落ちた椿の花

3490oyhfn,dhbbtiyuknau8
よく行く寺の門の隅です。この日は、朝日が差し込み、美しさを殊の外増していました。たわいもない、恐らくは誰も、こんなところに目を向けまいというところが、朝日で脚光を浴びているのです。世の中には、そうした作品がたくさんあるのです。ネットといういまのツールがそれに光を当てていると思っているのです。朝、朝日を浴びる門の隅を見て、そんなことを思ったのです。


 黒澤明監督の映画『椿三十郎』
 一介の素浪人が、立派な部屋に通されて、家老の奥方から、名を問われます。
 すると、素浪人、庭をみて、白と赤の椿の花が咲き誇っているのを目にして言います。

 「椿三十郎。いや、もう四十郎かな。」

 なんとも洒落たセリフです。
 仕官できないのではなく、仕官をしない、自由人であることを標榜する素浪人が、それでも、自分の年齢がもたらす哀愁を的確に言い当てている。

 これは、日本映画史に残る卓越したセリフの一つであると、そう思っているのです。
 
 我が宅の周囲にある大手企業の研究所、その垣根にヤブツバキが植えられています。
 その椿の花、二月頃から咲き始めます。
 
 木へんに春と書いて、「椿」、まさに春を告げる花ではあります。

 あの寒い時期に、花を咲かせるのですから、花好きにとっては嬉しい限りではあります。
 その垣根のそばを歩くときなど、みごな花が群生するのを見つけると、思わず、iPhoneを取り出して、パチリと写真を取ってしまうのです。

 いつだったか、町内会の方々と恒例の朝清掃に興じているときに、道端で、山茶花と椿って、どうやって見分けるんだという話になりました。
 いつでも、どこでも、物知りというものはいるもので、おしゃべりで有名な、某研究所で土木検査の仕事をしている男性が、そりゃ簡単ですよ、葉っぱをみれば一目瞭然、椿は照りがあり、山茶花は照りがない、ただそれだけです。

 目の前にあるヤブツバキの葉を皆でじっくりと鑑賞します。 
 なるほど、この葉の照りが椿なのだと、同じような姿勢をして、うなづくのです。
 その中の一人が、山茶花がここにあれば、比べられてたのに、残念ですねと言います。

 で、その話は糸の切れた凧のように、遥か彼方へ流れていってしまったのです。

 四月になって、筑波大学病院に脳の検査のために出かけました。
 小一時間も歩けば、我が宅に帰り着きますから、帰りは、のんびりと歩いて、いつも帰ります。その道筋に、私は椿の木があるのを見つけたのです。
 
 地べたや木々の枯れ枝が敷かれたところどころに花が首から折れて落ちていました。

 椿の花は花くびから落ちるが、山茶花の花は花びらとして落ちると、亡くなった父が言っていたのを、前触れもなく、その現場にあって、思い出したのです。

 ちょっと、不思議な感覚でした。
 まるで、父がそばにいて、私の背後から言った、そんな感覚であったのです。

 椿は首から落ちるから、江戸の昔、椿という花は武士からは嫌われたんだ。
 でも、首から落ちるには椿なりの事情があるんだ。
 椿というのは、鳥に花粉を運んでもらう「鳥媒花」なんだ。
 だから、鳥につつかれても花びらが落ちないように、花びらが根元でしっかりとくっついている。

 そんなことを、私は覚えていたのです。

 北部工業団地の公園、ここにはワンちゃんを連れてよく出かけます。
 人も少ないし、ワンちゃんを放して遊ばせるのには都合がいいのです。
 その北部工業団地には山茶花がたくさん植わっています。
 冬の寒い日、山茶花の木の下は、花びらが落ちて、あたり一面濃いピンクに覆われ、それはそれは綺麗なのです。

 ところが、筑波大学のここは花がそのまま、あちらこちらに落ちています。
 だから、これは椿だ。
 武士たちが嫌った椿だと私は、確信的に思って、ニッコリとするのです。
 
 京の寺では、落ちた椿の花をしばらくは吐き取らずに、そのままにしておくと聞いたことがありました。
 苔の緑に、まだ生き生きとした色彩を放つ椿の花を拾って捨てるなど無粋なことをしてはいけまへんということなのだそうです。
 椿の花が、苔の緑の上で、次第に朽ちて、茶色になって行くのを見るのが、京の風情なんやというのです。

 頼朝に政権を奪われて以降、明治維新まで、いや、維新後は天皇さまも東京にやってきてしまいましたから、この椿に対する京の寺の仕打ちは、きっと、その恨みつらみが講じてのことではないかと勘ぐりたくもなるのです。

 今、筑波大学の構内は、京の寺のように手入れの行き届いた苔の深い緑などありません。
 冬の間、風で吹きちぎられ、雪の重さで折れた枝が折れ重なり、それが何年も繰り返されて、黒くなったところに鮮やかな色をたたえて落ちています。
 京の椿の雅さはありまへんけれど、侘びた中に寂れた美しさはあっぺよと、そんなことを言っているように聞こえるのです。

 そんなことを考えると、あの椿三十郎、いや、もうすぐ、四十郎のあの素浪人、年齢がもたらす哀愁ばかりではなく、人生の侘び寂びさえもその酔狂な名に託していたのではないかと思うのです。




スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

素晴らしいコメントですね

あまり考えてはいないんです。
ただ、好きで、気に入っていて、なんです。

No title

シャボン玉は「聖霊」なんですね。三位一体のなかの最も身軽で自在な存在・・・。
プロフィール

nkgwhiro

Author:nkgwhiro
ご訪問
ありがとうございます。

《5/20 🎏 Sunday》

🦅ただいま、<Puboo!>にて、『エイプリルフールの日曜の朝に 』を発信しています。多くのアクセス、ダウンロードをお待ちしています。


❣️<Twitter>では、『ものかき』として、朝と晩『つくばの街であれこれ』の更新情報をつぶやいています。下の[リンク]欄からアクセスができます。よろしくお願いします。

⏬下の[リンク]欄から、歴史小説『一門』『福明と李福』、旅行記『ポーツマスの旅』、また、<水彩画>など、<nkgwhiro>の創作活動にアクセスができます。  

皆様のアクセスを心よりお待ちしております。🙋‍♂️

リンク
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
フリーエリア