島国の人

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薄く、朝靄がかかった田園。蝉の声がうるさいくらいに。広々とした空間がパッと目の前に開けて、なんと気持ちのいいことか。そんな光景なんです。


 島国の人は、自分がどう思われているのか、どう見られているのかを気にすると言います。

 だから、島国である日本では、『日本論』とか、『日本人論』とかが大いに語られるのであるというような論調をかつて読んだことがあります。
 これだけ、自分の国のことや自分たちのことを気にかける国はないというのです。

 それを読んで、私は大いに納得したのです。

 だって、日本人である私自身、自分が生徒にどう見られているのか、あるいは、思われているのか、できるならば、いい先生であるという評判を得たいと思っていたからです。
 その実、教師というのは、生徒には嫌われるもので、怒ったり、説教したりが仕事ですから、好かれるはずなどないのです。

 それでいて、そのようなことを思うのですから、やはり、日本人なんだと。

 マルコポーロの『東方見聞録』における日本の姿に微笑んだことを覚えています。
 その一つが、日本は黄金の国という話です。

 誰かが書いていました。
 海辺から陸地を伺い、そこにある農民の家の茅葺の屋根が日の光にあたり黄金に輝いていたから、そう思ったのだと。
 でも、そうかな、さほどに輝くものかなと不審に思ったことがあります。

 それより、金閣寺や金色堂のように金箔を貼った建物があり、それが誇大に捉えられたというだけでいいのではないかと思ったのです。そして、マルコポーロは実際日本には来ていませんでしたから、伝聞によるイメージが欧州人であるマルコの心を鼓舞したのではないかと思っているのです。

 でも、自分の暮らす国が「黄金の国」であると書かれて、悪い気はしません。

 さて、そうした日本を良く語ってくれる外国人の文章では、江戸末期から明治初期に来日した欧米人たちの残した文章は、私たち島国人の心を大いにくすぐってくれます。

 あのハリスが姉崎という下田の近くの漁村を巡ったときの記述では、私は胸を張るのです。

 『貧しい漁村であるが、身なりはさっぱりしていて、態度も丁寧である。この村の人間には、貧しさにつきものの不潔さがない』

 こう書いているのです。
 きっと、アメリカ人を見たこの村の日本人は、その姿に対して、腰を折り丁寧にお辞儀をしたのでしょう。
 仕事着は毎日洗濯して、こざっぱりしていたに違いありません。
 それが誇らしいのです。

 さらに、ハリスはこうも書き残しています。

 『山には段々畑が尽きることなくしつらえてあるし、神社仏閣に通じる道は、石段が組まれている。これは一人の人間がなし得ることではない。つまり、この国の人々は共同で作業をすることができる人たちなのだ。』

 これも、私たちの社会のありようを誇るに足る十分な記載だと思うのです。

 今も、災害が起こったときなど、確かに、悪いやつもごく少数は出てくるのですが、大方は協力して、一人抜け駆けをしたり、ごまかしたり、商店の品物を略奪するということが起きない日本を誇れますが、それもそこに通じているのだと思っているのです。

 オールコックというイギリス公使がいました。
 彼の著した『大君の都』でも、日本人は実に簡素な生活に満足している。多くの者たちが生涯を生まれ育った土地で過ごし、村の風習にしたがって幸福に暮らしていると綴っています。

 よその土地に行きたくともいけない政策があったことは確かなことです。でも、それを苦にせず、ならば、自分たちの生まれ育った土地をどこよりも楽しくしようではないかという思いを、オールコックは彼の言葉で綴ったのです。

 当時の東北を旅した女性イザベラ・バードは、『日本奥地紀行』なる一冊を残しています。
 とある村にたどり着き、暑がっていると、そこにいた娘が扇を持って来て、小一時間休むことなく扇いでくれたというのです。
 出発に際して、扇いでくれた代金を問うと、要らないと。
 客人に辛い思いをさせたくないというおもてなしの心から、そうしただけなのです。
 イザベラはこのことに感動するのです。

 あのトロイの遺跡を発掘したドイツ人実業家シュリーマンも来日して、このような記事を綴っていました。
 『この国の役人に対する最大の侮辱はお金を渡すことである』と。

 シュリーマンは、来日する前に清王朝が支配する中国を訪問しています。
 あの国を旅するには、その土地の役人にいくばくかの金銭を渡さないと旅はできないことを思い知らされていたのです。
 ですから、同じ東洋の国の日本でも、おそらく、そのような振る舞いに出たのではないかと思います。ところが、日本の役人に、そうではないと言われたことに驚きを示したのが先の記述なのです。

 少し時代は新しくなりますが、あのボーヴォワルもまた記述を残しています。
 『平和であり争いを好まない日本の人々は、礼譲と優雅に満ちた気品ある民であった。人々はだれかれとなく挨拶を交わし、口元に微笑を絶やさない。茶屋の娘も農夫も旅人も、皆心から挨拶の言葉を掛けてくれる。地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ』

 こちらがこそばゆくなるくらいの賛辞です。
 だって、今、散歩の途中、あるいは、ロードバイクで走っているとき、すれ違う人に挨拶しても仏頂面でいる人も少なからずいます。電車の座席を争い、席を譲りもしませんし、それを譲れと年寄りが横柄な権利を要求してくる時代です。
 まして、文科省の高官が賄賂を受け取るなんて。

 島国の人として、いささか小っ恥ずかしくなっているのです。 





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冒険はそこにある

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雨風にもめげず、主人である私の頭にかからないように、我が宅の蜘蛛殿は、巣をちょっと高みに作り上げます。台風はどうだったと問うと、今回はなんとかやり過ごしたが、これからが問題だ、これだけ気温が高いと、台風のやつ力をつけやがるといまいましそうに言うのです。さて、果たしてどうなることやら。



 ある冒険家が言いました。
  もはや、我々が冒険する場所は、この地球上では洞穴しかない、と。
 
 確かに、その通りであると、私、納得するのです。

 タイで、子供達が洞穴に入り、雨に降られて洞穴が塞がれ、世界の耳目を集める救出劇になりました。
 そして、関係者の必死の努力で全員の命が救われました。
 なぜ、そのようなところに入ったかは良くわかりませんが、それも、人が誰もで持つ冒険心であるとするならば、これも、私、納得するのです。

 私たちには、未知の部分に入り込みたいと言う強い欲求があるのです。
 
 それが、人類をここまで発展させ、偉大にして来た一つの原点でもあるのです。
 ですから、あの子供たちが洞穴に入っていったことも責めようとは思わないのです。

 時折、私は自分の生まれる時期が少し早かったならと思うときがあるんです。
 例えば、アメリカ西部開拓の時代、それと江戸に家康が入り、街を作り上げる時代です。

 イギリスで虐げられ、そんなところで暮らすくらいなら、新天地を求めて、一家で大西洋を超えてやろう。生まれ故郷で、仕事もなく、辛い生活をするくらいなら、全財産を注ぎ、船に乗り、アメリカに渡り、そこで一台の幌馬車を買い、馬を整え、自らを守るライフルを手にして、西へ西へと進む道を選ぶことになんのためらいもなかった彼らの時代です。

 西部劇が面白いのは、腰の二丁拳銃をぶっ放すからではなく、その根底に、あの幌馬車で彼らの理想とする大地を目指したからなのです。
 もともと、そこに住んでいた、私たちと同じモンゴロイドのインディアンにとっては、迷惑千万なことでしたが……。

 そして、江戸です。
 谷があり、海がぐっと内陸まで入り込んでいたのが江戸と言われる一帯です。
 大きな川がいく筋も流れて、時に、その川は往往にしてあたり一帯に水害をもたらします。
 豊かで、安定した濃尾平野に比べれば、ここは未開の地であり、手の施しようもない湿地でした。
 この地を秀吉がくれたのは、自分を豊かな、代々の実力者が支配した土地から放逐し、そのことで潜在的な力を奪おうとしていると戦いを急いだら、きっと、歴史は異なった様相を見せていたにちがいありません。

 家康は、目のあたりを八の字にしながら、居並ぶ家臣たちに、嬉しそうに言ったはずです。

 おのおの方、この地には先々の豊かさが見えまするな、あの谷に川を導き、あの丘に住まいを立て、そうそう、あの入り組んだ海を埋めたてたら、この地はきっと、とてつもない大きな大地に変貌するであろうのぉ、と。

 家臣たちは、家康の殿が言うなら、一丁やってやろうではないかとなったはずです。
 
 あの海べりの平地にまず、城を作りましょう。
 南側の海は浅瀬のようですから、そこを埋め立てましょう。
 埋め立てするための土砂は北一帯にあるあの丘の土を切り崩しましょう。
 あの谷はそのままにして、城の防備のための堀といたしましょう。
 
 田畑も広げ、その田畑を開拓するものを各地から募りましょう。
 運河を作り、ものを大量に運ぶ水路を作りましょう。
 街を活性化するには、人が必要です。
 人は住まう家が必要です。人がいれば水も必要です。

 次から次へと、必要なことが生じては、それを果たしていくのです。
 いつの間にか、江戸は、当代世界一の大都会へと成長していくのです。

 武士というのは、源平の時代の以前から、偉大な開拓者であり、土木家であったと思っているのです。
 城を作るための石組みや防御のための掘割、それに威容を誇る天守閣、それを設計する知恵がなければ武者にはなれなかったし、その細かい石組、土木工事をするのもまた武士だったのです。
 それが失敗し、腹を切った武者もいるくらいでした。
 反対に、大きな仕事を手がけて、戦場で手柄を立てた武者と同等の処遇を受けた武者もいたのです。

 そんな、西部開拓の時代、江戸の街を作り上げたあの時代に生きていたら、なんと素晴らしことであろうかと思うのです。

 しかし、よくよく考えてみると、そのようなことはあり得べからざることではあります。

 さらに、よくよく考えてみると、そのようなことを空想することこそが、現代の冒険ではないか、と思ったのです。
 そう思うと、冒険は人の心の中に必ずあるものだと思うのです。





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シェルターがない

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一ヶ月ほど前のことです。庭の鴨が田んぼをつついていました。カエルか、それとも、ドジョウか、あるいは、タニシか、そんなものをつついていたのでしょう。そして、私が近づいてくるのを察知すると、示し合わせたように、二羽の鴨が飛びだったのです。その羽を広げて去っていく姿の美しいことはこの上ないものでした。


 あまりの暑さで何をするにも億劫となった日のことでした。

 当然、予定していた仕事にも乗り気が失せて、冷房の入った部屋で、ボーッとしていたのです。
 そんな時というのは、とんでもないことを考えるものです。
 この時、私が考えたのは、我が宅には、シェルターがないということでした。

 なんだか、アメリカのB級映画のような話なんですが……。

 シェルターといえば、核から身を守るために、コンクリートでできた、それも、地中深くにあって、人間を守る居住環境の整った箱のようなものです。
 そんなもの、一個人で家に備える日本人なんて、そうそういるもんじゃないと思いながらも、私の空想は、とめどもなく広がって行ったのです。

 もし、どこかの国の解放軍と名乗る組織が、つくばにある日本政府の研究機関で研究実験されている重要なデータを奪取しにきたらとか、そのために、住人を人質にし、つくばの人間は一箇所に集まられたらとか、そんなことを考えたのです。

 そんな時、自分たちは抵抗ができるのだろうかって。

 だって、誰一人、日本人は武器というものを持っていません。
 刀は七十年ほど前、戦争に負けたときにアメリカ人に持っていかれ、日本の警察は、個人が刀を持つことを厳しく制限しています。
 それ以前に、刀そのものが工芸品となり、高額なものとなってしまいました。
 一般の人が、そうそう簡単に手に入れらる代物ではなくなってしまっているのです。

 まして、銃など、見たことも、撃ったこともない人がほとんどです。
 高性能の銃など、持たされても、どう扱ったらいいのか、きっとわからないでしょう。

 秀吉が刀狩を行なったのは、自分が平和を担保するから、お前たちは、鍬を持って、畑を耕すことに精を出せということからでした。
 ですから、刀狩は検地とセットになって、平和を希求する秀吉にも、田畑を耕すことに精を出せる農民にも、利益があったのです。
 我が国に、ある一定の平和をもたらし、それが家康にまで受け継がれて、あの江戸と言われる時代の平和な数百年という奇跡の時代をもたらしたのです。

 しかし、今、日本人は、おそらく、なんの担保もなく、心さえも無防備の状態におかれているのではないか、だから、アメリカ人が真剣になって、シャルターを作り、それを買い求め、自分の家の敷地にそれを設置しても、日本人はそれをすることもなく、のほほんとしているのではないかって思ったのです。
 
 アメリカ人は、自分らの命と生活は、自分の力で守るって意識が相当に強い国民であると思います。
 それは建国の際の、アメリカ人のDNAに組み込まれているのです。
 誰もあてにはできない。
 己の責任で、大陸の道なき道を西へと移動したのです。
 襲ってくる敵があれば、自らの命を守るために、戦うことに躊躇はありませんでした。

 でも、日本はそうではありません。
 自分たちの命を守るという個人の意思は実に希薄です。
 政府がきっと何かをしてくれるに違いないと呑気に構えているのです。
 
 いや、それが悪いというわけではないのです。
 戦後歴代の日本政府は、国民の期待を裏切らない施策を、それが不足であれば、充足できるように対処をしてくれていると思います。

 選挙があれば、何十人も殺害される国が今だにあります。
 水害や地震でも、救われる命が見過ごされる国もまだあります。
 そうした中で、日本の歴代政府はしっかりとやってくれている部類に入るのではないかと思っているのです。

 でも、一人一人になった時、どこかの国の解放軍と名乗る武力勢力が来たとき、戦えるのかと心配するのです。

 だから、冷房のきいた部屋で、私は空想するのです。
 アメリカのB級映画の主人公のように、筑波山に籠って、家にある木刀を持って、徹底抗戦をしようと。

 B級映画では、同じような考えを持つものが必ず何人か出て来ます。
 その人たちとスクラムを組んで、山を根城に戦おうと。
 筑波の山こそ、我々のシェルターだとか、キャッチコピーを作って、あの梁山泊のように、同士が集って、侵略して来たどこかの国の解放軍と戦うのです。
 
 いい歳をして、くだらないことを考えるなって、きっと、私の友人たちは言うでしょうが、でも、考えて見てください。
 世界は今、大きく変化しているんです。
 何が起こっても、いや、それが起こる確率は高まっているのです。

 私たちの住んでいる列島は、列島であるがゆえに外来者の侵略を拒んで来ました。

 むしろ、ユーラシアの端にあるがために、さまざまな文物、人々がたどり着く場所として、長らくあったのです。
 でも、世界の潮流が変われば、そうもいかなくなるのです。
 この列島にある知財の凄さは何ものにも変えがたいものなのです。
 この列島に暮らす人々を配下におくことは得難い財産になるのです。

 だから、私のあの暑い日の、四十度になんなんとする日の妄想は決して笑って済ませる問題ではないと思っているのです。そう、私は自分に言い聞かせているのです。





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明け方の命

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こんな日がありました。沈む太陽のパワーで真っ赤に染まった西の地平。その上に厚い雲がかかっているんです。なんとも不思議な空模様でした。でも、美しい、あまりに美しい、そう、感じたのでした。



 今日は幾分気温が下がりますって、早朝のラジオのニュースが伝えています。

 つくばあたりでは、これまでの「命に関わる危険な暑さ」なるものはどうやらひと段落のようです。
 しかし、それでも、各地三十度は超えますから、ためらわずに冷房を使うようにしてくださいって、穏やかな声で言っているのです。

 この命に関わる暑さのなかで、いく人もの老人が命を落としました。

 アナウンサーは、この人たちは冷房のない部屋にいたとか、冷房があってもスイッチを入れていなかったと伝えています。
 昔は、冷房などなかった。
 だから、木陰に縁台を出して、大股広げて涼み、打ち水をして涼しい風を招き入れたりしたもんだが、最近の老人は家にこもり、じっとしているのだろうかと、そのニュースを聞いて不思議に思ったりしているのです。

 そんなわけはない。
 きっと、もっと深刻な事情が、彼らにはあったに違いないって、そう考えているのです。
 そして、それは数年後の自分ではないかと思って、ゾッとしたりもしているのです。

 ラジオのニュースを聞いた朝、私はご飯に静岡産桜エビを振りかけて、そこに半熟の卵焼きを乗せて、バナナとリンゴを添えて、朝食をとっていました。
 もちろん、我が宅のバルコニーでです。

 今朝も、掃除をしなくてはいけない。
 昨日、花を咲かせた朝顔が儚い命を枯らして、いくつもつぼめた花の残骸をそこら中に散らしているとそんなことを思いながら香ばしい桜エビのご飯を頬張っていたのです。

 バルコニーの隅に置かれているエアコンの室外機の向こうに、私は、せみが腹を出して身動きしない姿を見つけました。

 朝だというのに、自慢の我が宅のバルコニーには命の尽きたものばかりが横たわっているではないか、まったく、困ったものだと半ば呆れ顔になって、バナナの皮をむいていたのです。
 
 食事が終わり、ミルクティーを淹れます。
 今朝は、うってかわって、北寄りの風がそよぎ、幾分涼しいと感じていたからです。
 暑いさなかに、温かいミルクティーを飲む気はしませんが、このくらいの風がそよいでいれば、ちょっと手間をかけて一杯の美味しいミルクティーを淹れてもいいと思ったのです。
 透明のガラスコップ半分にちょいと濃い目のティーを入れて、いつもより幾分多めにミルクを注ぎ込みます。
 この色がいいのだと一人悦に入りながら、ミルクティーを堪能します。

 そして、朝顔といい、セミといい、何故、その命は儚いのかと思いを至すのです。
 今、私の頭上でいく輪もの花を咲かせている朝顔は、今年で四回目、我が宅で咲いた花の種から咲かせたものです。五年前、近くの店で、江戸の時代から続くというアサガオを買ってきて、そのタネをとって、こうして咲かせ続けてきたのです。

 それを考えれば、朝顔が、花を咲かす時間を、その命として認識するのではなく、連綿と続く命の連鎖として位置付けたほうが正しい認識なのだと思ったりもするのです。
 でも、色のついた花びらがしわくちゃになり、わずかに花の末端に瑞々しい色合いをとどめているとはいえ、無残にも散った朝顔の成れの果てを見るのはやるせない思いがするものです。

 鳥のさえずりを威圧するように、蝉のうるさいくらいのなき声が次第に高まってきました。

 命はあとわずか、さぁ、この世に生を受けて、地中深く長い暗い生を営み、やっと、この世に出てきたからには、思い切り鳴き、この世界に我ありと叫ばなくてはなるまいと、まるで朝顔が花の隅々までに水分を送り、突っ張って咲いているのと同じだと、私思ったのです。

 食事の後かたづけをして、まずは掃き掃除をして、それから水撒きをして、私の毎朝の仕事が始まります。

 落ちた朝顔はまだ水分を含んでいたのでしょうか、バルコニーの床にくっついてしまっているものもあります。それを足の親指でこすり剥がします。
 おっと、忘れていた。
 室外機のそばに蝉が腹を出して横たわっていた。これもすくって置かなくてはと、私、箒を蝉に近づけたのです。

 そしたら、どうでしょう、その蝉、急に羽をバタバタさせて、背中を上にして、私を見上げるのです。私も、思いがけない蝉の振る舞いに、唖然として、これまた箒を手にしたまま、見つめていたのです。

 蝉は、我に返ったように、再び、羽を、音を立てて動かしました。
 そして、バルコニーを飛び立ち、道向こうの林の方へと、実に元気な様子で飛んで行ったのです。 
 
 あの蝉、寝ていたのかな、それとも、わずかな生の間にも、その生が嫌になってふてくされていたのかなと思ったのです。

 林の方から、蝉の鳴き声が聞こえました。
 ひときわ大きな鳴き声です。
 箒を持った私に向かって、それは発せられているそんな気さえしたのです。

 わずかな命の時間なんだから、精一杯、鳴けよって、私、声をかけたのです。





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首刈り族の家

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明日はいい天気なのか、それとも、狂ったような天気になるのか、小豆色の夕焼けを見たのです。



 首刈り族って知っているかいと、久しぶりに会った友人が問いかけてきます。

 なんだい、今度はそんな奴らがいるところに行くのかいと私が言います。
 この男、いい歳をして、今だに独り者。
 でも、私にとっては、実は、憧れの男なのです。

 俺はさ、冒険家じゃないんだから、そんなわけのわからない奴らが暮らしているところになんかいかないよ。

 そうじゃなくて、首刈り族っていうのは、ツリーハウスに暮らしているんだ。
 そんな家に住んで見たいと思ってね。

 要は、その首刈り族が暮らす島に行って、そのツリーハウスなるもので暮らしたいと、つまり、首刈り族の村に行くってことではないかと、私、突っ込んだんです。

 首刈り族は、昔、そうであったというだけさ。
 日本人だって、昔は、首刈り族だぞと、彼も私に突っ込んできます。

 いくさずきで、負けたものは首を取られるんだから、挙句に、その首が晒される。もしかしたら、日本こそ、世界最大最強の首刈り族の子孫かもしれんぞと極論を展開します。

 いやね、誰かが言っていたんだが、それが誰だかはもうとっくに忘れているんだけれど、「男子たるもの、一生に三度、家を建てるべし」って。
 でも、俺、今まで一度も家を建てたことないんだ。
 死んだ親父が残してくれた家に、それも雨漏りのするような家に暮らしている。

 それに比べ、お前は俺から二度の新築祝いをかっさらっていった。
 つくばに家を建てた時、その家を建て増しして、祝いの席に呼ばれた時、俺はお前に新築祝いをやったことを覚えているだろう。
 祝いって言ったって、ワインをひと瓶持ってきただけだろう。
 それも、安い甲州葡萄酒ってやつを。

 それに、<男子たるもの三度家を建てる>っていう言葉があるとするなら、俺はすでに三度家を建てたと言っても差し支えないんだ。
 怪訝そうに私を見つめる友人に一呼吸をおいて、船だよと言ったのです。

 中古船を買い、それを補修する。機械類のことはわからないから、専門家にお願いするけれど、そのほかのことは、特に、キャビンの内装は自分でできる。
 おいらは、船で湖をクルージングするというより、船でひと時を過ごす、言うなれば、船は俺の別荘なんだ。
 だから、俺は家を三度建てたというその言葉を実践した男子の一人なんだと胸を張ったのです

 私の友人、私の言葉を聞いて、ちょっと寂しげな表情になりました。私、ちょっと言葉がすぎたかなと反省したのです。

 俺は、連れもいないし、当然、子もいない、俺はあの家で、ひっそりと死んでいくんだ。だから、お前に、俺の最期の面倒を見て欲しいと思っているんだ。 
 そんなことを言いにきたのではなかろうと、私、話題を強引に戻します。 

 そうそう、ツリーハウスで過ごすなんて素敵じゃないかと思ってね。 
 で、その首刈り族、なんで、ツリーハウスを作ったかというと、敵対する他の部族からわが身を守るためだっていうんだから面白い。 
 何が面白いのかというような顔で話を聞いている私の顔色を伺っています。

 だって、そうじゃないか、ヤシの木のてっぺんに家が建っているんだ。
 男だって、てっぺんにある家に行くには相当な労力が必要だ。そこに妻子を住まわせるんだ。やっと登った妻子がまたやっとの思いで登るなんてと、一旦、登ったらそうそう簡単には降りてこられない、つまり、男は、妻子のための食料を調達するために、普通に暮らす以上の労力を必要とするわけだ。

 でも、家というのは、くつろぎがないといけない。
 だから、そのような苦労をしてもきっと何かいい面があったんだと思うんだ。
 友は、そう言います。

 つまり、ツリーハウスの利点だ。

 一つには、風の涼しさ、暑い島だけれど、上空は地上に比べ幾らかは気温も低いだろうし、風が心地よく吹いているはずだ。それに、夜の満点の星、それを独り占めだ。
 友は、憧れの表情で、そう語るのです。

 その表情にバケツで冷や水をぶっかけたのは私でした。

 嵐の時は大変だ。地震どころの騒ぎではない。不規則にあっちに揺れ、こっちに揺れ、生きた心地もしないだろう。満点の星というけれど、それがどうした。星はどこにいても見ることができる、浜でも、丘でも、どこでも見ることができる。
 だから、彼らのツリーハウスというのは、敵の部族が攻めてくると知ったときに、その時に避難する家に違いない、それに、南洋の女たちは見事に肥えている、そうそう簡単に二十メートルも三十メートルもあるツリーハウスに登れるはずがない。

 お前は首刈り族だなと私の友人が私を恨めしそうに見て一言ボソッと言いました。

 私は、彼を書斎からバルコニーに連れて行きました。
 暑い日差しが、水漏れをしないように塗布したシリコンを熱していますから、サンダルを履かせ、ひときわ大きいバルコニーに案内したのです。
 ここは二階部分にあたるけれど、これだけの高さであっても、バルコニーが意味を持つのは、ちょっと遠くを見渡せるということ、人というのはちょっと高いところに目線をおくだけで、その目に、下にいるだけでは見えない何かを見いだせるということなんだ。それに、バルコニーは屋根がない。だから、外とまるきり同じなんだ。

 これを作ったのは、まさに、私にとってはツリーハウスと同じなんだよ。
 そう言ってやったのです。

 友人は、そこに置いてあったガーデンチェアに腰掛けました。

 そして、独り言ちたのです。
 木と木をつないで、さらに木と木をつないで行けば、ちょっとした風にも動じないだろうし、取り外しの可能な階段をつけておけば、誰でも容易に上がってこれる。それに敷地、いや、敷台も広くなるから、このようなバルコニーも作れる。ここより、ずっと高いところにガーデンチェアを置いて、くつろぐんだってなことを言っているんです。

 こいつ、昔から、いい歳になるまで、こうして夢見心地で生きているんだと私思ったのです。
 そして、そんな人生だってありなんだとも、私思ったのです。

 こいつ、きっと、自宅のボロ屋はそのままに、あのちょっと広い庭の木に板をかけて、そしてきっと、二階の洗濯干し場からツリーハウスに渡れる板を通すはずだと。
 まぁ、彼の家だし、好き勝手にやればいいと、彼の横顔を見たのです。

 その時は、新築祝いにシャトーブリヤンでも持って行って、一緒に飲もうと思ったのです。





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夢枕とヘアーネット

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森の中の公園、誰も座らせまいと太陽が強烈なスッポトライトを浴びせています。でも、その強烈な太陽はまた、緑を輝かせてもいるのです。


 自宅で仕事をしている私は、かかってきた電話には出ないことにしているんです。

 私に直接用事のある方は、私のiPhoneにかけてきますから、家の電話にかかってくる電話の主は、まず百パーセント、何かを買ってほしい、あるいは、屋根を修理させてほしいなどというセールスの電話だからです。

 対応するのにせいぜい長くて五分、そのくらい時間を割いたっていいじゃないかという人もいるのですが、とんでもない、押しつけがましい口上で、まるで、私のすべてを知っているといった口調でものを勧めてくるんです。それに腹がたち、小一時間、場合によっては、午後の全部の時間を台無しにされるんです。

 だから、私は電話には出ないというわけなのです。

 その日、私は順調に仕事を進めていました。
 昨夜は、暑さで寝苦しく幾分寝不足であったのですが、書斎のデスクに向かって、MacBook Proを開くと、湯水のごとく言葉が出てきて、キーボードをリズミカルに打ち続けていったのでした。

 小一時間、いや、その倍程の時間が経過した頃合いでした。

 一杯のミルクティが飲みたくなったのです。
 仕事もある程度進み、休憩を入れるには良い頃合いだと、そう思って、キッチンに行って、紅茶を淹れていたのです。
 すると、来客を知らせるチャイムがなりました。

 これは、電話のようにはいきません。
 私は玄関に行って、ドアを開けて、下にある門のところを見ました。
 私の家は二階が主たる活動場所になっているのです。ですから、来客者は、門を開けて、階段を登って、そこにある玄関にくるというわけです。

 門に男が一人立っています。
 ちょっと、不自然な感じのする男でした。そして、失敗したと思ったのです。
 来客者に対しては、ドアホーンで対応して、さらりと断ることを常としているのに、今日に限って、玄関のドアを開けてしまったからです。

 男は、門柵の前に立って、ニコニコして、私を見上げています。
 「お忙しいところ恐れ入ります。今日は、夢を売りにきました。」
 そして、男は、また、丁寧に頭を下げるのです。
 <バカバカしい。夢を売るっ、何をほざいてるんだ。>と思いながら、私、妙なことを言ったのです。

 「夢は、今、間に合っていますから。」

 そう言って、ドアを閉めようとすると、その男、門をこちらの承諾も受けずに開けて、さらに、階段を早足で上がってきたのです。
 しかも、二段跳びでです。
 玄関の脇にユーカリの植木が大鉢におさまっていて、来客者を拒否するかのように枝を自由に伸ばしています。その枝をさらりと手で払いのけて、あっという間に私の目の前に立ったのです。

 「すみません、強引にやってきてしまって。」

 男は、小柄で、そして、ここでもニコニコとしています。
 私は、上がってきていいとも言っていないのに、あっという間に上がってきたこの男に不快感を露わにして、玄関の取っ手を握って、家の中には入れないぞという気構えで、その男に面と向かっています。
 男はいつの間にか手にしていた、枕のようなものを私の目の前に掲げました。

 「この枕を買ってくれとお願いにきたわけではないのです。私の願いは、あなた様に是非この枕を使っていただきたい、そして、ご意見をお聞かせ願いたいというだけなのです。お使いになり、ご意見をもらった後、これを買ってくれということも言いません。むしろ、謝礼として、この枕をご提供いたしたい。」

 そんなことを言うのです。
 <ただより安いものはない。これには何か罠があるはずだ。君子危うきに近寄らず。さぁ、何をためらっている。すぐに追い返せ。>と、心の中で、「私」が叫びます。

 男はまた、いつの間にか、もう一つ、何やら黒いものを手にしていました。

 「これは、ヘアーネットです。ヘアースタイルを整えて、これを被って寝てください。ここに小さいプラグが付いています。これを枕のジャックに差し込んで寝るんです。そうしますと、ヘアーネットがあなたの脳波をキャッチして、この枕に入っているAIに送られ、嫌な夢を排除し、いい夢を、あなたの脳が選択するように仕向けるのです。是非、あなた様に使っていただきたく思います。」

 そう言うと、このニコニコとした笑顔を絶やさない男、私に枕とネットを渡して、一礼し、そして、これまた二段跳びで階段を降りていったのです。
 門を閉めて、そして、振り返ることもなくニコニコ顔の男は消えていったのでした。

 米俵を小さくしたような枕、中にAIなるものが入っているにしては妙に柔らかいと私は思いました。円柱状の枕の一方の円の部分の中央に、確かにジャックがあります。そして、ネットのプラグがきちんとそこに入ります。

 私は、手にしていたミルクティのカップをテーブルにおいて、その黒いネットを頭につけて、ソファに横になり、枕を頭に当てて見ました。もちろん、ネットのジャックを枕のプラグに差し込んでです。
 するとどうでしょう。枕が、微妙に、振動をし出し始めたのです。私の脳波をネットが読み取り、それを枕のAIに送っているようです。

 以前勤めていた会社の先輩で、私の気に入らない男の名前を言って、それを消去していいかと、私の脳に問いかけをしてきたのです。仕事のことでもめた同僚のことも問うてきました。そんなことを次々に問いかけてくるのです。
 そして、それがひと段落すると、昔の恋人の名前が出てきます。すっかりと忘れていた女性です。もちろん、私はそれまでと違って消去を拒否しました。
 私は、問われるまま、時には、しばらく考えて、消去か残留か、そのどちらかの返答をしていったのです。

 <ご苦労様でした。あなたの脳の分析が完了いたしました。今宵、おやすみになる時には、ネットと枕をコンタクトして、お休みください、きっと素晴らしい夢をご提供できることでしょう。>
 そんなことを言うのです。

 その晩、私はあまり期待もせずに、寝床に入りました。
 この夜も、気温は高く、冷房を入れて寝ることを好まない私は、窓を開けて、寝床に横になったのです。
 寝苦しい中でも、程なく、私は夢見心地になりました。

 私の深層心理の中で、自分の苦手とする人間、蛇のような目つきで自分を見ている奴、悪い方向へと自分をそそのかすそういった輩が、私を困らせてハッと目を覚ます、そういったことが、特に寝苦しい晩はあったのですが、その夜は、そうした手合いの人間は誰一人として、私の夢に出てこなかったのです。

 そうではなく、心優しい人々、好意をもって接してくれる人、心が安らかになるそんな人々が私の夢の登場人物となって、私の前に現れてきたのです。

 もちろん、そのような人たちが、私を唸らせるわけがありません。
 心地の良い目覚めを迎えたのは言うまでもありません。

 翌日も、その翌日も、私は、目覚めの良い夢を見続けたのです。
 あの私に冷や汗をかかせ、意地悪そうに私をやっかむ輩は誰一人として夢には現れなくなりました。

 数日後、私は一仕事を終えて、ソファーに横になり、ヘアーネットをつけて、枕につなげて、脳で念じたのです。

 何か、新しい創作、人類が誰もまだなし得ていないこと、それを夢のなかで見てみたいと。
 枕の中のAIが反応をしました。
 かすかな振動が私の頭に伝わってきます。

 <あなたが書いたこれまでの作品のすべてを読み取りました。分析にはしばらく時間がかかります。そのまま、しばらくお待ちください。>

 その時です。来客を知らせるチャイムが鳴ったのです。
 私は、立ち上がり、枕を頭におしつけたまま、ドアーホーンの前に行きました。
 あのニコニコした男の声です。

 二階の玄関まで上がってくるよう、今度は私の方から誘いました。
 今、こう言うことをしているんだと、私、笑みを浮かべながら、ニコニコ顔の男に玄関の前で言ったのです。

 すると、ニコニコ顔の男、急に、眉間にしわを寄せて、私の枕を取り上げて、枕のプラグからネットのジャックを引き抜いたのです。

 「残念ですが、これは引き取らせてもらいます。この枕は、いい夢を見るためのものであって、自分の利益につながるようなことをするためのものではありません。」

 ニコニコ顔の男からニコニコした笑顔がなくなっています。
 私は、そんなに悪いことをしたのかと怪訝そうな顔でニコニコ顔の男を見つめていました。
 ニコニコ顔の男は枕とネットを抱えて、一礼して階段を降りて行きました。

 その晩、私は、寝苦しい夜の暑さの中、私をいじめる先輩や、横柄な上司、それに、私を振った女まで出てきて、私を思う存分にいたぶってくれたでした。

 本当に、寝覚めの悪い朝でした。
 あれっきり、あのニコニコ顔は姿を見せなくてなりました。

 時折、私は、バルコニーから道筋を見て、あのニコニコ顔がひょっとしたら歩いてくるのではないかと探しているのです。





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さんまは苦いかしょっぱいか

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つくばにある洞峰公園池をのぞむの図です。こういう光景が好きなんです。拓けていく、広いところへと出ていく、そんな気がするからです。酷暑もひと段落と今朝のNHKが言っていました。本当にホッとしています。ニュースを聞いて、ホッとするなんて珍しいことです。



 阿辻哲次が、連載している日経の日曜日の記事「遊遊漢字学」で、『解』の字について、<牛のツノを刀で切り落としているさまを表していて、牛を解体することから、広く一般的にものを切り分けることを「分解」というようになった。だがもしもこの漢字がはじめから日本で作られていたら、《牛》の部分がきっと《魚》になっていたことだろう。>と書いていました。
 
 これまで、何度か中国を訪問しました。確かに、豚肉料理は美味しいものばかりでした。
 しかし、魚料理は川魚を素揚げして、そこに濃い目のたれをかけて食べるくらいで、これといった工夫がありませんでした。
 だから、日本と中国の違いは何かと問われたら、一方は魚を主として料理し、他方は肉を料理することに長けると説明しても決して間違いではないと思っていたのですが、どうも、昨今のニュースを見ていると、そうも言えなくなったと感じるようになったのです。

 先だって、北太平洋漁業委員会の年次会合があり、日本が提案した公海でのサンマの漁獲枠導入には中国などが反対し、昨年にひき続き合意できなかったというのです。
 日本人が好んで食してきたサンマが、丸々太って、つまり、美味しくなって日本近海にくる前に、中国や台湾の大型漁船が根こそぎとっていってしまうから、それは困る、規制をかけて日本の食文化を守ろうとしたのですが、中国は同意してくれなかったということなのです。

 マグロやクジラでは、日本は世界からバッシングを受け、漁獲制限を必死で守り通し、あるいは、本格的な漁獲を避けていますが、サンマにおいては、中国からはやられっぱなしというわけなのです。

 サンマは焼くと脂が出てきて、それが煙となり、これは体に良くないと、サンマの脂を焼きに焼いて抜き取り、小骨も多いから喉に刺さるといけないとこれまた丁寧に一本一本抜き取り、さらに、黒いはらわたなど食べさせてはなるまいと綺麗に削ぎ落とし、あのほっそりとし、美しいサンマもあれこれ手を入れられ、なんとも無様な姿になってしまったというのは、あの落語の『目黒のさんま』の一節です。

 つまり、美味しいところを全部取ってしまったわけですから、ぼさぼさの美味しくもない、かつ、美しくもない魚になってしまっというわけです。

 「さんま、さんま、さんま苦いかしょっぱいか。そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。」
 と詠んだのは、佐藤春夫です。
 師と仰ぐ谷崎、その妻千代との経緯について語ることは、今回は避けますが、この詩句の一説にもあるように、サンマのわたはちょっとした苦さがあって、それが魅力なのです。
 魚好きの日本人でしか、その良さはわからなかったはずだったのですが……。
 
 江戸の庶民は、そんなサンマが河岸にあがると祭りのように大騒ぎをしたと言います。
 安い値段で、あの銀色に輝くサンマを食することができるのです。一心太助もきっと、大忙しだったに違いありません。
 だから、サンマという魚には「鰶」という字をあてていたと言います。
 それが、あの佐藤春夫の『秋刀魚の歌』で、「さんま、さんま、さんま苦いかしょっぱいか。」とやられて以降、「秋刀魚」という字が一般的に使われるようになったというのです。
 
 中国で、日本人がそのほとんどを食べていた秋刀魚が食されるようになった原因は、日本食ブームにあると言います。
 ですから、屋台などで、秋刀魚を一匹串刺しにして、炭で焼いて売っていると言います。

 油であげたり、タレをかけたりする中国風の料理ではなく、まったく日本の食べかたで、調理されていると言いますから驚きです。
 秋刀魚の一匹丸ごとを食べることで、中国人民は日本を感じているのです。

 日本の国民には、なんの制限もなく、だから、ちょっと羽目をはずすこともあるけれど、街は綺麗だし、落とし物をすれば十中八九戻ってくるし、何しろ、若者も、老いた者も皆おしゃれで、生き生きしている。
 中国の人々は、秋刀魚からそんな日本を感じてくれているんです。

 あの国の民が、飽きるときがくるやもしれないし、よしんば、そうでなくても、江戸の昔から庶民の大好物であった魚が、いい働きをしているというのであれば、こちとら諦めるしかありません。
 
 我が国の食文化を侵略する中華帝国に宣戦布告なんて野暮なことは言いません。
 だって、あれだけ美味しい秋刀魚、その秋刀魚の味がわかってくれればそれに越したことはありませんと、江戸っ子の血をひく日本人は、鼻の頭を右手の手根部で軽くいなして、綺麗さっぱりと秋刀魚をお渡ししましょう、と。

 おいおい、勝手なこと言っちゃ困るよとお叱りを受けるかもしれませんが、日本の文化が、それも庶民の飾ることのない文化が、世界に知れ渡るのです。
 そう思って、どうですか、秋刀魚に変わる何か素晴らしいものをまた見つけようではありませんか。

 江戸っ子だって、あれこれ工夫して、てめぇたちの文化を作り出してきたんです。
 目先のことで目くじらを立てるのではなく、秋刀魚がなければ、ほかに何があるか、そのくらいのことは江戸っ子の子孫である私たちだったら探せるはずです。
 
 中国のことですから、きっと、取り尽くして数も少なくなり、秋刀魚は高級魚となり、そうなれば食べることも叶わなくなります。
 それに、そのうちきっと飽きもするでしょう。
 秋刀魚たちだって、本当に自分たちを大切に取ってくれて、食べてくれて、文化の高みにまであげてくれた日本人にまたわんさか食べられるのを待っているはずだと思いますよ。





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洒落る医師

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鳥も暑いのかしら、そのため、注意力が散漫になっているのかしら。これだけ近づいても、逃げようともしないのです。明らかに、気象はこれまでとは異なっていますね。何をできるわけではないですが、今朝は、朝方24度のつくばです。外の空気がひんやりとしています。


 とある女性が、がんで亡くなったという新聞記事に、自然と目がいってしまいました。しかも、見出しには「腎臓がん」とあるのではなおさらです。

 この女性、腸になんらかの病気があったらしく、その経過観察のため、CT検査を受けたそうです。
 CT検査やMRI検査などの高度な医療検査は、放射線診断医師によって、撮影された画像の「読影」が専門的な見地からなされます。そして、報告書が担当医師に手渡されて、最終診断が患者になされるのです。

 意外に、詳しいねと言われそうですが、この高度な検査、私、定期的にやっているんです。
 高度であるばかりではないんですよ。
 結構な額も請求もされるんです。

 で、この亡くなった女性、放射線医師の報告書では、腎臓がんの可能性ありという記載があったのですが、担当医師はそれを見落としたというのです。
 そして、腎臓に小さくできたがんは次第にその女性の体を蝕み、手のつけられない状況に陥り、手遅れとなってしまったというのです。

 この画像診断報告書の見落としというのは、日本医療機能評価機構による調査だと、最新のもので二年間で三十二件もあったというのです。
 高い金額を支払わされて検査をし、造影剤なるものを注射されて、体が拒否反応に耐えながらやった検査が有効に使われないなんて、怒りさえも感じた記事であったのです。

 今、日本の医療技術では、ファーストステージのレベルで発見されたがんはほぼ完治するといいます。
 もはや、がんは不治の病ではなくなったのです。
 にも関わらず、医師の見落としで命をなくすなんて、やり切れません。

 私も先日、下垂体腺腫でMRI検査、腎臓がんでCT検査を、しかも、両方とも造影剤を入れて、大枚はたいて、検査をしてきたところです。

 腎臓がんの検査は、三年目に入りました。
 五年は経過観察をしなくてはならないのです。

 主治医の先生が、私を診察室に呼び、私の体の断面図をゆっくりと動かしてくれます。
 胃から始まって、腎臓へと、すると、御覧なさい、ここに影がないでしょう、あなた、腎臓とったからねと言います。
 そして、腸、膀胱と次第に下がっていくのです。
 綺麗なものんですと今度は言います。
 どこにも転移がありません。

 ここを読んでください。
 これは画像診断医のコメントですと先生、私に、手にしたボールペンで画面を指します。
 確かに、がんの転移は認められないと記載がありました。
 その時、こんなにわかりやすいところに書いてあるのに、見逃す医師がいるんだと改めて思ったのです。

 あの手術から三年目の私は、今、医師の言葉をいただいて、また、少し、命の時間をいただいたような気がしたのです。
 
 平気な顔をしていても、やはり、検査結果というのは気になるものです。
 私の主治医があなたもいいとしになったのだから、肺の検査はしておきましょうと、検査を勧められ、肺は元気でしたが、腎臓にがんがあると言われた時は、ちょっと、ショックでした。

 だって、そう言われて、ペン先で示された私の体の画像は、本当にまるで「シミ」のようなものだったからです。
 
 最初、医師は、私をからかっているのではないかと思ったくらいなんです。
 本当に、これが「がん」なのか。
 面白半分に、そう、若い医師の訓練のために、二つある腎臓の一つを切除する試験台にされているんじゃなかって、真剣に考えたくらいなんです。
 
 しかし、今の時代に、そんな大それたことをする病院があるわけはないし、親からいただいたこの体の一部を切り取るなんて、世の中には思いもしないことが、実際起こるものなんだと観念をしたのでした。

 私のCT画像を説明してくれた先生が言うんです。

 今ね、犬が患者さんの尿の匂いを嗅いで、その患者さんにがんがあるかどうかがわかるんですよ。これが本当の「犬の検査、つまり、犬査」ですよと。
 キョトンとしていると、麻薬犬がいるんだから、「がん犬」と言うのいてもおかしくないですよね。犬は、患者の心も慰めてくれますからね。これは、「慰め犬」とでもいうんですかねと。

 次回は、半年後に行いましょう。
 私、まだ、転移する可能性があるんですかと、半年後を提案する医師に、真顔で問うたのです。
 ないとは言えません。
 これまでくだらない洒落を連発していた医師も真顔になって言いました。

 ま、しょうがない。
 これも、縁と考えて、二つの身体に宿った腫瘍と対峙して行くしかないと思ったのでした。





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耀(かがよ)う海

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木立の向こうに見える明るい芝生のグラウンド。この構図、何か素晴らしいものがそこにあるという構図だと思っているんです。例えば、オックスフォードでは、赤色を帯びた石の建物の、その豪勢な門の向こうに見える芝の庭のように、学生の心を勇気付ける、あれと同じなのです。今日は「大暑」。暑さにも限りがあると、「立秋」のみどり鮮やかな気持ちいの良い天候も同じなのだと。だから、私はこの緑は、素晴らしい季節の到来を予感させるものだといつも思っているのです。



 大久野島に行くために忠海港で船待ちをしていた時です。

 目の前にいくつもの島影を見ることができました。
 地図の上では、大崎上島とか、大三島とかあるのですが、目に映る島影では、どれも同じに見えて、どうも判然としないのです。
 私の生まれ育った関東では、あの大海原の白波たつ向こうに見えるのが大島だ、初島だとわかるのですが、この瀬戸内の光景はそうではないのです。

 人は、きっと、育った環境の中で、ある種の光景を、あたかもその人にとっての絶対的な心象風景であるかのように育むのだと実感をしたことがあるのです。

 若い時分、冬に、北陸を旅したことがあります。
 その半年前、夏の北陸で、下駄を鳴らしながら歩いたときの、あの随分と色輝き、しかも、暑くて辟易したことが記憶にあったからなのでしょうが、冬の北陸のあの日本海の無愛想な趣には驚かされたのです。

 灰色の海。
 寄せる波が白い泡となって、その泡が冷たい風で頼りなく吹かれているのです。

 これは私の持っている海ではないと、その時、私は思ったのです。

 もちろん、瀬戸内の穏やかな、いや、まるで鏡のように眩しく光っていた海も、私にとってはそれは私の持っている海ではないと思ったのでした。

 私の中の海というのは、それは九十九里の海なのです。

 小学校の六年間、毎年、夏休みが始まるとすぐに、九十九里のちょうど真ん中にあたりにある街で、八月のお盆まで過ごしていたのです。父の田舎がそこにあり、私よりちょっと上の子たちと野球をやり、海で泳ぎ、川で魚を取り、煮干の仕事を遊び半分で手伝っていたのです。

 ですから、私にとって、海は、左右に広々ときめの細かい白砂がとこまでも続き、目の前には大きな波が音を立てて押し寄せ砕け散る、そんな海だったのです。
 水平線は濃紺の色合いを淡い空と接し、さらにその上には入道雲がこれでもかと空を圧しているそんな海だったのです。

 その海を眺めながら、この海のはるかかなたにアメリカという国があるんだ。
 いつの日か、私はそこにいけるだろうかとおぼろげに思っていた記憶があります。
 アメリカに行くために、こうしようとか、そのために、ああしようとか、そんな偉人のような考えも行動もありませんでした。
 そうではなくて、単に、憧れとして、あの素晴らしい国に行ってみたいというごくごく普通の思いで、海を眺めていたのです。

 残念ながら、北陸の海では、あの海の彼方にある得体の知れない国には、一抹の思いも至りませんでした。
 忠海の島の影の間を縫うようにある海でも、きっと、子供の頃、思っていたような、アメリカに行きたいなんて思いは起きなかったに違いないと思ったのです。

 だから、その後、アメリカもヨーロッパも、アジア各地も訪問する機会を得たことは、きっと、あの九十九里でのさりげない思いが多少とも作用しているのではないかと思っているのです。

 世界各地に行って、この海は素晴らしいなと思う光景はあの九十九里と同じ光景なのです。
 
 何よりも、ゴールドコーストの海は、あたかも、九十九里の海かとも見まごうほどの海の形なのです。
 白い細かい砂、左右に広がる浜辺、目の前にあるのはひたすら海、そして、大空です。

 もちろん、北陸や忠海の海を見て育った方を、私は愚弄しているわけではありません。
 きっと、そこの海を見て育った方には、別の形での思いが、海によって作られているに違いないと思っているのです。

 そうそう、ゴールドコーストの海岸で、ノートを広げて、鉛筆を持って何やら勉強している少年たちを見たことがあります。
 砂浜にノートを置いて、書きにくいだろうに、それでも、二人でああだこうだといいながら勉強しているのです。
 そんな光景を遠目に見ていて、私の中にある一つの記憶が蘇ってきました。

 皆が庄ちゃんと読んでいる子と九十九里の浜で、あの炎天下で、幾分湿った砂の上で、ノートを広げて、知っている漢字を、しりとり遊びのようにして書いていたあの時のことを。

 庄ちゃんは、私たちの仲間でしたが、とても頭が良く、そのことで、仲間から一目おかれていたのです。
 私より、五歳ほど上だったと思いますが、それでも、私が漢字をよく知っているというので、しりとりで漢字の競い合いをしたのです。
 年長の庄ちゃんが最後には勝つのですが、それでも、私も良く頑張りました。

 朝ごはんを食べると、勉強道具を持って、道向こうにある庄ちゃんの家に行って、道路に面した蔵の二階で、宿題をやり、それから海に行って、そこで漢字しりとりをしていたのです。
 
 勉強は大切だよ。
 だって、勉強すれば、道が開けるじゃないか。
 やりたいことがなんでもできるようにしてくれるから勉強は大切なんだ。

 そんなことをよく言っていました。
 庄ちゃんは地元の農業高校を出て、農家である家の跡取りになっていきました。
 
 私が、アメリカやその他の国にいけたのは、庄ちゃんの勉強は大切だというあの言葉があったからも知れないと、ゴールドコーストの浜でノートを広げている二人の少年を見た時、私は、そう思ったのです。

 やはり、九十九里は、私にとって、耀う海だったんだと。





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たましいの声

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家路を急ぐ車が信号で足止め。空の向こうでは、雷が遠くに光ります。光は美しいものです。それがたとえ大きな音を立てて、人をおどかそうとも。そんな光景をバルコニーから眺める夜でした。


 中国では、セミは「知了、知了」って鳴きます。

 中国語の発音では、<Zhi Liao, Zhi Liao>って発音しますから、きっと、アブラゼミのジッジッジッと鳴きはじめ、次第に勢いをつけ、一気に「ジジジジジジジ~」と続き、終わりの方は「ジ…ジ…ジ…ジ…ジ…」と尻すぼみ鳴く、あの音を表現しているのだと思っているのです。

 決して、「おいらはなんでも承知の助よ」なんて意味ではなく、音の似た漢字を使っているだけなのです。

 学校が夏休みに入る頃、ミンミンゼミが鳴き出します。
 カバンには通知書が入っています。
 それを親に見せ、よくやったろうと自慢するのです。その楽しみを胸に秘めて、ミンミンゼミの鳴き声を聞きながら、あぜ道をたどって家路を急ぎました。

 何より、学校に行かずに、家で好きなことができる四十日の自由時間がこれから始まるのです。胸をときめかすのは当たり前です。
 蝉時雨という言葉がありますが、その言葉の通りに、ミンミンゼミの鳴き声がこれでもかこれでもかと降ってきたものです。

 夏が時を刻んでいくにつれて、鳴き声はアブラゼミのあの強烈な鳴き声に変わり、終わる頃には、法師蝉が辺りを圧倒してくるのです。

 法師蝉とは、ツクツクボウシのことです。
 「オーシンツクツク」と、おい、自由時間が終わっちゃうぞ、終わっちゃうぞとせっつくように鳴きます。
 それを聞くとなんだか切なくなるのです。
 おいらの自由な時間も後わずかだと思うからです。

 だから、私は、昔から、ミンミンゼミの降るような鳴き声が好きだったんです。
 そこには、未来があるような気がしていたからです。

 先だって、まだ、日中の38度という高温の余熱が残るバルコニーに出て、水をすっかり切らし、葉をだらんと下げた朝顔の鉢に水を注ぎ込んでいる時でした。
 道路の向こうにある研究所の林から、「カナカナ」と音がしてきたのです。

 あれ、ひぐらしの声だ。
 これって、今頃、鳴くのかな、もう少し秋めいてからではなかったかしら、とちょっと不思議に思ったのです。
 
 でも、確かにひぐらしです。
 薄明の日の出、日の入りの頃合い、気温が幾分下がった頃に鳴くひぐらしに間違いありません。「日を暮れさせる」からひぐらしの名前が与えられたというセミです。

 しかし、それにしても、何故、そんなに寂しい、切ない声で鳴くのかと、水を出しっぱなしにして、バルコニーから道向こうの林をうかがってしまったのです。

 そして、あの『伊勢物語』の一節が出てきたのです。
 
 巻のいくつだったかは忘れましたが、こんな話です。

 それなりの身分ある人の娘がおりました。
 大事に育てられたその娘が、ある男に思いを寄せて、親しく語らいたいと思っていました。しかし、女からその思いを口には出せずにいました。そのうち、思いが高じて病気にかかり、命の危険にまでいたりました。そして、こんなに死ぬぐらい、あの人のことを思っていたけれど、もういけませんと言うのです。親はそれを聞きつけて、その男に娘のことを知らせました。
 男は、すぐに娘の家にやって来ましたが、娘は死んでしまったのです。

 そんな話です。
 そして、男が二首の歌を読みます。
 
 飛びゆく蛍よ、雲の上まで行くのだったら、秋の風に乗って、
  この娘の魂をつれてきてと雁に告げてほしい

 容易に暮れない夏の日の夕暮れ、ひぐらしの声を聞きながら、
   もの思いにふけっていると、何ということもなく悲しいのです

 きっと、この話が私にひぐらしの声が寂しげなものであることを決定づけているに違いないと思っているのです。

 でも、この男、何故、女の気持ちを察してやれなかったのだろうか。
 そして、思いを心に留めて、男への思いを募らせる女のありようは、まるで、ひぐらしが林の中で、夕暮れ時に、「かなかなシィ」と鳴いているように思えてならないのです。
 
 その日、私は、バルコニーのランプに火を灯して、しばらく時を過ごしたのでした。
 まるで、男に代わって、女の弔いをするかのように。





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プロフィール

nkgwhiro

Author:nkgwhiro
ご訪問
ありがとうございます

《8 / 18 💦 Sunday 》
 
🦅 昨日、<カクヨム>にて『まぼろしのフランクフルト中央駅』を発信しました。

 縦横無尽に 

 意識の中を駆け巡るのは 
 人の持つ感性なるもの



この世に、二つの世界があり。
それは、現実世界と仮想世界。

かつては、そんなバカなと思える仮想の世界が、詩になり、絵になり、物語になって、現実世界で堪能されていました。
今、 AIがその仮想世界を現実世界に組み込み、私たちはその境目さえも不明の中で、仮想世界で遊ぶことができるのです。

なんともややこしい時代になったものです。

しかし、仮想の世界、昔から、人間の中にある何かのスイッチに刺激を与えてきました。
想像というスイッチ、さらに進んで、創造というスイッチにも、時には、幻想に、あるいは空想のスイッチとなり、私たちを楽しませてくれたりもしているのです。

フランクフルトの革ジャン男も、我が庭の山法師の木も、そして、日本語の二人称も、すべて、私にとって、現実世界と仮想世界を行き来する契機となったものたちなのです。

下のリンク欄、一番上の<カクヨム>をクリックしてください。


【nkgwhiroの活動】

💝 <Twitter>で、『ものかき』として、朝と晩『つくばの街であれこれ』と題して、つぶやいています。 

                                            💝 <Amazon・Kindle>で書籍の販売を行なっています。 ただいま、『一日千秋ーある日ちあきと』を販売しています。値段は3ドル換算日本円になります。
 

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