恥ずべきこととは何か

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つくばの農家の庭先、畑の片隅に植えられている渋柿、ゆえに、取られることもなく、鳥についばままれることもなく、やがて、朽ち果てて行きます。そう思うと、なんだか、寂しげに見えますが、色の少なくなった冬を鮮やかに彩ってくれたのですから、ありがとうと言いたいのです。


 先日、とある企業の社長さんが悔しそうな面持ちで、会社がやっちまった不手際を謝罪し、同時に、その責任をとって辞することを述べ、深々と頭を下げていました。

 確かに、会社に不手際があれば、最高責任者である社長がその責を追わねばならないのことは自明の理です。誰がなんと言おうと、それは仕方のないことなのです。

 官民ともども、今の日本においては、幾人、社長がいても、あるいは大臣、次官がいても、まかないきれないくらいの不祥事が起こっているのではないでしょうか。
 あの慎重な自衛隊であっても、事故が立て続けに起きています。

 どこかに、何か根本的なミステイク、いい加減さ、たるみゆるみなるものがあるとしか思えません。

 「箍が緩む」という言葉がありますが、そのタガを締め直すことが必要だと思います。
 私のように気ままにものを書いて、生活をしている人間でも、自分に降りかかるかもしれない、そのタガの緩みとは何かを考える時があります。

 いくつか思い浮かぶことを列挙します。
 嘘八百を並べ立てていないか。
 わかってもいないのに、わかったふりして偉そうに書いてはいないか。
 相手を意識せずに誹謗中傷してしていないか。
 
 元教師としては、誹謗中傷だけは避けたいと思っています。
 それまで、御託を並べてきた先生が、ネットでは汚い言葉を使って、意見の異なる人に悪態をついているでは、かつての教え子たちに顔向けができません。
 だから、言葉を選び、批判のレベルを越えないように留意しているのです。

 これは結構丹念に行わなければなりません。
 自分の中で、これは誹謗中傷ではないと判断していても、捉える人にとっては誹謗中傷になりうるからです。 
 かといって、それを恐れるばかりに、手頃な言葉を使って濁すようなことも、ものを書くものにとっては何ら面白いものではありませんから、その辺りの兼ね合いというものがなんとも難しいと思っているのです。

 わかってもいないことを偉そうに書く、これはタガの有り様を考える上で、私にはありえないことと胸を張って言えることでであると思っています。
 第一、そうまでして偉そうに振る舞うほど、私は自信家ではありません。
 私が自信家であれば、きっと、私は教師などにならずに、もっと激しい現場で競いあう人生を選んでいたと思います。

 しかし、そうは言っても、偉そうかそうでないかは、これも相手が判断することですし、はなから敵対してやろうとする人からすれば、絡んでくる絶好の相手でもあると思うのです。
 ですから、これも、慎重にして行く必要があります。

 基本は、データを確実に得て、そこから出来事を推測敷衍して考察することです。そうすることで、突拍子もない暴論を抑えることができます。
 そうすれば、不明を恥じることもなくなります。
 しかし、偉そうにはなるまいと慎重にしすぎることで、書いたものにキレがなくなるのでは元も子もありませんから、これも兼ね合いが難しいところです。

 嘘八百と書きましたが、嘘というのはなかなかに味わいのあるものです。

 この世の物語、小説の類は、多かれ少なかれ、「嘘」という調味料が加えられていい味付けになります。
 嘘というものを使って、相手をたぶらかし、相手を不利な状況に追い込むのであれば、それは調味料ではなく毒薬になります。

 そういう考察で言えば、「嘘」は話を面白くするために使うものであり、特定の人や事をたぶらかすために使用することはよくないということになります。

 もちろん、嘘はついていい時とそうでない時があります。
 嘘も方便という言葉がありますから、昔からそうであると思っているのです。
 義経は実は死んでいないという空想は勝手ですが、それを物語にしても、真実味がありません。
 義経は、弁慶に守られ、命を失うことで、私たちの中に生きているというのがすでに物語としてあるからです。

 そんな話ならまだしも、ありもしなかったことをあったとあった、そればかりではなく粉飾して騙ることがまかり通っています。
 国が国を誹謗することはあってはならないことです。
 二十一世紀となったいまも、この手のまやかしが通用することにも驚きます。
 これもまた、広い意味で、兼ね合いの難しいところであります。

 そういった兼ね合いの難しさを克服するのが、私、「教養」だと思っているのです。

 「教養」を得るために、私たちは書物を読み、芸術を鑑賞するのです。
 若い時分、マルクスだとか、エンゲルスが書いたものがよくわからなくても、書籍を手にして、ページをめくっていた時があります。
 わからないんだから、ページをめくること自体が無駄だとは思いませんでした。
 そこに、理想の社会が描かれているなら、それを掴み取ってやろうと思う気概があったのです。

 もちろん、私の世代の人間がすべてそうだとは言いません。
 でも、「教養」のないことは恥ずべきことであるという観念は強く持っていたのではないかと思っているのです。

 ですから、私たちの下の世代である親御さんたちが、学校にクレームをつけてくるときに、そうですか、これはすみませんでしたと低姿勢でいればいいものを、そんな言い分はおかしいことだろうとこちらの言い分も伝え、それがかえって問題をこじらせてしまうということも、私は経験しているのです。

 言えば言っただけ得をするという打算が、その保護者に見えていれば、私は反対に戦いを挑んでいきました。

 私が、培ってきた「教養」なるものが、それを許さなかったからです。
 相手が出るところに出ると言えば、そうしてくださいとしゃあしゃあと言ったこともあります。
 それも「教養」がなせる技であったと思っているのです。

 モンスターと呼ばれる人たちは、必ずと言っていいほど「正論」を並べ立てます。
 「教養」がないと、その「正論」に負かされてしまうのです。

 「正論」は誰が見ても、それが正しいとする論理です。しかし、世の中にはそればかりでは通じない何かがあるのです。
 それを掴んで、相手に対さないとこちらの負けになります。
 もっとも、問題を放置し、棚ざらしにし、挙句に隠しまくるというのでは話になりません。

 それこそ正々堂々対した上で、「正論」では通じない特殊な事情、状況、心理を語らなくてはいけないのです。




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