ニューヨーク、ニューヨーク

fpaouhnlrf43697oquj;iakopsa@l_
朝、鳥たちが寝床から飛び立ち、仲間が集まって、何やら会話をしては、一斉に飛び立ちます。鳥たちは腹をすかし、めぼしいえさを見つけてはついばむのです。鳥たちが、最も活気ある時間帯です。


 私はヤンキースファンなのです。

 松井秀喜選手が、ヤンキースタジアムで、55番を背負う前から、実力を伴う有名選手が集められ、常に勝つことを義務付けられたチームに敬意を払い、憧れを持って、見ていたのです。

 ボストンに一ヶ月ばかり滞在していた時、阪神タイガースファンのように熱狂的なボストンレッドソックスファンと食事をしたことがあります。
 当時、ボストンには松坂選手が活躍をし、ニューヨークでは松井選手が活躍をしていました。
 そのレッドソックスファンの女性は、試合のある時、球場には入らず、フェンウエイパークのそばにあるスポーツバーで、同じく熱狂的なボストンファンと大騒ぎをしながら、試合を観戦をすると言います。
 その方が、「暴れる」ことができるからだと言うのです。

 ヘリのパイロットであった夫と離婚し、子供も大きくなり、自由な生活を謳歌するアメリカンです。
 その筋金入りのファンの前で、「私はヤンキースファンだ」というのは極めて危険なことでありましたが、運よく、松坂大輔を育てた指導者の一人で、甲子園でヒットを一本打った子を私が教育したことを伝え、「命拾い」をしたわけです。

 ボストンばかりではなく、ニューヨークの人々も血気盛んではあります。

 ニューヨークは、いろいろな国から人が集まってきていますから、何か、ひとつ、皆がそれを中心にして集まれるものが、他のアメリカの都市以上に、必要であったのです。
 ニューヨークの街は、意図しない形で、人が住む区域が定まっています。
 例えば、黒人が多く暮らす地域に、黒人以外の人が不用意に入ることは好ましくはなかった時代もあるのです。
 それは、他の人種の街であっても同様です。

 ですから、人々は、ニューヨークという街は、人種のるつぼではなく、サラダボールであると言ったのです。

 るつぼは、異なった金属を溶かして混ぜ合わせることができますが、サラダボールは、レタスやトマト、きゅうりが、そこに入れられた素材ひとつひとつがその個性を維持する場所です。
 つまり、ニューヨーカーたちは、俺たちは交わらないぜ、それぞれが自分たちの個性を出せばいいだけよと、でも、それが今、ニューヨークの魅力となっているのです。

 そうしたニューヨーカーたちを一つにまとめ上げる役目を、ヤンキースはやっていたのだと思っているのです。
 それはベーブルースの時代から脈々と受け継がれてきている事実であるとも思っているのです。

 背番号55がアメリカに渡り、ヤンキースタジアムでの最初の試合で、満塁本塁打を打てば、一挙に、ニューヨーカーたちは、松井選手を何十年来の選手であるかのように扱ってはばからないのです。
 意図しないまでも、それぞれが暮らす場所が定まっている街の住人が、ヤンキースタジアムでは人種も、国も関係がなくなるのです。
 でも、緩慢で、ダメなプレーがあれば、ブーイングは選手を萎縮させるほどの力を持って迫っていくのです。
 それもこれも、ヤンキースがニューヨーク市民の軸になっているからこそであると思うのです。

 先だって、ニューヨーク市長報道官なる人物のツイッターが、大変なブーイングをニューヨーカーから浴びました。

 ニューヨークの、あのイタリアからの移民が作り出した薄い生地の、チーズがたっぷりのったピッザを差し置いて、シカゴの厚い生地のピザを、全米一のピザだと、ニューヨークピッザを差し置いて、他の追従を許さないとツイートしたからです。

 これに対して、シカゴの市長さんが「誰もが知っていることを認めただけ」と応じたのだから、さぁ、大変です。

 これが火に油を注ぐ形で、ニューヨーカーたちを怒らせたというのです。
 ピザくらいで、大げさなことをと思いますが、彼らにとっては、許しがたいツイートであったのです。

 東京であれば、あれもこれも、珍しいものが食べられることは素晴らしいということで、今日はぶ厚い生地のシカゴピザをフォークとナイフで優雅に食べるだろうし、祭りの会場であの薄いチーズのたっぷりとのったピッザを歩き喰いするのも楽しみにすると思いますが、ニューヨーカーにとっては、そうもいかないのです。
 それは自分たちが誇りに思う街の食べ物であるからで、それを事もあろうに市の人間が、裏切り行為を働くことに怒り心頭に達するのです。
 アメリカらしい、面白い、そして、楽しい争いではあります。

 大学生の頃、中国語を勉強している時でした。
 中国の風俗や文化がわからないと小説も文化記事も読めないことに気がつき、その辺りの雑学的な記載のある本をむさぼり読んだことがあります。
 とりわけ、食べ物についてはわからないことばかりでしたから、料理の本も多く読みました。
 その中の注目すべき一つに麺類の話がありました。

 日本の蕎麦やうどんは包丁で切って麺を作り出します。
 しかし、ラーメン、中国語では「拉麵」ですが、それは、「拉」が引っ張るということですから、切るのではなく練った小麦粉を引っ張って引っ張って、何度も引っ張って、細い麺を作るということがわかったのです。
 実際、のちに、上海の下町の観光客がいきそうにない、蘭州麺の店で、店主が客の前で、「拉」して、茹でてくれたのを見たときは大いに感動し、それまでは食せなかったパクチーと合わせて大いに食したものです。

 そのほか、日本の麺料理にはない、それを刀で削るという麺もでてきて、このような各種各様の麺のあり方に驚いたものでした。

 唐の時代、長安を中心に麺食が発展し、国内各地に様々な麺が誕生し、やがてはそれがイタリアにまで伝わり、あまり器用ではないイタリア人は、押し出し機で麺を作り出し、それを乾燥させることで長持ちさせるパスタなる食べ物を編み出したとなれば大いに感心したのです。

 また、インドやアラブの地域では、人々は「手食の習慣」を持っています。
 ですから、熱い汁にゆでたての麺は、手で食べることが不可能ですから、当然、麺文化は根付くことがなかったということになります。

 食事を栄養摂取の手段としていた社会が、豊かになると、グルメブームが起きて、従来なかった食文化への関心も高まると言うのが通説となっています。
 かつての中国の麺文化が世界に広まったように、今、人々の嗜好が短期間で劇的に変わることを示した事例が日本の生魚料理であると思うのです。
 日本の海鮮料理は素材にできるだけ手を加えず、油をあまり使わない。それが健康ブームに乗り、大いにもてはやされているというわけです。

 それもこれも、ニューヨーカーたちが、初めて手をつけてくれたことにより、世界に広がるのですから、和食に関係する人にとってはありがたい街の住人たちなのです。

 今は、日本の焼き餃子が人気を博しつつあるということです。
 そんな、ニューヨークのヤンキースに、大谷が入団したらと思うと、もう、来春のヤンキースの試合が楽しみでならないのです。
 すでにもう、私の耳にはシナトラの「ニューヨーク ニューヨーク」が聞こえています。




神仏に許しを請おうと思っているのです

kjljk,hgytfh297hkjkl
つくばには、東西に大きな道が通っています。ここは東大通り、並木も空も秋の風情がたっぷりです。いつまでも走っていたい気分になります。


 エジプトで、300人以上が命を奪われるテロ攻撃が発生しました。

 これまでは、外国人、もしくは、キリスト教会などイスラム以外の人々が集う施設が攻撃対象であったのが、今回は、同じイスラム、そのモスクが狙われたのです。

 同じイスラムを信仰する兄弟たちを爆殺し、トイレに隠れたものも見つけ出し、銃殺したと言いますから、よほどの恨み、憎しみが、テロリストたちの背景にあったと思われます。
 宗教への偏った忠誠心は、かくまで無慈悲なる振る舞いを、人に与えるものなのかと驚くばかりです。

 宗教は、人の心を穏やかにし、困っている人、さらには生きとし生けるものすべてに慈しみを与えるものではなかったのかとあらためて思案するのです。

 心の穏やかさを求め、アラーに祈りを捧げる善良なる民草に対して、爆弾を放り込み、銃で撃ったそのテロリストたちもまた、アラーに祈りを捧げていたに違いないのです。

 だとすると、アラーという神はなんと罪深い神であろうかと思うのです。

 アラーを罪深いと嘆く私は、はて、一体いかなる宗教の信徒であるのか、思案するも、答えは出てきません。
 パスポートとか、他国への入国に際して、宗教を問われる時があります。
 無宗教は危険思想の持ち主だと思われる危険があるから、そこに印をつけるなと言われたことがあります。
 だから、信仰はしていませんが、家の墓がある寺、それは仏教だから、自分は仏教徒だと名乗っています。

 でも、仏教徒らしい事はなにもしていないのです。

 私は、寺や社を巡るのが好きです。
 つくばの街は新しい人工の街ですが、周辺には万葉の時代からの歴史ある寺社が多くあります。その寺に行って、ぶらぶらするのが好きで、よく出かけます。
 寺社の中は、やるせない世間とは隔絶した特別な空間だからかもしれません。
 俗世の汚れない、気持ちが洗われる空間なのです。
 古い石仏が置かれ、古木が命を永らえている空間は、気持ちを楽にさせてくれるのです。
 人間関係の煩わしさから抜けた今も、人の心には様々な苦痛が押し寄せてきます。
 そんな気持ちを落ち着かせてくれるのがそうした空間なのです。

 だから、私はそこにいくです。
 それは純粋に宗教的なこころもちがそうさせているのかもしれませんが、自分の中では、そうだと断言できるものではないのです。
 と言うのは、そのような心持ち以上に、文化的な関心、さらに、詩的なもの、哲学的なものに対する思いが、強く、そこには出ているからなのです。

 つまり、寺や社へと、私が向かうのは宗教的な誘発からではなく、学際的な動機が強いということなのです。

 クアラルンプールで、イスラムのモスクに入ったことがあります。
 つくばにある寺の古風なありようと異なり、なんとけばけばしい色づかいであるのかと思ったことが印象として残っています。
 そして、寺や社にあるはずの像もなにもない殺風景なありように宗教の違いを知らされたのです。

 神や仏は、人が作り、信仰することを求めて来たものです。
 そのために、それらに仕えるものたちは、苦行を積み、神仏の境地に近づいていったのです。
 だから、奇跡さえも起こすことができたに違いないと思っているのです。
 世界の各地で起こったと言う奇跡はまんざら嘘でもないと思っているのです。

 今年、母が亡くなりました。
 墓のある寺の坊さんにお経をあげてもらいました。
 戒名もつけてもらいました。

 残されたものには、なにをどうしたらいいのか分かろうはずもありません。日頃から宗教活動をしているわけではないのですから当然と言えば当然です。
 だから、葬儀社のアドバイスを受け入れ、墓のある寺の坊さんの言葉を受け入れたのです。

 坊さんは、お布施は気持ちでいいと言います。しかし、戒名は金額を言いました。
 字引を引いて文字を選ばなくてはいけないからか。それとも、その宗派に内規みたいなものがあって決まっているものなのかはわかりません。
 私の中で、いくつかの文字に対して、何十万もの金を払うことに納得がいかなかったのは事実です。

 仏壇の中を久方ぶりに覗きました。 
 父や母の戒名に比べて、祖父のそれは、文字数が大幅に少ないものになっていることにそのとき気がつきました。
 戦後の貧しい時期に亡くなった祖父は退職金を一夜で飲んだと言います。
 だから、墓も、戒名も質素なもになったと思っているのです。

 母は、自分が死んだ時のために、いくばくかの金を残してありました。
 きっと、父の会社勤めのおかげでもらっていた年金は生活費として、そして、父のもう一つの年金、兵隊に行ったことでいただける年金を貯めていたに違いない、と思うのです。
 すでに父が亡くなった時、自分の戒名を彫って貰えばいいように、位牌まで用意していたのです。
 だったら、坊さんの言うようにするしかあるまいと思ったのです。

 先だって、新聞にこんな記事がありました。
 戒名は自分でつけていいと。

 なにィ〜、と目を丸くして読み入りました。

 各宗派には戒名のネタ本があり、坊さんはそれを参考に、字を選び、ありがたく、そして、厳かに渡すと言うのです。
 戒名などという、そんなものがあるのは、日本だけとも書いてありました。

 あの世に行って、そこで通用する名が戒名であるならば、なければ困ろうが、それが日本だけとは恐れ入った次第です。
 坊さんに体よくあしらわれているんじゃないか。
 坊さんが生活するために、坊さんの子を大学に送るために、爪に火を灯して暮らしてためた金を、与えていいはずがないと心の中では憤るのです。

 なんでもそうですが、今は曲がり角の時代です。
 それは、学校や産業ばかりではなく、宗教も同じなのです。

 私には、今までも、これからも、きっと宗教活動に身を投じる気持ちはありません。
 神仏からすれば、それは不届きもので、死後、何らかの罰を与えられるかもしれません。

 しかし、宗教心はあるのです。

 寺社仏閣を訪れて、その宗教的な雰囲気に心を穏やかにすることができるのです。そして、巡ることで手を合わせることも、手を打つことも何の躊躇もなくできるのです。

 それに免じて、来たるべき時には、神仏には許しを請おうと思っているのです。




僕たちはもっともっとやれるんだ

km;oimliu13bkhp928ljn
朝霧がかかる日の多い秋のつくば、見慣れた街の風景が、白いレースをまとい、おめかしをしています。


 いつものように、裏道を歩いていると、突然、ある歌の詞が心に響き渡りました。
 懐かしい、そして、かつて、私に力を与えてくれた言葉の羅列が心にこだまします。

 そうだ、子供の頃に聞いていた、いや、意味もわからず大きな声で歌っていた、あの歌だと思い出すのです。

 でも、歌詞はあやふやです。
 立ち止まり、iPhoneを使って、早速、検索してみます。
 ありました。

 「丸い地球の水平線に何かがきっと待っている
  苦しいこともあるだろうさ 
  悲しいこともあるだろうさ
  だけど僕らはくじけない
  泣くのは嫌だ
  笑っちゃお」

 そうだ、この詞を大きな声を出して、歌っていたんだ、と。

 「時」というのは残酷なものだと、つくづく思います。
 「時」が過ぎ去って、初めて、あの「時」の良さがわかるのです。
 あの「時」にはわからなかった素晴らしさが懐かしさとともに胸に迫ってくるのです。

 子供の頃、私はあの歌の意味などお構いなく、歌っていたのです。

 でも、確かに、この詞から元気をもらっていたのです。
 人生における苦しさなんて、知ったこっちゃないくらいのボンクラであった私です。
 それでも、大人たちをみて、人生というのは辛いものなんだ、だから、男たちは酒を飲み、女たちは倹約して、たまに豪勢な暮らしをしようとコロッケではなくメンチカツを買ってくるのだと。

 子ども心に、心の奥底から、得体の知れない不安が湧き出してきます。

 私は、世の中に出ていけるのだろうか、父のように働いて家族を養っていけるのだろうか、自分にはそんなことできないのではないかと、なんの根拠もなく、そんな不安が押し寄せてくるのです。

 そんな時代、この歌を大きな声で歌っていたのです。 
 だから、私はきっと、この詞が言うところの「苦しいこと」「悲しいこと」を抽象的だけれどわかっていたと思うようになったのです。

 それゆえ、くじけてなるものか、泣いてたまるかと、歯をくいしばることができたのだと、そう思ったのです。

 先ほど、「時」とは残酷だと語りました。
 しかし、「時」と言うのは、あの「時」があって、今の「時」があるのだとも考えるのです。
 そう考えると「時」は残酷なのではなく、しかるべき段取りをとって、そこに各人の努力が加味されて、しかるべきあり方で眼前に現れている、だから、それは残酷でもなんでもなく、必然的な形でそこにあるだけのものだと思うようになるのです。

 今、二十歳であれば、たった二十年の「時」を嘆くのではなく、これからの六十年のありようを笑って考えればいいのです。
 今、四十路の歳であれば、自分の不甲斐なさを哀れむのではなく、急転直下打開していく方策を諦めずに笑って考えればいいのです。
 そして、六十路の境に入った御仁もまた、丸い地球の向こうにあるだろう「何か」に思いを寄せて行けばいいのです。

 僕たちは、いつ何時でも、もっともっとやれるだけの力を持っているのです。

 いつ何時でも、その時点で、手を休めたならば、僕たちはそれでおしまいなのです。
 誰がなんと言おうと、僕たちはくじけずに前へと進むだけなのです。
 私は、そう思案し、裏道を急いで、書斎に戻ってきました。

 子供の頃に耳にしていた、そんな詞の影響が、今だにあると言うことは素晴らしいことです。
 時代は刻々と変化し、あの時には想像もできなかったことが現実になり、段階を経て、それが成立しているので、画期的な変化とは捉えることが容易ではないのですが、あの時点から一挙に今に至ったと想像すれば、それはまさに驚くべき変化変容なのです。
 まるで、タイムマシンで未来世界にやってきたかのような気持ちにもなるのです。

  書斎の椅子に深々と身を沈めて、さらに思案を続けます。
 人類は、あの蒸気機関を手にした時点で、肉体を酷使して働くことから解放されたのだ、と思うのです。
 蒸気機関は、やがて、さらにより高度な機関に取って代わり、私たちは過酷で、油まみれ、埃まみれの肉体労働とはますます縁遠くなっていったのです。

 そして、コンピューターが私たちの生活に入り込んできたのは、つい先ごろのことです。
 計算すること、設計図を描くこと、契約書を書くこと、つまり、人間が頭を使って行う分野のことをコンピューターがしてくれるようになりました。
 これにより、人間は、肉体ばかりではなく、頭脳労働からも解放されつつあるのです。

 今、AIが確実に新しい時代を作り出してきています。
 予測では、AIが人から仕事を奪っていくとことは確実で、今ある仕事の大半が消えてなくなると言います。
 AIに仕事を取られることを嘆いていいわけがありません。
 AIを扱えるか否かで、差が出てしまうことを悔やんでもいけません。

 人類は、過去二度も、自らが作り出した機械によって、大きな洗礼を受けてきているではないですか。
 だとするならば、AIは三度目の洗礼であると考えればいいだけの話です。

 だから、あの詞のように「笑っちゃ」えばいいのです。
 だって、肉体労働からも、頭脳労働からも解放され、後は、精神の解放があるだけではないですか。
 より人間らしい、より自由で、より豊かな生活を送ることだけを考えればいいのではないですか。

 AIは、やがて、人間が持つ感情さえも持つようになるでしょうが、今の段階ではそこまでの感情レベルを持つことはできていません。
 それを持てるのは、人間だけなのです。

 感情は、想像の源泉であり、創造の活力となるものです。

 だったら、僕たちはもっともっとやれることがあるはずなのです。
 もっともっとやれるんだと言う気持ちがあれば、丸い地球の地平線の向こうに何かを見つけることができるんだと、そう思うのです。




毒とエビとピコ太郎

lfnadfbty773ohd,anj
今、つくばは紅葉の真っ盛りです。自宅の周りも、公園も、木々が装いを改めて、美しく輝いています。テレビなどで、素晴らしい紅葉を見ますが、どこもかしこも多くの人で賑わっています。つくばは本当に静かに、素晴らしい紅葉を見れるのです。今年、公園を綺麗にしてくれる園芸会社の人たちの仕事はとても丁寧です。それがなお一層紅葉を気持ちよくさせているとも思っています。


 1971年の7月のある日のことでした。

 アメリカ合衆国大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーが、アジア歴訪の旅に出発しました。
 訪問先は、サイゴン、バンコク、ニューデリー、ラウンビンデイです。

 いかに目ざといアメリカのマスコミでも、今回ばかりは、なんとつまらない歴訪だと思いました。
 近々予定されている北ベトナムとの会談の準備として、サイゴンを訪問する以外は、単なるご機嫌伺いに過ぎない、まして、ラウンビンデイなどどこにあるのかもわからない、税金を使って、静養でもするのではないかと陰口を叩いたのです。
 しかし、大統領補佐官が歴訪の旅に出るのに、記者を派遣しないわけにはいきません。
 各社、それぞれ記者を同行させ、記事を送らせたのです。

 予想通り、なんと言うこともなく訪問は順調にこなされていきました。

 ところが、ラウルピンデイで記者団に対して、補佐官は体調を崩したため、これから48時間の静養に入ると通告がなされたのです。
 記者たちも、やはりと思い、自分たちもまた2日間の休暇をとったのです。
 ラウルピンデイには、何もありません。
 あるものはバンコクに戻り、あるものは、サイゴンで時間を潰すことにしたのです。

 しかし、この時、誰もが、キッシンジャーの真の狙いを察知することはできませんでした。

 キッシンジャーが、体調を崩して静養した先はあろうことか北京だったのです。。
 当時、米中間に国交はありません。 乗り込んだのは、パキスタン大統領専用機です。
 機内には、毛沢東の縁戚にあたる王海容、ニューヨーク生まれの英語を巧みに話す唐聞生ら5人の中国人が乗っていました。
 到着した北京空港では、葉剣英軍事委員会副主席が出迎えました。

 この時、世界を驚かすニクソン訪中の下準備が、キッシンジャーと周恩来の間でなされたのです。

 周恩来は、その後、田中角栄を北京に招き、国交を回復。
 キッシンジャーは今もアメリカ大統領に対中政策で意見を述べる立場にあります。

 ゴルバチョフは母国ロシアでは人気のない政治家です。
 いや、人気のないどころではありません。場合によっては、ソビエトを心の頼みとする保守派からは裏切り者のレッテルと貼られている政治家でもあります。

 しかし、おそらく、歴史に名を残す政治家として、ナポレオンや、マキャベリ、ルターなどと並ぶ存在になることは確かなことです。

 ゴルバチョフが世界にその姿を現したのは、前書記長ネルチェンコの葬儀の席でした。
 ミッテラン、サッチャー、この時は副大統領であったブッシュらが、モスクワを訪れ、彼と握手を交わしました。
 このゴルバチョフが、歴史を変える存在であるとは、この時、誰も信じることはできませんでした。

 しかし、西側の指導者たちはゴルバチョフのある一点に気づいていました。

 それは、この新しい書記長が、これまでのソビエト指導者と違って、笑みを浮かべて、握手できると言うことでした。
 ブッシュから報告を受けたレーガンは、ゴルバチョフと会うことを決断します。
 お互いに、長く続く不毛の冷戦を終わらせたいと思っていました。
 アメリカは、軍を欧州に展開する浪費をやめたいと思っていたのです。そのため、レーガンは、宇宙にサテライトを置いて、異状を察知したら、軍を展開する<Strategic Defense Initiative>計画を立てていました。
 すなわち、 SDI構想なるものです。
 それをマスコミは<スター・ウオーズ>と呼んで、面白く書き立てたのです。

 ゴルバチョフにとっては、SDIは気がかりではありましたが、ソビエトの経済は行き詰まり、とんでもないところに来ていました。これを打開しなくてはソビエトに未来はないのです。

 二人の会談は、しかし、難航を極めました。
 相互の不信とそれぞれの国内事情が、二人の指導者の前向きな姿勢を阻んでいたのです。
 二人とも、浮かぬ顔でカメラの前に立つだけです。

 そんな会談が、レーガン夫人ナンシーの妙手で、雰囲気を大きく変えることになったのです。

 彼女はアメリカからロブスターを取り寄せ、ゴルバチョフ夫妻に振る舞ったのです。
 ロブスターは、会談を行なっているジュネーブにはない、アメリカの伝統的な食材でした。
 わざわざ、アメリカからこの豪勢な食材を運ばせ、自分たちに振舞ってくれる、そんな心配りはゴルバチョフを少なからず動かしたのです。
 ゴルバチョフは、アメリカのもてなしのありように感動するのです。

 その返礼は、今度はレーガンの訪ソ時になされます。
 クレムリンの迎賓の間でおこなれたディナーに、ゴルバチョフはポーランドから、アメリカ人が好んで食する七面鳥を取り寄せ、振る舞うのです。
  レーガンもナンシーも、これらの料理が、ロブスターの返礼であることに気がつきます。レーガンは、料理された七面鳥を何度もお代わりしたと言います。
 ちょっとした料理の気づかいが、人の心を和ませるのです。
 レーガンは、ゴルバチョフへの信頼を高め、ソ連へのわだかまりを捨て去ることができたのです。

 歴史は夜作られるとは、日本の政治のありようとしてよく使われる言葉ではありますが、米ソ和解の歴史は、ロブスターと七面鳥で作られたといってもいいでしょう。

 この二人の一連の会談の結果、ついに、東西冷戦という一時代は終わったのです。  

 その後、ゴルバチョフは赤軍のクーデターに見舞われ、求心力を失い、クレムリンの壇上で、エリツインから書類を読めと強要され、会場にいた人々から冷笑を浴びます。
 しかし、今も、発言をし、それが取り上げられるのはエリツインではなく、人類の歴史を正しく見据えることができたゴルバチョフなのです。

 偉大な政治活動というのは、時に人を騙し、時に、食卓を囲んで成果を見いだすことができるものなのです。

 先だって、アメリカ大統領がアジア歴訪を行いました。
 日本の総理大臣が提唱するインド太平洋戦略を、アメリカ大統領が踏襲すると明言したことは、大きな意義のあることです。
 ピコ太郎が先例を覆して、いうならば、無礼講に近い晩餐会になったことは、おそらく、後世にまで語り継がれる出来事になる、可能性を秘めています。

 その可能性とは、インド太平洋戦略が一帯一路戦略を駆逐することで成立します。

 対中戦略の歴史的転換点となるか否かで、ピコ太郎は、世界史に名を残すか否かが決まるのです。
 嬉しいことに、オーストラリアが外交白書を出して、これに賛同しました。
 インドももちろん同調しています。東南アジアの海洋国もまた然りです。

 しかし、アメリカ大統領のアジア歴訪に際して、珍妙なエビを出すお国がありました。

 かつて、ナンシーは母国からロブスターを取り寄せ、ゴルバチョフを歓待したのです。ゴルバチョフは、返礼にポーランドから七面鳥を取り寄せ、アメリカ家庭料理を振る舞いました。
 それにより双方が胸襟を開き、時代を動かしたのです。

 自国のマスコミを時には騙し、政治状況の打開を進めたことも、ピコ太郎がありうべからざる手を使って、賓客に近づき、場をもり立てたのも、きっと時代を切り開く端緒になるはずです。

 これこそ、国際政治の場における、奇策となるのです。

 しかし、この珍妙なエビは、愚策として歴史に刻まれました。
 このエビは、毒を持って周辺に散乱し、何ものも生み出すことはないのです。




待ち合わせの時迄

90p8u47aykbhj,dknma092ip
オーストラリアのT2で買ったハーブティー。フルーツの香りが満ち満ちて、ちょっと酸っぱい香りもそこに混じり、左ぁ、仕事を始めるぞと言う時にぴったりです。湯を注ぎ、窓に面した出窓に置いておいて、太陽の光を背に、ガラスポットをみると、エキスが遂げ出してくるのが見て取れるのです。ちょっと、美しいと思うのです。


 久しぶりに、銀座に出ました。
 相変わらず、量販店の近くには中国からの観光客が、幾分流行遅れの、それでも派手なダウンを着て、元気にたむろしていました。 銀座の幅広い歩道には、広東語やら北京語が飛び交って、さながら、中国人街のようになっていました。

 アップルストアに立ち寄りました。
 4階では、この日、講座は開かれていませんでした。
 その代わり、椅子の背もたれに足をあげた中年のおっさんが貧乏ゆすりをしていました。時間つぶしでしょうか、それとも、営業の途中、サボっているサラリーマンかもしれません。

 その男、そうこうするうちに、隣の男に話かけました。
 日本語でも中国語でもありません。
 何気に見た顔から判断すると、マレーシア人かもしれません。
 気づくと、そのフロアには随分と仲間がいたようで、一斉に立ち上がり、気持ちいいくらいに会場から出て行きました。
 きっと、次の観光地に行くまでの空いた時間であったのでしょう。

 銀座があまりに外国人ばかりなので、日比谷公園まで歩いて行きました。
 伊達政宗の江戸上屋敷があった場所が今公園になっています。
 1970年、大学生になった私はこの公園で開かれたいた日米安保更新反対の集会に参加していました。
 若き日の私は、政府のアメリカ寄りの政策を快く思っていなかったのです。そぼ降る雨の中を飯田橋から日比谷まで急ぎ足で歩いて会場に行ったことが思い出されます。
 しかし、今日の日比谷は紅葉の真っ盛りです。
 雲形池を取り巻く紅葉スポットにも、たくさんの観光客がいました。盛んに自撮り棒を空高く掲げて、自分を入れて写真を取っています。
 すみません、シャッターを押してもらえますかなどという言葉は、そのため日本人にはかかりません。
 外国に来て、その国の人々と会話の一つもしないで帰るなんてもったいないと思いながら、観光客の間を縫って池の周りを巡ります。

 日比谷公園の北の端に結婚式場がありました。
 寒空の中で、野外での結婚式でした。
 生垣から覗き見ると、大きなストーブが焚かれて、寒くはなさそうです。
 朗々としたオペラのアリアがゲストによって歌唱されています。

 察すれところ、音楽家の誰ぞがめでたく式を挙げていると言うことでしょうか。
 失礼とは思いながら、生垣の外に立って、その見事な声楽に耳を傾けます。
 終わると、酔っ払った男の声でアンコールと声がかかりました。
 これはいただけない、男はそれが礼儀だと思って声をかけたようですが、周りから止められていたような雰囲気が漏れ伝わって来ます。
 どこでも、酔っ払いというのは困ったものです。

 所在ないまま、日比谷から有楽町に流れて行きます。 まだ、待ち合わせの時間には余裕があります。
 有楽町駅の前にある家電専門店に、時間つぶしに入りました。
 マックの製品を置いてあるところで、iPhone Xを手にしていると、私より背の低い欧米人の男性が、私に声をかけて来ました。
 流暢な日本語です。

 いいですね、欲しいですね、というのです。
 そうですねと答えます。
 続けて、お持ちではないのですかと問いかけて来ます。
 私のは iPhoneSEです、と胸ポケットから出して、それを私に見せます。
 私も同じですよ、とズボンのポケットからそれを出します。
 ただそれだけの会話です。彼はニコッと笑みを浮かべて、立ち去って行きました。

 向かいに、これも欧米人の女性が所在ないまま立っています。
 やがて、店員が彼女の元にやって来ます。

 この商品です、お客様、これはカバーだけで本体はありませんよと日本語で言っています。
 その日本語を聞いた欧米人の女性はわかっています、とこれまた流暢な日本語で答えています。

 昔、若かった頃、駅のホームや銀座の街角で欧米人から道を問われたことがあります。
 片言の拙い英語で教えてやるのですが、心の中では、お前たち日本に来るなら少しは日本語を勉強してから来いと叫んでいました。
 私たちがお前さんたちの国に行くにはそれなりの準備をして行くんだとさらに心で叫ぶのです。

 ところが、今、彼ら欧米人は日本語を喋ります。
 しかも、楽しんでいます。

 先ほどのiPhoneSEを持っていた男性もきっと、私と日本語で話したかったに違いないとその時思ったのです。
 しかし、目の前にいる女性に、私は語りかけることははばかりました。
 神経質そうな彼女の眉間のシワが私を躊躇させたのです。

 日本人との接触を避けるかのような中国の人たちと欧米人の違いがそこにあるなと思いながら、きっと、あと10年もすれば、中国の人たちはうるさいくらいに、銀座を歩く私たち日本人に話しかけて来るに違いない、そしたら、それはそれでうるさくてかなわないと思ったのです。

 銀座口での待ち合わせまであと30分と迫りました。
 雨が降って来ました。
 随分と歩いて来たので、少々のどが渇きました。

 私は、駅の銀座口のそばにあるコーヒーショップに入り、一杯のコーヒーを注文しました。
 狭い店内の、隣のテーブルで男が二人熱心に話をしています。
 いやでも、その会話が私の耳に入って来ます。
 
 一人が誘っているようです。もう一人はその誘いに興味を持っているようです。
 あなたの職場で上司に反発しているような人がいたら、そっと声をかけるんです。
 よかったら転職を紹介しましょうかと。
 そうして、一人紹介するたびに何がしかの金額がもらえるんです。
 私の友人なんか、それが副業で、月60万稼ぎますよ。
 60万と聞いて、誘いを受けている男は身を乗り出しています。

 騙されるなよと私は心の中でそっと言葉をかけます。

 事務所も何もいらない、名刺だけでいんですと、つまり、経費がかからず、人材派遣の仕事が成立するというようなことを言っています。

 そんなうまい話があるものかと、一人密かに反発をします。

 とりあえず、明日にでも、社長にあわせますよと男は言います。
 すぐにでも、誘っている男は誘われている男をものにしたいようです。
 誘われている男は、興味はありますがと次第に言葉を濁して来ます。
 自分にはそのようなことはできないと踏んだようです。
 
 そうだ、その調子だ、この世にうまい話などないぞと心の底から激励をします。

 紙コップに入ったコーヒーもすっかりとなくなり、アイフォーンSEをズボンのポケットが出して時刻を見ると、待ち合わせの時間が差し迫って来ました。

 私は、この男が騙されないことを願って、待ち合わせ場所の銀座口改札に向かっていきました。




歴史小説は政治家の失敗をどう描くか

oikm2734yoalbhns0-w-0oka,/c
西の空が紅に染まり、地球上で最も素晴らしい光景を見せています。初冬の西の空はこの星が素晴らしい星であることを示して疑いがありません。今日も、素晴らしい1日を過ごせてことに感謝です。


 その顛末がわかっていても、歴史小説を手にするのは、作家の歴史に対する見方、解釈を描く技量を堪能することもさることながら、そこに、自然と自分を重ねて、進行中の人生の成り行き、あるいは、悔悟の念を抱いているある種の出来事への思いを重ねているからだ、と思う時があります。

 例えば、光秀が信長を本能寺で自害に追いやった時、そこに上司への不満を持つ心と重ねることもあると思います。
 だからと言って、夜討ち朝駆けで、上司を葬り去るわけではありません。
 そんな話にいっ時の爽快感を得るだけの他愛のないことではあります。
 そして、その後、光秀が秀吉に討たれたことを思い出し、それはまずいといとも簡単に、今度は、光秀から秀吉に鞍替えです。
 なんとも軽薄な妄想ではあります。

 さて、現代の政治家というのを、後世の歴史作家が小説として創作する時に、いかように描くかすこぶる興味があるところではあります。

 例えば、都知事さんですが、自らの言で、あれだけ巻き起こったブームが一気にしぼんでしまったことを、「短期勃興没落型天下」とでも書くのでしょうか。
 あるいは、「さらさら排除の平成女政」とでも意地の悪い作家は書くかもしれません。
 
 そう考えると、歴史というのは、酷なものです。
 勝てば官軍ですが、負ければ何を言っても、何をしても、立つ瀬がなくなります。

 昔は、首を取られたわけですが、今はそんなことがありませんから、生き恥を晒すか、どこかのテレビ番組が、<あの人は今>なんて番組を作って、カメラを回すかもしれません。
 政治家は年金もないそうですから、生活保護を受けてひっそりと暮らしている姿を見るなんぞシャレにもなりません。

 人生は失敗の連続であるなどと警句を述べて、失敗を噛みしめる御仁など、実際にはおりません。
 もし、そんな警句を口にする人がいれば、それは確かな成功者に他なりません。
 人生は失敗の連続であるなどという言葉を口にできるのは、人生を失敗続きの人間には、言うことさえもはばかることなのです。

 でも、政治を行う人間は、そうでもないようです。
 自らの党を割ってまで、都知事の、その時は上げ潮であった流れに乗ろうとし、乗るからには、妥協も必要と、それがため、思いのほか、都知事にぞんざいに扱われ、挙句に、さらさら排除ときましたから、一気に上げ潮が下げ潮に転換して、現代史に残る大敗北を喫したわけではあります。
 しかし、自らの党を割った政治家から、それはわが責任という言葉はついぞ聞かれませんでした。
 そうなると、京大出の俊才も形無しです。

 まあ、日本人は心の広い人が多いですから、負けたものに必要以上のムチを当てることはしませんが、それに振り回され、大枚をはたいて立候補した若き政治家には気の毒なことです。

 政治家において、失敗の第一は、いうまでもなく、その<発する言葉>だと言えます。
 発する言葉が失敗につながるのにも、ある種の法則があります。
 まず、政治家の心に、自然と驕りなる心持ちが生じることから、それは始まります。
 都知事の場合で見てみますと、知事選で勝利を得て、その後の、都議選で都知事選を上回る大勝利を手にしたのです。
 さらに、それをマスコミが大々的に取り上げます。
 そうなると、人というのは、自らを冷静に見ることができなくなるものなのです。
 
 私ってすごい人間なんだという思いは、やがて、市井の民が何を求めているのかを横に置いて、つまり、政治家が最も大切にしなくてはいけないことに目を背け、過剰なまでの誤った自信を持ってしまうのです。
 それが、あの<さらさら排除>という一連の横柄な言葉遣いになっていくのです。
 
 暴言を吐いても、それが未来に語り継がれている例もあります。

 佐藤栄作という総理大臣が、辞任会見の折、新聞は出て行けと暴言を吐き、誰もいないテレビカメラだけが置かれた部屋で国民に語りかけたことがあります。
 あの時、子ども心にも、このおじさん、なかなかやるではないかと思ったりもしました。
 それだけ、痛快だったわけです。
 今も昔も、偉そうに書く、マスコミを一蹴したわけですから。

 ハマコーという政治家も痛快でした。
 バリケートを壊し、殴られてもいないのに、廊下に転がって痛い痛いとやって、自分の意図する方向に、流れを持っていったのですから、現代政治上における偉大な策士ではあります。

 佐藤栄作やハマコー以上に痛快な政治がいます。

 現総理です。
 一旦は、病気で首相を辞したわけですが、それが復活して、今、G7では長老格にあるのです。
 中国からも、最近はあの刈り上げの国からも毛嫌いされています。
 ニコリともしない自称大国の主席とにっこりと微笑み写真を撮り、破天荒な大統領が登場すれば、すぐに出かけていって会うという行動力も持っています。
 相手が一帯一路で来るならば、こちらはインド太平洋だと向こうを張り、それをアメリカの大統領までもが言いだすのですから、大したものではあります。

 さほどの政治家であるかどうかは、政治という性質上、判断を早急にだすのは避けますが、この政治家にあるものは、きっと「運」の良さではないかと思うのです。

 なんでも「運」にするのは失礼にあたりますから、もう少し前向きに述べるとするなら、人望があったとしておきたいと思います。
 一旦、総理を辞した政治家が再び首相に返り咲くには、やはり、人が付く魅力、人が匙を投げない期待があったとしか思えないのです。

 きっと、後世の歴史家は、この政治家についてあれこれと書くとは思います。 
 そして、そのテーマは、「失敗を克服し不死鳥のように舞い戻った政治家」とでも書くのではないでしょうか。
 ただし、それは、今現在までのありようを踏まえてのことです。
 なにせ、一寸先は闇の世界ですから……。




毅然とした文学者たち

ioluhnjihnjdf76384yflhajiofk
朝霧を全身にまとった小菊の群れ。なんだか、犯してはいけない花園に踏み込んでしまったような気持ちになるくらいの美しさでありました。


 和田竜さんと言う作家が、新聞に書いていた文章を読みました。
 あの歴史小説の大家、海音寺潮五郎の若き日の逸話です。

 陸軍に徴用され、報道班として、海路、戦地に赴く際、上官にぐずぐず言う奴はぶった斬ると凄まれたと言うのです。
 あの時代、文学にうつつを抜かしている奴など軟弱者として思われていたに違いありません。
 ですから、この陸軍の指揮官、軟弱者の文学青年を前に、喝を入れたと言うところでしょう。

 ところが、一人、4尺の同田貫の大業物を朱鞘におさめ、それを背につけていた文学青年、(なんと格好がいいのでしょうか、まるで、剣士のような姿です)が、「ぶった斬ってみろ!」と、今度は逆に凄んだと言うのです。
 この指揮官、以来、船室にこもり、出てこなかった、と言う逸話でした。

 この「同田貫」なる漢字は、<どうたぬき>と読みます。

 九州は肥後菊池で鍛えられた刀を言います。
 肥後といえば、加藤清正です。清正配下の刀鍛治らしく、「同田貫」は装飾を加えず、質素な造りの刀で、そのため、美術品的な価値はまったくないと言われる太刀です。
 と言うことは、反面、この太刀が実用向きであり、人を斬ることだけに主眼を置いて造られた剛刀と言っても差し支えないのです。

 そうなれば、多少、刀に通じていたと思われる陸軍の士官には、朱色の鞘に収められた大業物を見て、ドキッとしたに違いないことは目に見えてきます。

 この「同田貫」、面白いことに、いろいろなところに出てくるのです。

 例えば、かの有名な拝一刀が持つ刀がそれです。畷左門の愛刀も然りです。
 前者は、『子連れ狼』の主人公が持ち、後者は『必殺仕事人』の剣豪が持つ刀でした。

 この「同田貫」、「胴田貫」とも書かれ、田んぼに転がった人の胴体を試し斬りをすれば、田んぼまで刀が抜けていくと言われるもので、どうやら、この大げさで芝居がかった呼称は、時代劇作家が好んで使い、剣豪に持たせたらしいのです。
 きっと、その一人で、その最初が、あの海音寺潮五郎ではないかと推測しているのです。

 まぁ、歴史小説家として、時代劇作家としての面目躍如というところでしょうか。

 文学者は軟弱であると先ほど書きましたが、しかし、そうでもないというのは海音寺の件でもわかったと思いますが、実は、女心を書かせたら天下一品と言われる谷崎潤一郎も、かなりの剛の者であったと思っているのです。

 谷崎の代表作ともいうべき『細雪』は、大阪船場の没落していく中産階級に属する四姉妹を描いた作品です。「ごりょうさん」とか、「こいさん」とか、関東ではあまり聞かない呼称が、叙情を醸している作品です。
 その谷崎、実は、軍部から戦時にそぐわない作品であると、『細雪』の雑誌掲載に異議を唱えられたのです。

 それでも、執筆を続け、時には、空襲警報がなる中で執筆していたので、けしからんと非難されたりもしたというのです。
 完成した続編は、私家版として製作し、知人に配布するのですが、それも軍部から阻まれたというのです。

 それでも、書き続け、戦後はGHQの検閲にも引っかかり、手直しして、出版にこぎつけたというのですから大したものです。

 さすが、剛の者、この諦めない根性、作品に対峙する文学者の心意気はさすがに見上げたものです。
 この横暴なる権力に媚びない姿こそ、文学者が持つ本質であり、決して、軍部や世間が持つ軟弱さなどというものは一流の文学者にはないものなのです。

 いうならば、一流の文学者には、生活の不安とか、将来への危惧など払拭するくらいの大いなる自信と創作活動へ一途さがあるから、多くの人から読まれる作品を作り出せるとも思うのです。
 さらに、いうならば、彼ら一流の文学者には「毅然とした」姿勢が満ち満ちていたとも言えるのです。
 海音寺のように、陸軍の軍人を恐れさせるようなあり方、谷崎のように、一途に作品にのめり込んでいく姿勢、これは毅然なる心持ちがなければできないことです。

 若い日、私が初めて、この「毅然」なる言葉を聞いたの学校に勤めたばかりの時でした。

 それまで「毅然」などという言葉を言われたこともなかったのです。
 ですから、「毅然」なる言葉の意味が、最初、よくわかりませんでした。
 「堂々とした」でもないし、「泰然、超然、平然、クール」とも違う、一体「毅然」とはいかなる態度であるかと考えたものでした。

 生徒の前に立って、生徒を導く教師が持たなければならない「毅然」とした姿勢とは何かということです。

 確かに、自分が中学や高校のとき、どこか頼りない、言葉がはっきりしない先生というものに対しては、どこかバカにしくさった視線を浴びせていた記憶があります。
 先生なんだから、生徒には強く言えよという類の、いうならば、教師不信です。

 生徒というものは、正しいことを正しいこととして動じない、頑なまでに基本を貫き通す教師には一目を置くものなのです。
 ですから、「毅然」というのは、生徒の前に立って、いけないことはいけない、ダメなものはダメと言えなくてはいけないのです。

 生徒は、あれやこれや、教師を品定めしてきます。
 若い、学校を出たばかりの青年にとっては、それは教員人生を左右するかもしれないほどの洗礼となるのです。

 私が教師になった頃、女子は長いスカート、男子はリーゼントで、教師としての私に攻め込んできます。
 馬鹿げたような話ですが、40センチの定規を持って、ひざ下からスカートの丈を測ったり、リーゼントを見つけてはシャンプーを渡し、洗髪させていたりしていたのです。
 俺はこんなことをするために、教員になったのかと自身を憐れみながら、仕事して取り組んでいたことを思い出します。

 一番簡単なのは、日本は自由の国だから、勝手にせよとさじを投げるのがいいのですが、それでは私学の教員として勤まりません。規則があるのだから、それに従えでは、生徒を納得させることはできません。
 なんとも、若造の教師としては大きな試練ではありました。

 そういう矢先に「毅然」という言葉がかけられたのです。

 相手は、この場合、軍人でも、警察でもありません。
 まだ、確固としたなにものも得ていない生徒たちです。
 流行を追い、若い教師をたぶらかし、小馬鹿にするのになんの躊躇もない子供達です。

 若き日の、教師になりたての私は、海音寺のように、小生意気で、ちょっと突っ張った男子に凄むこともできません。
 こちらが二十歳前半、相手は5歳ほど下のませた女子生徒にも同様です。
 むしろ、男子より女子の方が苦手でした。
 なぜなら、女というのは私の年齢以上にませているからです。
 谷崎のように、女心を弄ぶには、時期尚早であったというわけです。

 時に、強権を発動し、時に、相手の懐に飛び込みながら、そして、「毅然」たる教師とは何かを探求しながら、今に至ってしまったというわけなのです。

 それゆえ、海音寺や谷崎のような、文学者の「毅然とした」姿に畏敬の念を抱くのです。




ムラ社会的なせせこましさがそこここに

i9ujn76figbdn97649o8793hluisjck>P
朝の街灯が白々とした光を路面に照らす向こうに、月が、いや、6機の何やら整然とした編隊が見えたのです。地球のパトロールを終えて、月の裏面にあるという基地にでも帰るのでしょうか。この星では、ロクでもないことが毎日起きている、征略するには当たらないとレポートを司令部に送っているかもしれません。iPhoneに移った6機編隊を見つけて、思わず空を見上げたのですが、未確認物体は物の見事に姿を消していました。残念!



 世の中には、さまざまな問題が飽きもせずに発生しています。

 政治の世界では、目下のところ、サウジと北朝鮮、そして、ジンバブエの問題が注目を集めます。
 実際問題、遠くから眺めているだけの者にとっては、これらの、問題は興味半分といったところでもあります。
 今朝は興味半分のこれらの出来事を、これまた興味半分に述べていきたいと思うのです。

 確かに、サウジの王族間の内輪もめなど、大した影響があるわけでもありません。
 ちょっと前であれば、OPECの石油輸出に滞りが出て、ガソリンが値上がりという事態も起きたのでしょうが、今は、アメリカのシェールガスのおかげで、そんなことも話題にならなくなりました。

 北朝鮮は、これは、本当に困った国であると私は思っていますし、私ばかりではなく、多くの人がなんとかならないものかと思っていることと思います。
 なんとかならないかという言葉の中には、あんな国潰してしまえという気持ちも十二分に入っているはずです。
 しかし、それを行える国、アメリカにとっては、国民を納得させる確固たる理由がない限り、そして、それを安直に行うことは政権の崩壊につながる重大事ですから、容易に手出しができないということになります。
 それもこれも見込んでの、ずる賢い戦略で、あの国はなんとか生き延びているのです。

 先だって、夕方のニュースで、日本海の好漁場である大和堆に、北朝鮮の漁船が大挙して押し寄せ、魚を取っているというニュースが放映されました。
 日本の漁船が煌々と明かりを灯し、魚を誘うと、そこに北朝鮮の漁船が大挙押し寄せてきて、網を流し、魚を一網打尽にしていくというのです。

 映像を見る限り、かの国の漁船は木造の貧弱な船です。
 我が方の漁船は、レーダーにしろ、通信設備にしろ、安全策が施された最新の漁船です。
 その漁船が前近代的な漁船にしてやられるとはなんとの情けないと思っていたら、安全確保のために、その場を離れるというのです。
 つまり、かの国の流した網がスクリューに絡まれば、船は動かず、その修理も並大抵ではない、第一、乗組員の命にも関わるというのです。
 そうであるならばと納得はしたのです。

 案の定、かの国の漁船は事故を起こし、沈没し、日本の公船がその救助にあたっています。
 日本の排他的海域で無法に操業し、その上、日本から救助されるのですから、どこまでも日本はお人好しの国だと思うのです。

 しかし、シーマンシップを叩き込まれた公船の乗組員は放置しておくこともができないのです。
 ですから、人道上の観点からそれはそれで致し方なのないことと思うようにしたのです。

 それにしても、あのような木造の船に乗って、人の船の邪魔をしてまで魚を取らなくてはいけない国のありようを恥ずかしく思わないのか、そう感じもするのです。

 ジンバブエでは、90歳を超える大統領とその部下たちが争いを起こしています。

 どこかの学校での話ですが、理事長を追い出した顛末が漏れ伝わってきたのを思い出します。
 人の話ですから本当かどうかわかりませんが、その理事長は今ある立派な学校を作り上げた人だと言います。
 若い頃は、自分で車を運転し、中学を周り、生徒の確保に奔走したそうです。
 その功績が認められ、それまでお飾りであった理事長職に、今度は現場で指揮する理事長としてついたのです。
 以来、時には、傲慢に、しかし、人情味溢れる振る舞いで学校を鼓舞し、それなりの位置に学校を引き上げたのですが、年には勝てず、学校に出てくることも少なくなり、そのためもあって、その隙をついて、反乱がおきました。
 反乱を起こしたのは、その理事長から目をかけられ、引き立てられた連中であったというのです。

理事会では、罵詈雑言が飛び交い、理事の一人であり、弁護士が強引に理事会を取りしきり、議決を有効にし、学校を繁栄へと導いた理事長はあっという間にその職を解任されたというのです。

 老いた指導者をあれやこれら難癖つけて追い出そうとする、そんなレベルの問題が、ジンバブエでの出来事なのです。

しかし、そこにある大国が関与していると、アメリカの大統領からフェイク呼ばわりされている報道機関が報道を流しました。
記事を読んで見ますと、確たる根拠があるというわけではなさそうです。

ジンバブエの軍の司令官が中国を訪問した。
帰国してすぐ、軍が動き、90歳になる大統領を軟禁状態においた。
それが今回推測の出所になっているのです。

でも、これはありうることだと思うのです。
中国が、アメリカに代わって、世界情勢に与するという点で、これはありうることなのです。

隣国とトラブルばかりを抱える国が中国です。世界でも、このような国は珍しいのではないでしょうか。
 おおよそ、国というのは、隣国とはなかなかうまくやっていけないものです。そこには経済の問題もありましょうが、むしろ、人間が決定的に持っている、いわゆるムラ社会的なせせこましさが明らかにそこにはあると思っているのです。

 おらがムラこそ第一、隣村のことなど、一応は思っているふりするがそれはふりだけという社会です。
 国際社会などとたいそうな単語を用いていますが、一皮めくれば、そういうことなのです。

 せせこましさといえば、昨今、大騒ぎになっているのが、横綱のあの一件です。
 モンゴル人同士の親睦の会がとんでもないことになってしまいました。
 でも、あのようなことはよくあることで、別に驚きもしません。
 あちらの会社、こちらの会社、先ほど述べた学校と、あちらこちらでそんなことはよく起きているのです。そして、この手の問題は、当事者間で往往にして解決をしていくものでもあります。
 それが、泥沼化していったのには、何か原因があるのです。

 ムラ社会的なせせこましさーそれが原因です。

 なんでも、この件では二人が握手までし、その後の活動も平常通りだったと言いますから、誰が見ても、一件落着というわけです。
 ですが、それを、なんらかの魂胆でぶり返し、その騒ぎを利用しようとした人間が、どうもいた、というようなことがまことしやかにモンゴルでは言われているのです。

 まぁ、これからはっきりとしてくるかと思いますが、人間が起こす問題というのは、どうもせせこましい限りであると思うのです。
 私も、随分とせせこましい問題の中で生きてきましたから、これからは広い了見で、おおらかに生きていきたいと思っているのです。




絶対的価値なるもの

jknykbwuh103-09jalskdma.,l
つくばの山の麓に、稲わらが帽子を作って、刈り取られた田んぼに立っています。今時、農家は夜なべでもして稲わらでわらじを作ろうはずもなし、果てと思案。そうか、これを売るんだ。そういえば、私も買ったことがある。厳しい冬の間、これを引いておくと、バラも、ブドウも根っこが暖かく、よく年、いい花を咲かせ、ブドウは良い実をつけてくれる。きっと、そうに違いないと、独り合点し、歩いたのでした。


 ダ・ヴィンチ作の『サルバトール・ムンディ』が競売にかけられ、510億円と言う過去最高の額で落とされました。

 たて65、横45センチの小ぶりの油彩画です。
 1500年ごろに製作されたと言われています。
 青い服を着た正面を向いた男性はキリストです。じっと目をこらすと、左手には透明の水晶玉が置かれています。右手は人差し指と中指で、印を結んでいるかのような絵です。

 ダ・ヴィンチが生涯に描いた油彩画はさほど多くありません。
 そして、『サルバトール・ムンディ』を除く、すべてが美術館に収蔵され、私たちはそこへ出かけて行きさえすれば見ることができます。
 果たして、今回の落札者は美術館なのか。
 いや、500億円も出せる美術館などあるはずもありませんから、きっと大金持ちの個人収集家に違いありません。
 と言うことは、もう、この絵を好きな時に見ることはできなくなるということです。

 そう思うと、なんだか、馬鹿らしくなるのです。
 唐突になんだと訝る方もおられると思いますが、小ぶりの絵に、それも500年前のその絵に、たいそうな値段をつけたものだと思うからです。

 知恵を持ち、文明を発展させきてきた人類であれば、その絵に値段などつけることなく、人類が共有できる有形財産として、完璧に温度管理された倉庫で保管し、求めに応じて、世界各地で公開した方がよほどいいと思っているのです。

 しかし、中世ごろから、人は最高の美術品や、工芸品に対しては、それを宝物として私物化する癖を持つようになっていました。

 王族など一握りの人々が富を独占する時代が終わり、経済的にも、政治的にも権力を握る資産家が自らの権威づけのためにそれらを収集し始めたからです。
 自らの居宅に飾るもよし、功績を挙げた部下にあげてもそれは喜ばれたのです。

 今は、どうでしょう。
 資産家の趣味として、あるいは、財産の一部として、芸術品は集められているのです。
 私は、それもまた、馬鹿らしく、くだらないことと思っているのです。

 我が家にも多くの<芸術作品>が飾られています。

 いくつかを除けば、それらの<芸術作品>は、私自身が描いた水彩画であり、私自身が撮影した写真であるのですが、それを私は素晴らしい<もの>であると思っているのです。

 だって、自分で絵筆をとって描いたものであり、自分でカナダに出かけて行って、あるいはオーストラリアに出かけて行って、シャッターを切ったものです。
 他の誰よりも、それが描かれ、撮影された事情を知っているのですから。

 つまり、500億円もする、いつ、どのような状況で描かれたのかもわからない、ともすれば、ダ・ヴィンチが本当に描いたのかも怪しい、ただ、別目的のために買い叩いたモノとしか思えないものより、ずっと、価値があると思っているのです。

 いや、口惜しさで悪態をついているのではないのです。

 ゴールドコーストにツイードテラスという小さな岬があります。
 その岬に一軒のお茶や食事を提供する<Dbar>という店があります。その奥に、こじんまりとした美術品を扱う店があるのです。
 美術品といっても、名のある芸術家のそれではなく、地元の人が描いた水彩画、陶芸作品、あるいは、アクセサリーが売られている店です。
 値段は様々です。でも、決して安くはありません。

 作者に敬意を表しているのか、それはどうかわかりませんが、良い値段がするのです。

 もちろん、それだけでは店はやっていけないので、アボリジニーの作品、つまり、観光客が買っていくようなものも置いてあります。
 この類の店は、店のオーナー、あるいは責任者のセンスがものを言います。
 同時に、それらに興味を示し、買っていって、部屋に飾る客のセンスもまたものを言うのです。

 この店は、地元の芸術家を大事にし、名もなき芸術家ではあるが、ゴールドコースト、あるいは、オーストラリアという土地を意識した作品をものする作家たちの作品を展示販売するというスタンスで店を開いているようです。

 食事をして、一杯のコーヒーを飲み終わり、私は、しばらく店内をうろつきました。
 旅行者の一人である私には、どれもこれも、素晴らしいものばかりでした。

 ガラス製品も、雑貨も、こんなのが部屋にあったら素晴らしいに違いないと思わせてくれます。
 きっと、オーストラリアに暮らす人たちが、自分の部屋を飾るために買っていくに違いないと思ったのです。なぜなら、海外から来たものにとっては、持って帰るにはかさばるものであり、壊れる危険があるものばかりであったからです。

 なんとか賞を取った作品ではないが、自分が気に入った作品を手ごろな価格で購入し、家に飾るという文化が、500億円を投じて一枚の著名な絵を買う文化と並行してあることに、私は安堵するのです。

 先日、新聞を読んでいましたら、思わぬ言葉が記された記事に出くわしました。
 駒沢さんという方が書かれた文章です。
 そこに、『絵描きにはなるな。素人が仕事の傍ら、絵を描くのが幸せなんだ。』
 そんな言葉を発見したのです。

 その言葉を放ったのは、日本のパステル画の開祖とも言われている矢崎千代二さんという方です。日本パステル画会なるものを創設した方でもあります。

 『絵描きにはなるな』という宣言は、芸術活動と芸術そのものの楽しみ方を謳っている言葉であると私は思ったのです。

 高値で売り買いされるものではなく、一生懸命に描かれ、あるいは、撮影されたものにこそ、その人にとって価値あるものであるということです。

 それこそ、相対化された価値ではなく、絶対的な価値そのものなのだと、そう思ったのです。




人はいつも一艘の帆船に乗っている

iprj63kbhae09;va.
寒さの中、朝日を浴びて、健気にも、花を咲かせています。さくらも、うめも、おうともばいとも読めますが、きくはそのような読み方があるのかしらと思いながら、この花を眺めたのです。


 今、豪華客船の旅が<豊かな自由人>の間で人気を博しているといいます。
 新聞を見ても、停泊している豪華客船で半日ほど過ごす案内が出されています。きっと、半日、豪勢な時間を過ごさせ、豪華客船の航海に誘う宣伝ではあると思うのですが。

 あの戦艦大和には、当時としては破格とも言うべき冷房装置がついていました。
 戦場に出ることも少なく、常に後方にあって「遊弋」しているので、海軍の口さがない連中はあの巨大戦艦を「大和ホテル」と呼んだといいます。

 明治の優れた人材が、横浜から、客船に乗って、中国、東南アジア、インド、アラブを経て、ヨーロッパに出かけて行きました。
 思えば、これこそ、究極の憧れる旅ではあります。
 何せ、この旅では、途中のさまざまな土地、風俗、光景を見ていくことができるのです。
 これほど贅沢な時間と空間を持てる旅はないと思うのです。

 昔から今に至るまで「船」の旅というのは、さほどに、優雅であり、贅沢なものであるのです。

 しかし、その「船」の旅の草創期を見て見ますと、さほどの優雅さ、贅沢さはなかったようです。
 帆船が大海原を、風をはらんで疾走する姿を思い起こし、若き日、東京商船大学を志し、外国航路の船長を夢見ていた私には、素晴らしい光景にしか映らないのですが、実際は、凄まじい実態がそこにはあったと思うのです。

 狭い船内の中で、男たちは身を寄せ合って生活し、船を動かす仕事に従事しなくてはなりません。高いマストに登り、帆を上げ下げする仕事、嵐の中を体一つを張って、船を守る仕事です。
 航海技術も幼稚で、船長の判断一つで、船はいかようにもなったのです。
 それゆえ、人望と鍛えられた判断力を持つ船長という立場は、それが軍であれば上官の、それが商船であれば雇用主のお眼鏡にかなわなければなれなかった職種でもあります。

 隔離された船という社会の中で、帆船乗組員の楽しみは、酒、歌、踊りくらいかありません。
 いや、ちょっとしたことで起こる争いもまた最高の娯楽であったということは、いくつかの航海記を読むと、よくわかります。
 軍艦でも、商船でも、それを取り締まるはずの士官や航海士たちも、その取り締まりには手加減をしていたといいます。
 しかし、手加減を加えすぎると、航海は悲惨なものとなります。

 手加減をしたかどうかは定かではありませんが、あのバウンテイン号の反乱の話はあまりにも有名です。

 「パンの木」を求めて、タヒチにたどり着いたイギリス海軍バウンテイン号の反乱は、映画にも何度となく描かれています。
  人望のなかった艦長が人望のある士官から降ろされたという説もあります。
  苗木を運ぶために、船室が手狭になり、船員の不満が爆発したとも言います。
  タヒチでの長逗留で、船員の誰もが厳しい環境の船に戻ることを拒んだともいいます。

 でも、時々思うことがあるのです。
 現代の私たちの世界もまた、一艘の帆船の中にいるようなものではないかと。

 どんなに大きな会社に勤めていても、私たちが日々活動する場所というのは限られたものです。
 同じ部屋、同じ廊下、同じ机に、そして、同じ仕事仲間で、一日の大部分を過ごすのです。

 それが美容室やレストランであれば、もっと、小さくなります。

 そこで日々、飽きもせず、同じことを繰り返していくのが、私たちのありようなのです。
 忍耐を必要とするのが、私たちの日常であると言えます。

 もっとも、帆船と違って、私たちは休み時間に公園に出かけたり、夜は家族と過ごしたり、大きな違いはありますが、それでも、一日の大半をそこで過ごすという点では、帆船で仕事をしていると例えてもいいのです。

 そうした狭い環境の中で暮らしていますから、仕事を多少とも愉快にしようとさまざまな工夫もします。誕生会だとか、スポーツ交流会だとか、あるいは忘年会だとか、目先をちょっと変えてともすると惰性に陥りやすい生活に刺激を与えていくのです。
 自分たちで刺激を与えて、生活に潤いや新鮮さをもたらすのは大いに結構なことですが、そうそう上手くいかないのが、組織内でのあれやこれやのトラブルです。

 学校や職場での、いじめの問題、いつだったか、同僚のコーヒーに睡眠剤を淹れるなんていう事件もありました。
 このような事件がなくならないのは、きっと、あの帆船の中にいると同じ窮屈な気持ちが発散を求めて、作用しているに違いないのです。

 ぶん殴る喧嘩の一つも、あるいは、言葉であれこれと暴言を吐いてやりあうのも、窮屈な気持ちを解き放つ手段ではあるのでしょうが、帆船の乗組員のようには、今の時代はそれをなすことはできませんし、大目に見ることもできません。
 それはいじめを行なったという犯罪、相手への無礼を働くということであり、それを放置するということは管理責任を問われるからです。

 どんな小さな組織でも、人間と人間が集まれば、ぶつかり合いは当然起こるものです。
 事細かに調べたわけではありませんが、往々にして、下のものは、いつも、上のものを蔑むのが得意なのです。そして、上のものは下のものを侮ることが得意なのです。

 それこそが争いの元であると、私は思っています。

 お互いが尊敬しあってというのは大切なことですが、生身の人間であれば、尊敬の前にはかような蔑みや侮りがあるものです。
 だから、人は上に立つものほど「人間力」をつけねばならぬと言われているのです。
 人間力とは、蔑むことをせず、侮ることをしない、人間としての尊厳を身につけることです。

 下のものが上のものを蔑む時にいう言葉が、「あながたの時代は終わった」という言葉です。
 しかし、これほどの暴言はありません。

 かつて、解任されたマッカサーは老兵は死なず、消え去るのみと述べて去って行きました。
 自らが終わることはない、これまでいた場から去るだけだと言ったのです。
 決して、終わるとは言わないのです、いや、言えないのです。
 人は、生を終えるその瞬間まで、「在る」のですから。

 ですから、下のものが上のものを蔑む時、そのような言葉を使ってはならないのです。
 それでも使うものは、いつか、自分が年下の若い能力の高い若者から同じ仕打ちを受けて、ハッとするはずです。

 上のものが下のものを侮ることも許されません。

 しかし、悲しいかな、人は、嫉妬深い生き物なのです。
 ですから、ちょっとした言葉に嫉妬し、そのことを根に持って、侮りを行うのです。
 それは大方は言葉により、あるいは、態度、そして、仕打ちによってなされます。
 組織では、降格、転勤、左遷といかようにも手を下すことができるのです。

 草創期の帆船の中でも、現代の狭い社会環境の中でも、人は、肩を寄せ合って、相手の息のかかるような距離で生きていかなくてはならないのです。
 帆船の大海原を疾走する姿には、人が作ったものの中でも、最上の美しさがあります。

 仕事場の狭い環境も同じです。人の心の美しさを思うのです。




プロフィール

nkgwhiro

Author:nkgwhiro
ご訪問
ありがとうございます

《6 / 17 💡 Monday 》
 
🦅 ただいま、<カクヨム>にて『ひとりっていいよな』を発信しています。

  世の中って
  理不尽なるもので
  満ち満ちているんだっ……



誰でも、社会的生活を営んでいれば、心苦しいことに出会うものです。
トップの解任、同僚との確執、職を辞しての新しき生活、そんなさまざまの体験がそれです。
人は、かくも争い、かくも世知辛い思いをするのです。
そして、大切なものをそこで失っていくのです。
失うことを、損得で測れることはできません。
失うことは、糧として、その人間に残れば、それでいいのです。
そして、若き人に、送ることができればそれでいいのです。


下のリンク欄<カクヨム>からアクセスができます。


【nkgwhiroの活動】

❣️<Twitter>で、『ものかき』として、朝と晩『つくばの街であれこれ』と題して、つぶやいています。こちらもご訪問よろしくお願いします。
 

リンク
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
フリーエリア