死にゆくものたちが心に覆い被さってくる

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テッセンという植物は、冬の間、枯れたのかなと思われるその硬い茎に、春になると、葉をつけ、さらに伸びて、花芽をつけます。強い植物です。今年も、この紫の花がきっとたくさん見られるでしょう。楽しみにしています。



 宗教には関心を持ちつつも、私は、ある程度の距離を保っています。

 きっと、自己判断ではなく、何か得体の知れない、偉大なるものの教示によって、動くことに反発してるのだと思うのです。
 だからと言って、まったく無宗教の環境に自分をおいているかといえばそうではないのです。
 宗教的な遺跡、そこまでいかなくても、寺社の佇まいに崇高さと畏敬の念を感じることもできるのですから、きっと、何か得体の知れない、偉大なるものに対しての崇敬の念は持っているのだと思います。

 これは、私だけの、きっと感覚ではないと思います。
 多くの日本人が持つ、一種独特の宗教観念であるかと思います。

 私たち日本人の精神の根底に、ただ一つの得体の知れない、偉大なるものがあるのではなく、数多くの得体の知れない、偉大なるものが宿っているからかもしれません。

 そんなことを思いながら、実は、二つの出来事が覆い被さるようにして、私の胸中に押し寄せてきているのです。

 一つは、百歳を超えたオーストラリア人男性のことです。
 長寿を後悔し、安楽死をするためにスイスに旅だったというのです。

 「私は決して幸せではない。だから、死にたいと思うのだ。それは、とりたてて悲しいことではないし、反対に、悲しいのは、自らの死を妨げられることだ」と、出発に際して、地元の放送局のインタビューに答えていました。

 安楽死支持団体の看護婦に伴われて出発するこの男性の写真を見て見ますと、血色も良く、車椅子の世話になっている様子もありません。紺色のシャツに黒いリュックを背負い、カメラに向かって微笑んでいます。
 明らかに、現在の健康状態が悪化しているようには見えません。

 しかし、この男性は言うのです。

 「百四歳になって、私の身体の機能は悪化しつつある。それに伴い生活の質も芳しいものとはいえなくなる。つまり、私のこれから先の人生は不幸になることは確かなのだ」と。

 安楽死とは、医師の処置で、体内に薬物を注入し、苦しむことなく死に至るというものです。
 
 私が腎臓の一つを切除するとき、背骨の髄に冷たい液体を注入され、その瞬間だけは覚えているものの、それ以後のことはすっかり覚えていない、あの全身麻酔のようなものなのでしょう。

 全身麻酔は程なく覚めますが、安楽死の場合は、覚めることがないのです。

 私は、いまひとりの男性のことも気がかりになっています。
 ニュースでその名をよく耳にしたことのあるアメリカの政治家マケインという方です。
 しばらく、その姿がニュースに出ていなかったと思ったら、悪性脳腫瘍で闘病生活をしているというのです。そのマケインがなんでニュースになっているかと言いますと、自分の葬儀にはトランプを呼ばないと宣言しているからなのです。

 葬儀での弔辞の依頼は、元大統領のブッシュとオバマに依頼をし、副大統領のペンスを招待する予定であるとニュースは告げているのです。

 でも、私が関心を払うのは、毒々しい政治的人間関係の有り様ではなく、自らの死を予知し、その際の儀式の有り様を意図するその姿勢が、私には理解を超えるものとしてあるです。

 トルストイの『戦争と平和』という小説を読んだ時、主人公の一人アンドレイの父親が死を悟り、ロシア正教の僧たちを自室に招き、香炉を焚いて祈りを捧げさせる場面が出てきた時も、私には理解し難かったことを思い出します。

 自らの死を受け止め、粛々として、それを待つ心の有り様がわからなかったのです。

 唯一神を心に抱く彼らは、その神の御許に行くことを幸いと思うのでしょう。
 自分を守ってくれたキリスト、自分の生き方に指図をしてくれたキリスト、こうして死を粛々として受け止めることのできるようにしてくれたキリストの元にいけることは願ってもないことなのです。

 だから、安楽死を受け入れ、自らの葬儀の段取りにまで好悪のわがままを述べることが可能なのだと考えるのです。

 安楽死は、自然のなかにこそものの本質があると考える私たち日本人には、どうも受け入れがたいものであると思うのです。
 私たちは、この世に生を受け、そして、命を終えるのです。
 それは自然の営みとして認識されているのです。

 死に際しては、すべてを水に流し、恨みつらみも忘れ、往生しなくては極楽にはいけないと、私たちは思っているはずです。心に、恨みや嫉妬、憎しみや怨念があれば、人は人ではなく化け物となって、この世に未練がましくさまようことになるのだと思っているはずです。

 だから、この二つの死にいくものたちの出来事が覆い被さるようにして、私の胸中に押し寄せてきているのです。




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たいしたことではないのですが、その出会いや言葉が、生涯を左右する生き方に反映されていることに気がつくのです。
そして、自らの、他者に影響されない、あるいは、政治的に作用されない、自分だけの風を見出すことにつながっていくことにも気づくのです。
我は我、我が人生は、我が内に吹く風によって決するのであって、流される風に左右はされないという域に達するのです。>

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