。朝は、その日の記事について、晩は、明日の記事についてのつぶやきです。

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