たった一羽の反乱

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我が家の小さな庭が春真っ盛りの様相を呈して来ました。今年は巨峰も実るでしょう。バラもムシがつくこともなく順調に蕾を膨らませています。そうそう、昨日までに夏野菜の植え込みが全て終わりました。あとは収穫を楽しみにするだけです。


 この季節になりますと、朝の食事をわたしはバルコニーで摂ることが多くなります。
 春から秋の中ごろまで、わたしは外で食事を摂ることを、殊の外、楽しみにしているのです。

 今の時期、山から降りてきて、私の住むあたりにもウグイスがやってきます。その清々しい声を聞きながらの朝食は、わたしにとって贅沢この上ないものなのです。

 夏も盛りになりますと、ヤマバトが道向こうの研究所の森で、リズミカルな鳴き声を響かせます。若い自分、一ヶ月ほど滞在した練馬の宿舎で聞いた声です。
 ヤマバトの声にどこか寂しさを感じるのはそのためかと思っているのです。

 そうそう、毎朝、二羽の白鷺が飛んでくるのです。
 南東の方から北西に向けて、程よい距離を保ちながら、私の食事するバルコニーのちょうど真上を、ほぼ毎日飛んでいくのです。

 南東から北西に、毎朝、何の用事があるのだろうか。
 一体全体、彼らは夫婦なのだろうか。

 土浦を流れる桜川が霞ヶ浦に注ぐ一角に、白鷺の営巣地があります。
 土浦の花火大会が行われる場所で、橋を挟んで反対側にあります。
 夕方など、木々の上に白鷺の群れが、時に羽を広げ、時に二羽が寄り添っているのを見るのです。あまりに多くの白鷺がここにはいるので、濃い緑の樹木の先端が白いペンキを飛ばしたように彩られるのです。

 橋の上からだと、木々のてっぺんのその絵のような光景が見られるのです。

 でも、そちらの方角は南東ではありません。
 南東を地図で探ってみると牛久沼がありました。きっと、あのいつも同じ時刻に飛来してくる二羽の白鷺は牛久の沼地から飛んでくるに違いないと思ったのです。
 さて、北西には一体何があるのだろうと今度は、そっちが気になり出します。
 取り立ってて、めぼしいものを見つけることはできません。せいぜい、小貝川があり、その向こうには鬼怒川があるくらいです。
 牛久沼で餌を摂っているはずですが、それでも、水の異なる川を目指して、今日は小貝川、明日は鬼怒川と場所を変えているのかもしれません。

 それにしても、鳥というのは二羽で飛んでいるのを多く見かけます。
 
 水を張って、筑波の山を映しこむつくばの田んぼにも、つがいの鳥たちが舞い降りては、田んぼをついばみ、何かを食べています。カエルでしょうか、タニシでしょうか。仲良く二羽で、周りを警戒しつつ食事をしているのです。

 そうそう、ロンドンのソーホーの中華街での出来事を思い出しました。

 テムズに暮らすカモメが、遠征してきて、中華街のとある店の日差しを避けるためのビニール製の日よけの上で、一羽の鴨を餌食にしていたあの光景です。

 お昼時、昼食を取りに出てきた人たちが、皆、上を見て、その残酷な食事風景を眺めていました。
 足で、鴨を押さえ、あの大きめの先が曲がったくちばしで、鴨の腹を引き裂き、内臓を引っ張り出して食べているのです。
 時折、顔を向けている人間どもに怖い視線を送りながら、内臓をついばんでいます。

 わたしは、カモメがあのように同じ鳥の仲間をむしゃぶりついばむ姿を見て、ショックを受けたことを思い出したのです。

 私が勝手に名をつけている鳥がいます。
 カーコと言います。バルコニーのちょっと先の電線に佇んで、こちらを見ています。
 カーコという名からおわかりのように、この鳥はカラスです。
 この辺りはカラスが非常に多いのです。それも集団でこられると不吉な思いにさせられますから、柏手を打って脅したりするのです。

 でも、私の家のバルコニーのそばに佇むカーコはいつも一羽なのです。

 その世界にも、仲間と群れない変わり者がいるのだなと思っているのです。
 ですから、私はこのカーコが好きなのです。

 一度、パンの耳をカーコにわかるように道端に投げたことがありました。
 確かに、カーコはその私の姿を見、美味しいパンの一切れが道端に転がったのを見たのですが、私は、同時に、そっぽを向いたカーコも見て取ることができたのです。

 お前さんに恵んでもらう謂れはない。
 おいらは、お前さんが一人で、いつも朝に、食事をしているのを哀れんでいるだけなんだ。
 きっと、寂しかろうと、おいらはお前さんに付き添ってやっているだけなんだ。
 カラスをバカにしてはいけないよ、おいらはたった一羽の反乱鳥なんだ。

 反乱者は他の誰からも援助は受けないものさ。

 お前さんもまだまだ甘いなぁ。
 そんな風に私にはカーコが言っているように見えたのです。
 たった一羽の反乱鳥か。
 だったら、私はたった一人の反乱者ということになるのか。
 なかなか格好いいではないか。

 ある日、ちょっと寒いなぁと感じる朝のことでした。
 私はバルコニーでの食事をやめて、キッチンで立ったまま食事を取り、早々に書斎に入ったのです。
 私の背には大きなガラス窓があります。
 仕事を始めたのですが、ふと、外に異様な気配を感じたのです。
 私は、回転椅子を回し、窓から外を見ました。
 カーコが斜め向こうにある電信柱の真上に佇んでこちらを見ています。
 そして、黒々とした羽を広げると、私の座っている窓めがけて滑空してきたのです。そして、窓の手前で急上昇し、その時、一声、カァーと叫んだのでした。

 以来、私はカーコを見ることはないのです。
 あの「カァー」は、きっとカーコが「あばよ」と言ったのかも知れないと思っているのです。




クビになった男と働き口もない男の話

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ゴールドコーストで散歩をしている時、小道を抜けると、こんな住宅街の中のサークルになった道に出くわすことがあるのです。森が途切れ、太陽の光が燦々と。目が一瞬眩んで、このようになるのです。



 GWが始まったばかりで恐縮ですが、今日は、職場をクビになった男と、就職もままならない男の話をしたいと思います。

 歴史的かつ文学的事実に即していますが、もちろん、わたしの個人的見解も多分に含まれていることもあらかじめご承知おきくださり、読んでいただければと思っています。

 男がクビになった原因は、なんでも、酒をしこたま飲んで、上司に悪態をついたからだというのです。
 もちろん、周りは止めに入りましたが、酒というのは恐ろしいものです。日頃はおとなしい彼が、その時はいっぱしのヤクザのように、口調さえも変わっていたというのですから。
 もちろん、会社でも問題になり、そのような社員をおいておくことはできないということになりました。

 会社をクビになったその男は、己の不甲斐なさにほどほど嫌気がさし、それゆえに、新宿の、それも裏町の安酒場で、一人酒を飲んでいたのです。

 その男の横で、これまた、冴えない顔をした男が一人酒を飲んでいました。不甲斐なさに嫌気がさすこの男に比べれば、幾分年齢も若いようです。
 この日も、「当社の採用にご応募いただきありがとうございました。書類審査の結果、この度の採用は見合わせていただくことになりました、今後のご活躍を祈念しております」というような文章を懐にして、その席で酒を飲んでいたのです。

 新卒で就職を逸した彼は、その後、どこの会社からも色好い返事をもらうことはありませんでした。これだけ落とされると彼そのものが社会から必要とされていないような気になって、ますます自信を失って行くのです。
 時間を切り売りしてなんとか糊口をしのぐ毎日です。
 これでは家庭も持てないし、この先、年老いてどうなるのだろうかとそんなことを考えて一人酒を口に運んでいたのです。
 
 21世紀の初頭、新宿の裏町の安い酒場での場面。

 ふと、この二人の男の周りが暗くなりました。
 おやっとコップを口に運ぼうとしていた二人は辺りを見回します。

 隣に、頭のてっぺんに髷を結い、小汚い布切れでそれを結び、薄髭を生やしている男をお互いが認めました。
 よく見ると、見慣れない古風な衣装をまとまっています。
 そして、その状態は自分もまた同じであることに気がつくのです。

 おやおや、どうしたことだろうかとお互いに不思議なことになった自分を笑いでごまかそうとしました。
 
 「わたしは、子美と申します。お見知り置きを。」
 おい、俺は子美などという名などではないぞ、なんでそんなヘンテコな名を名乗っていると、心では思うのですが、口は勝手に動くのですからどうしようもありません。

 「それはそれは、ワシは太白と申します。先だって、皇帝陛下からお暇を申し付けられ、ここ洛陽まで流れて来てしまいました。」
 この男も、自分をワシと呼び、皇帝陛下だとか、洛陽とかワケのわからないことを語る自分に驚いています。
 しかし、この男も口からは淀みなく言葉が出てくるのです。
 
 「あの著名な長安の李太白さまでいらっしゃいますか。大変に光栄なことでございます。わたしはあなた様のようになりたく思っていますが、容易に、宮中には入ることができません。試験がなかなかに厳しくて、わたしには太刀打ちができないのです。」

 「ワシだってちょっとした縁でお勤めに上がったまで、さほどの優れた人間ではござらぬ。己を卑下することは、ご自分で己の価値を下げるようなもの、胸を張って生きていくが良い。お勤めをしていても、こうして、上司に悪態をついて、放逐される愚か者もおる。それより、<浮生は夢の若し>と申します。<歡を爲すこといくばくぞ>です、大いに飲みましょう。」

 二人は意気投合し、決して世間的には豊かとは言えない人生を語り、しかし、個人的には好き勝手に生きることを標榜せんと固く手を握り合ったのです。
 
 黄河の水天上より來り、奔流して海に到り復た回らざる、と言います。

 人生はやり過ごせば、それっきりなのです。わたしが酒の上で放った言葉は発した以上もう戻らないのです。セコセコと物事を考えずに、人生須らく歡を尽くすべし、です。
 人生というのは、ありのままに受け入れ、そして、大いに楽しむがよいのです。
 それに、あなた、天はあなたをこの世に送り込んだ以上、必ずなすべき用があるということを忘れてはなりません。千金は使い果たしてもまた戻ってくる、そんなものです。
 
 李太白は、杜子美に言い放ちました。

 子美はその言葉に大いに感動したのです。
 天は己をこの世に送り込んだ以上なすべき用がある……、きっとそうに違いない。
 職を解かれ、にも関わらず、このように悠然としている、その姿こそ尊いと。

 あなたは素晴らしい、天下無双である、世間に流されることなく、我が道を標榜する。わたしもそのようになれるよう、これまでのせせこましいものの考えを捨て、己に忠実な生き方を目指そうと思います、と意を決したのでした。

 一陣の春の風が、二人のいる酒場に、開け放たれた扉から吹き込んで来ました。

 新宿の場末の、安酒場で、お互い見も知らぬ男が二人。
 並んで、酒を飲んでいました。

 一人は、酒が過ぎてクビになった男、いま一人は、何度会社を受けても正社員になれない男。
 この二人、まるで、誘いあったように、席を立ったのです。
 「おい、勘定。」
 ほぼ、同時に二人の男は声を出し、お互いを見つめ、軽く会釈をしたのです。

 そして、二人の男は、それぞれ店を出て、新宿の街の寂れた横丁に姿を消して行ったのです。
 一人は、右に、今一人は左に。




不思議な郷愁

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近くの大学に、植物園というか、学業に供するためのそれらしきものがあります。時折、散歩がてらに出かけます。そこに流れとちょっとした滝があり、せせらぎを作っています。水の音はなんと心地よいのかとしばし佇むところなのです。


 「郷愁」という言葉が的確かどうかは、正直、わからないのです。
 
 ロンドンのウエストミンスター橋をビックベンを背にして歩き、小道をいくつかさらに東に抜けていくと、突然二本の巨大な砲身が周辺を威圧する光景に出くわします。
 <Imperial War Museum>、すなわち、「帝国戦争博物館」です。

 中に入ると、対独戦勝利、グレートブリテンの栄光が満ち満ちています。
 ナチスの侵攻で、フランスを支援していたイギリスは追い詰められます。それまでなかった「電撃戦」による圧倒的な航空火力と戦車機動力の前になすすべを失ったのです。
 イギリス軍は、フランス・ベルギー国境に近いフランス最北端の街、ダンケルクまで追い詰められます。これより先は海です。
 もう、退却する余地はないのです。

 しかし、イギリス人は「玉砕」を潔しとはしません。
 
 チャーチルは、ダンケルクに追い詰められたイギリス兵とフランス兵の救出を軍に命じます。
 ダンケルクからイギリス本土までわずかの距離です。動員された船は、軍の船だけではありませんでした。
 漁船も、ヨットも、ボートも、はしけも、海に浮かび動く船という船を動員したのです。
 ドイツ軍は、電撃戦で欧州を転戦し疲労困憊の戦車部隊を待機させ動かしませんでした。ゲーリングの空軍だけがダンケルクの浜辺に爆弾を落としますが、爆弾は砂浜に刺さり、大きな損害を与えることはできませんでした。
 ついに、35万人の兵士たちがイギリスにたどり着いたのです。
 なんともイギリス国民を感動させる作戦でありました。

 イギリス上空を舞台にした<バトル・オブ・ブリテン>を誇らしげに讃えていたのは、ケンブリッジ郊外にあるダックスフォード帝国戦争博物館 <Imperial War Museum Duxford>でした。
 
 何を隠そうダックスフォードこそがバトル・オブ・ブリテンの基地の一つであったのです。
 いまも、飛行場には観光客を乗せる複葉機が空を飛んでいます。いくつもあるとてつもない大きな格納庫には、勝利の栄光である航空機が展示されています。

 1940年7月10日のことです。
 イギリス本土上空に、占領したフランスの基地からドイツ空軍の爆撃機が飛来しました。
 驚いたことに、上空には、イギリス空軍のスピットファイアとハリケーンが編隊を組んで、待ち構えていました。
 フランスの基地からドイツも70機の戦闘機を飛ばしました。
 以来、四ヶ月に渡り、世界で初の航空機だけによる戦争が行われたのです。

 私は、車で、この近くのドライブインに立ち寄りました。 
 ちょうど、7月の終わりころでした。ドライブインでは、バトル・オブ・ブリテンを記念しての映像が流され、記念の品が売られていました。

 イギリスに滞在して、軍事博物館に出向き、ドライブインでこうした出来事に出くわしますと、この国は戦争に勝った国なのだなと心底痛感するのです。

 戦争に勝った国があれば負けた国があり、敵に占領され国土を蹂躙された国もあるはずです。
 
 日本はドイツとともに負けた国に位置します。
 フランスや中国は、敵国ドイツ、日本に占領され、国土を蹂躙された部類に入ります。
 
 負けた国は、殊の外「平和」を博物館に冠します。
 もう戦争はたくさんだ。平和が何よりだという思いが強く出てくるのです。
 占領された国では、様相が別れます。
 過去のことは水に流そう、自分たちだって、同じようなことをしてきた過去がある。それよりも未来をみようとするフランスのような国と、中国のように徹底して反日思想を植え付け、敵愾心を植え付ける国です。

 それは、でも、仕方のないことです。
 なんやかやと、日本がいうことではありません。

 <Imperial War Museum>でも、<Imperial War Museum Duxford>でもそうでした。
 私はそこに立って、薄暗い展示物のそばで、ちょっとした幻想を見たのでした。
 それは、日本が戦争をしていなかったらというものです。

 戦争に勝っていたらではありません。しなかったらという幻想です。
 
 日本の国土は、北は樺太でロシアと接し、それに千島列島でアメリカと接するのです。
 南は、東シナ海までいまと同じ諸島が続きます。 
 そして、朝鮮半島も台湾も、彼らに日本の影響下にあるのがいいのかどうかを問います。日本から離れたいというのであればそうすればいいのです。ただし、だからと言って、なんの交流もしないと突き放すことはしません。対等に貿易をし、平等に敬意を持って対します。
 もちろん、中国からも軍を引きます。
 南洋諸島は国際組織が委任統治を認め続ければ、南洋庁の管轄下で支援を続行します。

 当時の日本の政府がそんなことをしていたらと、幻想を見るのです。

 短気な軍人ではなく、悠長な古くからの日本の思想、自然に合致したあり方を求め、自然に敬意を払う姿勢を、政治家も、日本人も取っていたら、世界はどうなっていたのだろうかと、日本はどうなっていたのであろうかと、はるかかなたに夕陽を見るような不思議な郷愁が沸き起こってくるのです。




事実は小説よりも奇なりと申します

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つくばの街には、ロケットがその中心にそびえ立っています。化学万博の名残です。池に映るロケット、その上を水鳥が優雅に行き交います。つくばならではの後継です。


 本当かどうかわからないのですが、面白い話がいくつかあります。

 以前、日本政府が平壌に乗り込んだときのことです。
 日本政府に割り当てられた部屋には、どの部屋にも隠しマイクがあって、会話は逐一盗み聞きされる、そういう環境におかれたというようなことを聞いたことがあります。
 ですから、会談の進め方、こちらの出方など、筆談で行い、万が一、隠しカメラもあった場合に備えて、その紙面が写し取られないよう随分と苦労したと言います。

 誰かが、いたずらで、「うなぎの蒲焼が食べたくなった」と、隠しマイクに言ったそうです。
 そしたら、翌日の昼食に、「蒲焼」が出てきたと言います。
 北朝鮮人というのは、案外お人好しなのかもしれないとそこにいた皆が思ったと言いますから、愉快なことです。

 北朝鮮人はお人好しかもしれませんが、隠しマイクの設置が容易に露見するところに設置するなど姑息なことをするようでは国際社会ではやっていけません。

 いつだったか、アメリカのホテルを中国資本が買収しました。 
 そこは、歴代アメリカ大統領が宿泊する由緒あるホテルであったのですが、中国資本が買収したことで、アメリカ政府はそのホテルの利用を中止しました。
 理由は、国家機密が漏れる危険性があるというのです。
 つまり、盗聴される可能性が高いということです。

 国家間の秘密のやりとりというのは、しかし、極めて大切なことです。

 例えば、太平洋戦争開戦前、ワシントンの日本大使館の通信は、アメリカの特殊機関によって、すべて傍受されていました。時には、東京に送る秘密文書など、意図的に遅らせるそんな技術的な工作もしたと言います。
 ですから、野村大使がハル長官を訪問したとき、この時日本政府の最後通牒を届けるのですが、ハル長官はすでに日本の戦争開始を知っていたというのです。

 さらに、戦時中は、ほぼ無傷の零戦を確保し、内密にその性能を探査、零戦に対抗しうる戦闘機の開発を行ったと言いますし、南太平洋で沈んだ日本の駆逐艦からは密かに海軍暗号機を奪い取り、山本長官機の撃墜に使われたなどと言われています。
 さらに、ミッドウエイ作戦では、日本海軍の通信傍受から、機動部隊の航路、編成、作戦日程までつかんだと言いますから、国家が国家に勝つためには、巧妙にして精緻な情報収集を行うのは当然のようになされているということです。

 いつだったか、まだソ連がまだあった頃の話です。
 北海道の漁船がオホーツク海でソ連の警備艇に横付けされて、しばらく停船していたと言います。それをアメリカが察知し、共産圏への輸出を規制したココム違反であると日本政府にクレームをつけてきたというのです。
 調べてみると、日本の漁船は、ソ連の警備艇に大量のビデオデッキを贈り、カニの漁獲量に多少の融通があったと言います。
 漁船員たちは、ロシアではビデオが作れないのだとか、きっといかがわしいビデオを楽しみにして見ているに違いないと悠長なことを言っていたと言います。

 しかし、実際は、そうではないのです。
 日本のビデオにはカセットテープを一定の速さで回すために、真円に近い小さいベアリングが使われていたのです。
 ですから、日本のビデオはどんなに酷使しても、常に、ビデオテープを一定の時間で正確に回し、いい映像を映し出すことができたのです。
 で、ソ連では、この優れたベアリングを得るために、そして、それを目標に的確に到達するためのミサイルのジャイロに使用するために、ビデオデッキを必要としたというのです。

 ソ連製のミサイルの心臓部には日本の技術が使われていたという恐ろしい話になりました。

 キッシンジャーというニクソン時代の補佐官がいました。
 今もアメリカの対中国政策では影響力を持っている人物です。
 彼が、南アジア訪問を行いました。なんと言うこともない訪問ですが、補佐官の訪問にアメリカのマスコミは同行をしなくてはなりません。なんと言うこともない訪問ですから、記者たちは旅行気分です。

 ネパールだかそこらで、キッシンジャーが体調を崩します。
 今日から三日間、安静のため、公式活動は延期とすると発表がありました。カトマンズにいても面白くない、バンコクあたりで遊ぼうと言うわけで、多くの記者も休暇に入りました。

 三日後、キッシンジャーは元気になって、公式活動に復帰、アメリカに戻って行ったのです。
 しかし、この三日の間、カトマンズには中国から1機の飛行機が飛来し、キッシンジャーは北京に飛び、周恩来とニクソン訪中の段取りをとっていたのです。
 極秘というより、隠密なる行動です。

 今回もそれに近いようなことが北朝鮮との間であったようです。
 
 世界は、人をたぶらかし、裏から手を回し、あれやこれやとやるのです。
 政敵だからと、猛毒を引っ掛けて、それも外国で殺害するような国もあるのです。

 さて、日本はというと、どうも上に何かがつくくらいの「正直もの」のような気がしてなりません。

 帝国ホテルに隠しマイクがあるということも、迎賓館からは通信が取りにくいという話も聞いたことがありません。
 アメリカからは言い値で高額な武器を買っています。
 中国など、設計図を盗み取って、同じようなものを平気で作り出しています。盗み出したのですからそれに要した金額などたかが知れています。日本の731部隊を批判しながら、みずからは74125部隊で設計図をかすめ取っているのですから呆れます。

 でも、日本には日本の道があります。
 きっと、日本政府はもっとすごい手を使って、一切合切、誰にも知られぬようにことを運んでいるに違いないと、私思っているんです。

 事実は小説よりも奇なりと言いますから。




あのような一枚の写真

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夕方、西に太陽が沈みます。その瞬間、樹木も、鳥たちも、一瞬、動きを止めるのです。そんな瞬間があるんです。


 とある国の、とある人民会議。

 壇上に、政権のお歴々が並びます。
 中央には、最高権力者が位置し、鷹揚に手を振り、集まった人民の代表者を睥睨します。ふと、見ると、壇上の奥の壁には、最高権力者の父親と祖父の肖像が掲げられています。

 独裁国家というのはどうしてこうなのだろうかと思うときがあるのです。

 みかん箱の上に立って、自分の意見を開陳するところから民主主義は始まりました。
 みかん箱が大切なのではなく、その場にあって、自分の意見を述べる自由、それを聞く耳を持ち、反論する自由があることが大切であり、かつ、素晴らしいのです。
 でも、そうした国であっても、最初は、時の権力者から弾圧を受けたことは事実であり、それをはねのけた勇者がいたことを私たちは知るのです。

 しかし、独裁の国は、そうではないのです。

 自分たちが国を仕切り、自分たちが人民のすべてを保証し、そのためにここにいることを知らしめるには、みかん箱ではダメなのです。
 歌舞伎座ほどではないまでも、横に長い広い舞台が必要であり、そこにひな壇がしつらえられ、中央から順次階級の上下が示されなければならないのです。
 最も人が平等であることを標榜する主義であるはずの体制が、階級を堅持し、権威ある会議場を用意するのです。
 
 もし、とある国の、とある人民会議が、どこか公園の噴水の前で、みかん箱を使ってなされたら、それは人民による、人民のための、人民による政治がなされていると、誰もが羨ましく思うはずです。
 しかし、人民を国の名に持つ体制下では、いまだにそれを実現させた国はありません。
 
 とある国の、「核心」と自分を呼ばせる独裁者は、自分と国家を愚弄するネットのありようを徹底的に監視することを公言してはばかりません。
 自分を愚弄する凶々しい言葉があると、それを潰していきます。
 根気のいる仕事です。何万人という人間が駆り出されています。
 最先端のネット環境は、それゆえ、それに近い言葉をネットに出回る前に検索できないようにするシステムを構築し、作業の効率化を測るのです。
 そのうち、自分に都合の悪いことは、実際はなかったのだとすることでしょう。

 独裁とは、自分と意見を異にする輩が同じ空気を吸うことを忌み嫌う体制なのです。

 人間の耳は、どの耳も、心地よい言葉を好みます。
 己に向けられる批判、中傷、揶揄といった文言は聞き捨てならない悪魔のささやきに聞こえるのです。
 自分の耳に心地よい言葉は、それこそ天使のささやきとなるのです。

 だから、自分に心地よい言葉を発する人間は取り上げられ、そうでない人間は階級闘争という伝家の宝刀で切り捨てられるのです。
 時には、銃殺、時には、労働改造。
 また、ある時には、失脚、そして、歴史の表舞台から遠ざかるのです。

 先だって、CNNで一枚の写真を見ました。

 そこに写っていたのは、現職の大統領夫人、前大統領と夫人、その前、さらにその前と、歴代大統領の夫妻が一堂に会した写真です。おそらく、現職の大統領は職務に精励し、忙しくしていたのでしょう。欠席をしていました。

 バーバラ・ブッシュの死を悼んで、集った際の写真です。
 
 世界最高の権力を手にして、与えられた時間を精一杯勤め上げた誇りに満ちた表情をそこに見て取ることができるのです。
 そこにこんな記事が寄せられていました。

 写真に写っているそれぞれの大統領の行動に、私は政治的に賛成できなかった。
 しかし、彼らが一人残らず、自己愛ではなく、国を愛する心を本質的価値観として行動したことを、一度も疑わなかったと。

 クリントンと息子ブッシュの情報当局高官だったデービッド・プライスの言葉です。
 
 独裁を行う人間と、その体制と、ここが違うところだとハッとしたのです。
 意見は異なっても、相手に敬意を表する。たったそれだけのことなのですが、そこに大きな違いがあるのです。
 
 一枚の写真はすべてを語るということです。

 そういえば、とある国の、とある写真には、数ヶ月前に写っていた人物がいなくなると言うことがしばしば起こります。
 そうまでして、人を貶めるのです。
 
 はて、日本はと、そっと伺ってみると、反対政党は大いに政権を批判し、新聞もテレビも口さがありません。時には、同じ党からも批判が向けられます。
 実に健全ではあります。

 ただ、あのような一枚の写真を見られるようになれば、もっと素晴らしいと思っているのです。




茂名南路での白昼夢

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つくばには大きな公園がいくつかあります。ここは病院の隣にある公園。そこの池での自由な鳥と囲われた池でしか行きられない鯉の対照的な姿なのです。



 上海の<淮南中路>は、おしゃれな通りです。

 歩道はさほど広くはないのですが、プラタナスの並木には風情があります。通りから横丁に入った小路も洒落た風情が漂っています。この辺りを歩いていると、ここに暮らしているのは果たして本当に中国人かしらと思うときがあるのです。

 <淮南中路>の通り沿いに映画館「国泰电影院」の建物があります。
 そこの横丁に歩を進めます。<茂名南路>という小路です。

 左手に「淮茂緑地」の広い空間が目に入って来ます。
 私は<茂名南路>の右側の歩道を歩いています。
 夜など、道を歩いていると、「女いるよ」と中国語訛りの日本語で、小声でささやく怪しげな男たちが歩く通りです。

 それもそのはずです。
 「淮茂緑地」の先に高いビルがあります。それが日式のホテル「花園飯店」です。
 そこは、上海を旅する日本人が安心して泊まれるホテルなのです。
 だから、あの様ないかがわしい男たちが夜な夜な歩き回るのです。

 歩き回るからには、需要があるのかしらと、ふと思いました。
 そんな危険なところに行く日本人もいるからこそあの様な男たちが出現するんだと思うと、情けなくなるのです。
 
 私は、朝、ホテルを出て、ホテルの北にある<长乐路>に出て西行し、<陝西南路>に出て南下、そして、<淮南中路>に出て、<茂名南路>に戻るというコースを散歩することを常としています。

 ただ、歩くだけではないのです。
 ホテルの贅沢な朝食もいいですが、かつてフランス租界があったこの辺りの建物、街の風情をゆっくりと楽しみたいのが一つ、そして、もう一つが、街のちょっとした店で上海人が食べる朝食をいただくことです。 
 いつも<长乐路>から<陝西南路>に入ったところにある店に立ち寄ります。
 そこで、揚げたての「油条」を買い、「煎餅」という緑豆の粉でしっとりと焼いただけの、何も入っていないものを買います。
 これが美味しいのです。歩きながら食べたり、公園のベンチで食べたりするのです。
 
 朝の散歩の帰り道、私は<茂名南路>の今度は左側の歩道を歩きながら、「淮茂緑地」の広大な空間から吹いてくる風を楽しみます。「花園飯店」のある反対側にはもう一つのホテルがあります。
 それが「錦江飯店」です。

 古き良き時代の上海を代表するレトロなゴシック様式の建物は風格に満ちています。
 租界のあった時代の記念物としても名を残すホテルですが、新中国になってからも、このホテルは中国の現代史の舞台となったところなのです。
 
 もともと欧米人が上海で暮らすために作られたマンションである「錦江飯店」ですが、新中国になって、このホテルを随分と気に入った大物がいました。

 毛沢東国家主席です。

 彼が上海に来たときには、必ず宿泊したのがこの「錦江飯店」です。
 彼は、このホテルで自分が主宰する会議を催すために、一つの会議場を作ること命じました。
 これが「錦江小礼堂」というものです。

 「小礼堂」は、中国の改革開放の端緒となる建物になるのです。

 1972年2月27日のことです。
 「小礼堂」で、ニクソン訪中最終日に、いわゆる<上海コミュニケ>なるものがここで発表されたのです。

 米中関係の正常化を図ること、両国はアジア・太平洋地域での覇権を求めないこと、台湾は中国の一部とすることに米国は異議を求めないこと、米国は日本が台湾に進出をさせないようにすること、そして、台湾への武力奪還を中国はしないことが発表されたのです。
 
 しかし、今、どうでしょう。
 中国はアジア・太平洋地域で覇権を唱えています。アメリカは台湾渡航法を定め、台湾への公的な接近を試みています。台湾も独立を標榜する勢力が力を持ちつつあります。中国は台湾海峡に遼寧艦隊を覇権し、大規模な演習を行いました。
 でも、そんなことは政治の世界ではさしたることではないのです。

 問題は、<複雑怪奇>なる国際情勢の揺らぎにあるのです。

 こんなことがありました。
 ソ連に対抗するため、ドイツとの関係強化をしようとしていた日本ですが、1939年8月23日に、ヒトラーは、突然ソビエト連邦と<独ソ不可侵条約>を締結してしまったのです。
 当時の首相は、平沼騏一郎です。
 8月28日、平沼は「今回帰結せられたる独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方は之に鑑み従来準備し来った政策は之を打切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至り」と声明を出して、内閣総辞職をしたのです。

 1972年の時も、ニクソンは対中外交の動きを日本には通知してきませんでした。
 日本は、これを「ニクソン・ショック」と呼んで、日米同盟の絆の弱さに恐れをなしたのです。

 はて、今、国際情勢において、活発にして<複雑怪奇なる>動きが生起しつつあります。
 
 私は、早朝の上海、<茂名南路>の左側の歩道を歩きながら、左手前方ある日式の「花園飯店」を垣間見、右手に「錦江飯店」を見て、よくもまあ、こんな横丁に、日中の代表的なホテルがあったものだと思ったものです。

 道幅がこんなに狭い、こんなに近いところに、日中を代表する二つのホテルはそれぞれに素晴らしいサービスと歴史を刻んているのに、その二つの国は、果てしない大河に遮られているようだと思い、朝の散歩の最後の道筋に入ったのでした。
 
 日本の首相は、アメリカの大統領に会いたいと思えば会える関係を構築していますが、複雑怪奇にも、『トランプ・ショック』が起こらないとは誰にも言えません。

 そんなことを思うと、これから数ヶ月の国際情勢は、未来の世界の流れを決める瞬間点をいくつか通過すると思っているのです。
 <茂名南路>で、かつて私が見た白昼夢は、きっと、このことなのかしらと思ったりもしているのです。




褒姒の烽火と元禄の早馬

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ゴールドコーストの海岸といえば、この小屋が出てきます。小屋などと言うと、怒られるかもしれません。ロッジにしておきましょうか。ライフセーバーのロッジです。何気にクールなんですね。


 司馬遷『史記』の「周本紀」にこんな話があります。

 西周の幽王の三年のこと、王は襃姒(ほうじ)なる美しい女を一目見て愛するようになり、やがて子の伯服が生まれました。
 しかし、美しい褒姒ですが、滅多に笑うことがありませんでした。王はなんとか笑わそうとしました。
 ある時、王は烽火をあげさせ、太鼓を打ち鳴らさせました。
すると、諸将たちは慌てて駆けつけて来たのです。
 血眼になって駆けつけるその諸将たちを見て、褒姒は笑ったのです。

 以後、王は褒姒を笑わすために、度々烽火をあげさせたと言います。諸将は、次第に、烽火があがっても馳せ参じることがなくなったということです。
 
 その後、敵が攻めて来たとき烽火をあげても誰も来なくて、ついに西周は滅び、王は殺害されてしまったのです。

 烽火とは狼煙(のろし)のことです。
 中国では夷狄が攻め込んで来たことを、一刻も早く都に知らせるため、各所に作られ、当時としては最も早い通信手段としてありました。

 日本の江戸時代にはこんなことがありました。

 主君が刃傷沙汰を起こし、切腹の上、御家断絶となった赤穂藩では、早籠を使い、十七日かかる日程をわずか五日で国家老大石内蔵助に伝えました。

 赤穂浪士が武士としての本懐を遂げることができたのは、この五日で情報を伝達することができたということが大きく作用しているのではないかと推測しているのです。
 情報が遅くては、心理に多大な影響を与えます。
 つまり、ある種の「冷め」た感情が生まれるからです。冷めた感情では、命を賭した仇討、武士の本懐を遂げることはできません。
 
 昔から、情報伝達というのは、国家の浮沈、人の実行力などに、多大の影響を与えて来ているのです。

 それが嘘であったりすれば、情報の信用度は落ちるのです。しまいには、国家転覆に至るのです。また、情報の遅滞があれば、これもまた国家の損失につながります。

 しかし、正確な情報ってなんだろうと思うことがあるのです。

 新聞がそう言えば、そうであると私たちは信じるしかないのです。テレビは、知ったかぶりの大学の先生や評論家たちが、最近はお笑いタレントまでが意見を述べてああだこうだとやりあっています。
 そんなことを思えば、かつて太平洋戦争開戦の責任の一翼を担った新聞より、テレビで責任も何もない連中がああだこうだとやりあっているのを見ていた方が健全であるとさえ思うのです。
 なぜなら、くだらないけれどいろいろな意見を聞けて、どれが自分にとって正しいと思われる情報か、察しがつくからです。

 そんなことを思えば、ネットだって同様です。
 いや、むしろ、ネットの方が、権威者ぶらない点で好感が持てます。右にしろ、左にしろ、中道にしろ、率直に自分の見解が披瀝されているからです。
 それに、ネットの方が、事実をいち早く伝えている、そんな気さえするのです。

 北朝鮮を巡って、環球時報の記事に、こんな表題が並んでいました。
 <朝鲜宣布停止核试 特朗普表欢迎,青瓦台:是有意义的进展,日本称不满:会继续施压>

 朝鮮の核実験停止宣言に対して、トランプは歓迎を表明、青瓦台も意義ある進展と。しかし、日本は不満を述べ、さらなる圧力の継続を求める、というような文言です。

 世界がこっちへ行けと言っているのに、日本だけあっちへと言っていると述べているのです。

 これを読んで、日本は意地が悪い、評価するということを知らないと思う中国人も多数生まれてくるのではないかと思います。
 皆、平和を望んでいるのに、日本だけが戦争へと歩を進めていると。

 これが中国共産党の意図であることを察知できれば、なんのことはないのですが、圧倒的多数の国外にも出られない中国人民は、我らの、いや、中国を中心とする世界の敵であると日本を認識するのです。

 一方、日本の新聞には、小さい記事でしたが、日本国外相が2020年までに、北朝鮮の核廃絶をしなくてはならないと発言したことを、アメリカ現大統領の任期がそこまでで終わると深読みした記事がありました。
 トランプの次の大統領では、この動きが鈍り、それを北は待っているに違いないと日本の外相は考えているというのです。
 トランプが聞いたら怒りそうな分析であります。
 
 でも、これほど的を射た外相の発言も、誰だかわかりませんが新聞記者の解説もないと思っているのです。

 それはまったくの事実だからです。
 中国共産党の機関紙環球時報がことさら広報に徹し、自己に都合のいい記事を操作し続けていることに対して、日本の新聞は、「事実」を述べようと取り組んでいるからです。

 環球時報の記事は、まさに「褒姒の烽火」なのです。
 日本の外相と、それを伝え、分析する日本のその新聞記事は、あの「元禄の早馬」で伝えられたホットな知らせであるのです。
 
 そんなことを思うと、元禄の時代も、平成の時代も、何か共通するものを感じ取ることができるのです。
 もちろん、意図する何かを実現すると言う点でです。




爪の垢

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日差しの強かった日の夕暮れの光景です。圧倒的に夕日が美しいと感じるのはなぜかなと考えると、多分に、1日をやり過ごしたという満足感があるからだと思ったのです。たった、それだけの感じが美意識にも影響を与えるんだと同時に思いました。



 どういうわけか、センター試験の折には、教師が出張扱いで試験会場に出向くことが、どの学校でも習慣化しているようです。
 大体は、当該学年の教師が、二日間のどちらかに割り当てられて行くことになります。

 つくばにある大学の試験会場は、時には雪模様になるくらいの寒い時期です。
 雪はなくても、霜が降りて、吐く息も白く、皆、背中をまるめて、自分の学校の生徒がやってくるのを待ちます。
 そして、それとわかる顔を見つけると声をかけます。生徒は照れ臭そうに挨拶をします。 
 そして、学校によっては、ひとかたまりになって、教師から激励を受けるのです。

 そういえば、中学を持っている私学では、塾の先生がそれをやります。
 これまた寒い中です。
 学校では、待機所を作り、ストーブと暖かいお茶を用意し、日頃お世話になり、受験生を送ってくれた塾の先生方への配慮を形で表すのです。

 塾の先生方は、午後から夜にかけての仕事がありますから、一旦家に戻り、一休みして、塾に出勤するのでしょう。塾生たちが試験会場に消えると帰って行きます。

 しかし、センター試験では、その日の試験が終わったときも、ほとんどの学校の教師は大学構内に残っているのです。
 それは、受験を終わった生徒から、「出来不出来」の状況、今年の出題の傾向を聞くためです。
 誠に熱心です。 
 加えて、明日の試験があれば、激励を、すべてが終わっていれば、慰労の言葉をかけるためです。
 本当に教師というのは熱心です。
 わずかばかりの出張費で、土曜日曜に、ここまでやるのですから、敬服の至りではあります。

 ところが、先だって、新聞の社会面の端に、わずかばかりの記事が申し訳なさそうに掲載されていました。うっかりすると見落としそうな記事でした。

 センター試験で試験会場に詰めていた教師が飲酒して、大声で騒ぎ、それを止めた同僚の胸ぐらをつかんだのだいうのです。
 三ヶ月も前のことが今になっってこうして記事になったのは、その教師への処分が公になり、新聞が記事にしたということなのでしょう。
 
 しかし、よりによって、生徒たちが試験を受けているその側で飲酒、さらには暴れるというのでは、洒落にもなりません。

 教師とか警察官、自衛官などもそうですが、ちょっと変なことをすれば、すぐに取り上げられ、世間から非難を浴びます。
 もちろん、非難を浴びるようなことをしているのですから、当然といえば当然なのですが、やはり、人のために尽くす職分であるから、なおのこと、世間は厳しく見るのだとつくづく思うのです。

 取手の学校にいたときの上司は、公立中学の校長が尋ねてきた時、怒鳴り飛ばし、追い出したことがあります。

 私学にとっては、それも、出来たばかりで生徒集めに汲々としている私学にとっては、公立の校長はトップレベルの客人です。それを怒鳴り飛ばして追い返すなどとんでもないと誰しも思います。

 でも、それには怒鳴り飛ばさねくてはいけない理由があったのです。
 今でも、その傾向があると思いますが、事務長とか教頭というのは、公立を定年で退職した方にしてもらう私学が多いのです。
 仕事に精通しているということもありますが、何よりも募集上の配慮からです。
 その時も、事務長の後輩ということで訪問をしてくれたのですが、上司の部屋で、教師らしからぬ下世話な話に及んだのです。
 それを上司は怒ったのです。

 生徒を預かるというのは、そういうことなのだと若い教師半人前の教師であった私など大いに感心した次第なのです。
 
 仮に、その与太話をそのまま放置すれば、あの学校の上司はそんな話をしていたと言われかねません。自分ではそのような話をしていなくても、話というのはまわり巡ってすり替えられるものです。
 そして、それが学校の評価、ひいては、生徒の名誉にも関わってくるのです。
 ですから、怒鳴り、放逐することで、あの上司はおかしいとは伝わりますが、学校と生徒の名誉は守られるということになるのです。

 よその学校の方の話ですが、県の私学が集まっての宿泊研修の際のことです。
 一人の上司が酒を飲みません。
 この研修会を主催する立場にあるから、自分は現在行われている生徒の校外研修に欠席し、教頭を行かせている。もし、万が一、何かあった時に、酒を飲んでいたではすまない。すぐにでも、そちらに行く態勢を整えている。だから、飲まないのだと。
 そんなバカなことをする教師が今時いるかと、随分と酒を飲んだ他校の上司たち、よく見ると、どの方も公立から呼ばれて学校を任されている方々です。その方々が酒を進めているのです。

 センター試験で飲酒し、大暴れした教師の記事を見て、思い浮かんだのはそれら二つの出来事でした。

 人間というのは、常日頃こそが大切なのだとつくづく思ったのです。
 それは堅苦しいとか、不自由だとか、そういう問題ではなく、人として当たり前に、当たり前のことを行うことのできる勇気だと思うのです。

 よその学校に来て、如何に親しいかつての仲間がいたとしても、下世話な話をすることはその方の品性が卑しいことであるし、部下に任せておけばいいのだと偉そうに先輩ぶるのもまた品格にもとる行為なのです。

 それをはねのけ、己の「信」を貫き通すことができることが人としのあるべき姿であると、あらためて思ったのです。

 いや、センター試験の会場で酒を飲んだ教師ばかりではありません。
 同じような類の輩は、あそこにも、そちらにもいます。

 そういう人に、ここで述べた二人の上司の爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいと思っているのです。




ルンバの名前は私の名前

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ロンドンのコベントガーデンだったか。金銀に塗られ、金銀の衣装を着た男女の姿を見ました。微動だにせず銅像のように立っているだけです。思いました。彼らは夫婦だろうか、1日、こうしてどのくらいのお金を集めるのだろうか、そんなくだらないことを思って、ふと思いました。好きなことをして、つまり、賃金労働をせずに、こうして生きる人の自由さを。


 オーストラリアに暮らす孫に、「贈り物」を航空便で送ってやりました。

 オーストラリアのお菓子ではアイスクリームが好きなようです。
 車で売りにくるオージー訛りのきついアイスクリーム屋さんが家の近くにくると大急ぎで家を出て行く孫です。
 でも、本当に好きなのは、日本に来た時、自動販売機で売られていたアンパンマンの絵柄のある小さいジュースなのです。
 以来、アンパンマンの絵柄を見ると、それがラムネであっても、チョコであっても、好きになるようです。

 なぜ、子供はアンパンマンが好きなのかなどと考えたりもします。
 孫は、アンパンマンのストーリーを知りません。漫画もテレビ番組も見ていないのです。ですから、そこにバイキンマンなどがいることも、自分のほっぺたをちぎって人助けをする正義の味方であることも知らないはずです。

 ただ、あの丸い顔が、好きで、マントをしている姿が気に入っているだけなのです。
 電車に乗っても、ショッピングセンターに行っても、そこかしこに、あの丸い赤いほっぺをしたアンパンマンの姿を見るので、きっと、気に入ったのではないかと思っているのです。

 娘からの送られてくるラインの写真をみると、いつも、スパイーダーマンの姿をしているのです。
 日曜日、ビーチに行く時も、ゴールドコーストでの盆踊りの際にも、フェステイバルで、フェイスペインティングをしている時も、その出で立ちであったので、他に何か着せてやったらと言うと、これが気に入って、他のを着たがらないというのです。

 どうやらマントが気に入っているようなのです。
 きっと、アンパンマンと同じだと思っているのに違いありません。
 
 さて、荷物が届き、興奮している姿がラインで送られて来ました。

 字はまだ読めないのに、荷物の送り状を手でなぞり、チョコがどうだの、ラムネは酸っぱいなどと言っています。
 そのうち、ママのところに行って、私が来週家にくると書いてあると誇らしげに言っているのです。
 
 うるさいJIJIだと言われないうちが華だと思って、私はにこやかにその姿を見ているのです。

 下の子が、床を這い回るようになりました。
 娘たち家族は靴を脱いで、家の中では過ごしていますが、近所の人、電気工事の人はそれと気がつかず、靴を履いたまま、家の中に入って来ます。
 彼らは床に絨毯がひいてあっても平然と靴のまま入って来ますから、生活習慣とは恐ろしいものです。
 そして、かの地に暮らす娘たちも、たいして気にはしていないようですから、これまた恐ろしいものです。

 二番目になると、親というのは、子育てのコツもつかむようで、いや、そうではなくて、さほど気にして赤ん坊を取り扱うことはないと悟るのでしょうか、思いの外ぞんざいになります。

 しかし、土足で上がって来たままの床を赤ん坊がはいはいして、それも、なんでも口に入れるのが赤ん坊です。二番目とともなると、一番目とは違って活発になるのは、どの家も同じです。
 で、なんとかならないのか考えてはと言ったのです。
 
 そしたら、マーケットのポイントがたまり、ルンバを貰ったと言いますから、安心したのです。

 最近、上の子は家族の名前を言えるようになり、私の名前もきちんと言えるようになったのですが、このルンバ、iPhoneを通して作動させることができ、そのために名前をつけなくてはならず、孫がいうには、「私の名」が良いと言い、そうしたというのです。

 その動画がラインで送られて来ました。

 「私の名」を叫んで、孫はルンバの後を追いかけています。
 勝手に動きますから、「私」はどこにいると探していたり、電池が切れて止まっていると、「私」が死んだと叫んでいるのです。
 はいはいをし始めた下の子は、「私」を思い切り叩き、その上に乗っては「私」の動きを止めています。

 きっと、「私」はこの家では長持ちはしないと、私は思っているのです。

 ものに名前をつけるということは親しみが湧く行為です。
 孫たちは「私の名前」を、ルンバにつけ、「私」を追いかけ、「私」を叩き、好き勝手に遊んでいるのです。
 最近は、娘たちまで、「私」を呼び捨てにして、「私」はちゃんと働いているかとか言っているのですからどうしようもありません。

 親しみを込めて名付けてくれたのですが、私にとっては、どこか腑に落ちない気がしてならないのです。




武士の情けは何処にありや

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酒が置いてある棚。今は一滴も飲まなくなり、単なる飾りですが、中身を捨てる気にならないのはなぜなのだろうか。未練だろうか、それとも、単に美しいからだろうか。


 今日は、旧暦の三月十四日となります。
 元禄十四年、今は「松の廊下跡」と立て札が立つ皇居の一角で、それは起こりました。

 午前十時を過ぎた頃合いのことです。
 播州赤穂五万石の城主浅野内匠頭が高家筆頭吉良上野介を殿中松の廊下で背後から切りつけ重傷を負わせる事件が発生したのです。

 かの有名な「赤穂浪士」「忠臣蔵」の発端となる事件です。

 切りつけた浅野内匠頭を羽交い締めにして取り押さえた方が大奥留守居番梶川与惣兵衛です。
 七百石取りの侍ですが、その功により五百石の加増を受けます。

 午後三時、若年寄である奥州一関三万石の城主田村右京太夫が浅野内匠頭の預かりを命ぜられ、不浄門である平川門を出ます。

 一時間後、田村邸に到着。
 その二時間後の夕刻六時頃、大目付庄田下総守と目付の多聞伝八郎、同大久保権左衛門等が田村邸に派遣され、浅野内匠頭の切腹が申し渡されるのです。
 
 浅野内匠頭は、小書院前の庭に引き出されます。
 衣服はこの日朝から着用したままの小袖姿です。白装束への着替えは認められませんでした。

 田村右京太夫は、田村家所蔵の名刀加賀清水を介錯刀として用意しますが、大目付庄田下総守は許可しません。
 そのため、介錯人磯田武太が腰に差している刀が用いられました。

 五万石の殿様の切腹でなく、重大犯罪者へのそれは対応でした。

 遺体は、赤穂藩江戸藩邸の糟谷勘左衛門、建部喜六、中村清右衛門、田中貞四郎、片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門の六人が引き取り、泉岳寺に埋葬しました。

 一方、その日の午後二時には、早水藤左衛門と萱野三平の二名が、「殿中刃傷の発生」だけを報じた浅野大学の書状を持って、赤穂に向かいます。
 そして、その日の夜、原惣右衛門と大石瀬左衛門の二名が、「内匠頭切腹」および「赤穂藩取りつぶし」を伝えるべく、早駕籠に乗ります。
 
 江戸から赤穂まで百五十五里、六百二十キロです。
 通常は、十七日かかる行程です。

 第一陣の到着は、五日後の十九日午前四時。第二陣は同じ十九日の夜八時でした。
 軍事用である馬は使うことができません。
 ですから、大名たちが参勤交代で使う定宿をつたい、早駕籠をつなぎながら、この四人は一睡もせず、食事も取る暇なく、用便は垂れ流しで、この一大事を、文字通り、命がけで伝えたのです。

 早駕籠とは、かつぎ棒の前方と後方にそれぞれ二人が並んでかつげるように横棒をしつらえた籠で、それに紐をつけて籠の前方で引っ張る者が走るという籠です。
 場合によっては、後方に押し手が配置されることがあります。

 この時代、常宿では万が一の大事に備えて、「通しの早打ち」と触れて、一刻の遅滞なく籠を目的地まで走らせることができたのです。
 この時、赤穂藩が払った早駕籠代は二十両、現在の金額で二百万円でした。

 それにしても、いかばかりの気持ちで、この四名は、天下の一大事を携えて、籠に揺られていたのでしょうか。
 江戸で起こった大事件を、瀕死の状態の使いから伝え聞いた大石内蔵助もまたいかばかりの思いであったのかと思うと、胸に迫り来るものがあります。

 今、人の話を無断で録音し、それを週刊誌に流し、騒ぎが起こっています。

 人というのは、情が通えば、本音でものを言います。あらたまった口調から、普段の地のままの口調で親しみを持って語るのです。
 そこから、重要な情報を仕入れ、組み直し、一つの特ダネを作り上げていくのがジャーナリズムです。
 しかし今回、語る方はえげつなく、知性や品性のかけらもなく、聞く方は、無断で録音、それを無断で公開では、やる方ありません。
 貧相な輩は、それみよがしに、攻め込みますが、見ている方は、まったくの興ざめではあります。
 
 この件はジャーナリズムには信を置けないという風潮がおそらく蔓延する契機となるのではないかと思っているのです。

 そうそう、浅野内匠頭を羽交い締めにした梶川与惣兵衛は、幕府からは加増の栄誉をいただきましたが、江戸市民からは<抱きとめた片手が二百五十石>などと揶揄されるのです。
 武士の情けを知らぬ侍であるというのです。
 これほど、痛烈な責めはありません。

 そして、浅野内匠頭を庭先で切腹させ、差し出された介錯の刀を却下した大目付庄田下総守は、不適切な対応であると大目付から年寄に降格処分になります。
 これも武士の情けに欠けたことがその理由と挙げられています。

 元禄十五年十二月十四日早朝四時、堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にて着替えを済ませた浪士は、吉良邸に押し入り、本懐を遂げるのです。
 そして、泉岳寺に向かう途中、武士の情けを知る多くの江戸市民が彼らを迎えたと言います。

 こうでなくてはいけないのです。
 何事も武士の情けを知らないとこうはならないということです。




プロフィール

nkgwhiro

Author:nkgwhiro
ご訪問
ありがとうございます

《8 / 18 💦 Sunday 》
 
🦅 昨日、<カクヨム>にて『まぼろしのフランクフルト中央駅』を発信しました。

 縦横無尽に 

 意識の中を駆け巡るのは 
 人の持つ感性なるもの



この世に、二つの世界があり。
それは、現実世界と仮想世界。

かつては、そんなバカなと思える仮想の世界が、詩になり、絵になり、物語になって、現実世界で堪能されていました。
今、 AIがその仮想世界を現実世界に組み込み、私たちはその境目さえも不明の中で、仮想世界で遊ぶことができるのです。

なんともややこしい時代になったものです。

しかし、仮想の世界、昔から、人間の中にある何かのスイッチに刺激を与えてきました。
想像というスイッチ、さらに進んで、創造というスイッチにも、時には、幻想に、あるいは空想のスイッチとなり、私たちを楽しませてくれたりもしているのです。

フランクフルトの革ジャン男も、我が庭の山法師の木も、そして、日本語の二人称も、すべて、私にとって、現実世界と仮想世界を行き来する契機となったものたちなのです。

下のリンク欄、一番上の<カクヨム>をクリックしてください。


【nkgwhiroの活動】

💝 <Twitter>で、『ものかき』として、朝と晩『つくばの街であれこれ』と題して、つぶやいています。 

                                            💝 <Amazon・Kindle>で書籍の販売を行なっています。 ただいま、『一日千秋ーある日ちあきと』を販売しています。値段は3ドル換算日本円になります。
 

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