二十年目の実物

友達というのは、幼子であればあるほど、大切なものです。喧嘩をするのも、こうして頰を寄せて慈しむのも、幼子の世界にこそ人間の本質的な感情があるのです。大人はとっくにそんなこと忘れてしまっていますけれど……。
「宗助の淋しみは単なる散歩か観工場縦覧位なところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉されるのである。」
漱石先生の小説『門』の主人公、宗助は友人の妻と不倫の末結ばれ、現在は早稲田で借家生活の身分です。その宗助の慰みが早稲田界隈の散歩、あるいは神田小川町あたりの<観工場>の<縦覧>だというのです。
漱石先生らしくいつものように当て字で、<観工場>などと書いていますが、実際は<勧工場(かんこうば)>が正しい表記で、<縦覧>とは、ぶらぶら歩くという程度の意味です。
で、私、漱石先生の本を読むたびに、この<勧工場>なるものが理解できなくて困ったことがあったのです。
『倫敦消息』には、「指で人をさすなんかは失礼の骨頂だ。 習慣がこうであるのにさすが倫敦は世界の勧工場だから余り珍しそうに外国人を玩弄しない」などとあります。
こんな風に書かれると、ますます、<勧工場>とは、一体全体、なんなのかと思ってしまうのです。
そのほか、多くの作品に<勧工場>が出てくるのですが、状況から判断すると、このようなことが言えそうです。
所在なくほっつき歩く際に立ち寄るような場所、いまで言えば、大型ショッピングモールのような場所です。
日曜などでかけますと、モール内の広場のベンチで、空調の効いた清々しさの中でくつろぐご老人がいたり、子どもづれでコーナーに設置された遊戯施設で遊ぶ家族づれがいますが、そのようなものだと推測ができるのです。
ものの本によりますと、第一回勧業博覧会というのが1877年に上野公園で開催され、全国から多くの物品が出品されて、即売されました。
その際、出品された品物の評判も、また、勧業博覧会ですから、利益優先ではなく、結構安く物品が提供されて、そのおかげもあり、売れ行きもよかったということで、その後、東京や大阪の大都市でこの手の「勧工場」が随分と開催されたというのです。
漱石先生が盛んに小説に描くほどですから、よほど人気があったのでしょう。
東京人は、暇さえあれば、ちょっと<勧工場>へ冷やかして行ってこようなどと思っていたに違いないのです。
ロンドンにあったという漱石先生がいう<勧工場>などは、その当時存在していかどうかは確認はできていないのですが、私がロンドンに行くと必ず立ち寄る<コベントガーデン>のようなマーケットを言っているのかもしれないとも思っているのです。
日本語には<百貨店>なる言葉があります。
今の若い人たちにとっては、この言葉、きっと珍妙なる言葉に聞こえているかもしれません。
だって、彼らはそのような店を、「モール」とか「S C」とか、「デパート」と言いますからね。
あと、二十年もすれば、<百貨店>も、私が困惑した<勧工場>と同じ運命をたどるのではないかと推測しているのです。
平安の文学を読んでいますと、「火熨斗」なるものが出てきます。これ「ひのし」と読みます。
でも、これなどは『古語辞典』なるものに、絵付きで説明がちゃんと出ています。
銅でできていて、そこに熱した炭を入れ、十二単などの衣服を熨す器具、冬など寝具を温める為にも使ったとありますから、今でいうアイロンであり、湯たんぽであったということです。
貴族が使うものであり、京の町衆や坂東の田舎ではとんと見かけない代物であったに違いありません。
なぜなら、庶民は衣服を熨すなどする必要がなかったからです。
柳田國男の『木綿以前のこと』などを読みますと、一般的な日本人が木綿の着物を着るようになるのは江戸時代の中頃だと言います。それ以前は、麻など、樹木の繊維で織った着物を着ていたというのです。
洗濯をする時は、洗濯棒でしこたま打って、汚れを落とし、しわを伸ばしたと言います。
ちなみに、その洗濯棒を「砧(きぬた)」と言います。
聞くところの話によると、戦前に、電気で作動するアイロンが日本で作られたそうですが、当時の日本の家屋には、今では当たり前にあるコンセントがなかったのです。
ですから、当然のごとく、作られた電気アイロンは売れることがなかったと言います。
中国文学を勉強していた時、随分と中国独特の言葉には苦しめられました。
辞書には出ているのですが、何しろ、イメージが出てこないのです。文化の異なるさまも、その理解への促進を阻みました。
そのひとつが、老舎の作品『駱駝祥子』などに出てきた<冰糖葫芦(ビンタンフール)>というものです。
漢字の字面から判断できるのは、<冰糖>から、冷たい砂糖菓子のようなもの。問題は<葫芦>です。辞書では、これは「ひょうたん」であると出ているのです。
こうなると、もう、頭の中はさっぱりです。
イメージのイも湧かないのです。
今のように、ネットで調べられるわけでもなく、かと言って、中国にそうそう簡単にいける政治情勢でもなく、そんなことを先生に聞くのも失礼ではないかと考えたり、散々でした。
結局、30センチほどの竹串に、一口大の果実を9個ほど刺し(この形がきっとひょうたんなんでしょうが、それにしても幾つひょうたんがあるのでしょうか)、そこに水飴でおおったお菓子だとわかり、日本でいう、りんご飴ではないかと落ち着くまでに、随分と時間がかかってしまったのです。
プライベートで蘇州と上海を旅行したことがあります。
豫園での散策の折、ちょっとした出店があり、そこにあの<冰糖葫芦>が幾本も店先の藁で編まれたカゴに刺されて売られていました。
言葉を知って、実物に会うまでに、なんと二十年以上もかかったのです。
もちろん、一本それを買いました。
冰糖葫芦を手にして、豫園あたりを歩く心地の良さはいうまでもありませんでした。


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