現代の<物の怪>

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書斎に朝の陽射しが差し込んできました。とても美しく思いました。何か、人の魂がそこにあるのではないかと錯覚を覚えました。


 いにしえの作品には、文章であっても、絵画であっても、そこには人間の目には見えない「もの」が示されています。

 その時代の人々の、それは空想の産物であると断ずるのも良いのですが、実際、その時代の人々のすぐそばにその「もの」がいたのだと考えてもいいと思っているのです。

 「もの」という言葉の本来の意味は、「人の心」であると聞いたことがあります。
 もの哀しい、もの寂しい、もの忌みなどという言葉を思って、「もの」を「人の心」に置き換えて見るとよくわかります。
 その観点から見れば、『物の怪』とは、「人の心の怪しさ、災いや、時には祟りを引き起こす邪な心のありよう」と見て取ることができるのです。

 光源氏と逢瀬した夕顔は、深夜、とある女性の生霊に襲われます。
 襲ったと言っても、その生霊が夕顔に手を下したとかいうのではないのです。夕顔の前に現れて恨み言を言うだけなのです。
 その恨み言と聞いた夕顔は、気も動転、人事不省に陥り息を引き取るのです。

 光源氏のお子を宿し、無事出産した後亡くなる葵の上もまたこの生霊に惑わされます。
 出産を間近にした頃合い、光はひどい悪阻に悩む葵の上に取り付くその生霊を目にしてしまったのです。

 そして、その生霊こそ、光のかつて愛した女性であったのです。
 生霊とは、死霊よりもたちが悪い魔物です。なにせ、生きたまま怨霊となって出て来るわけですから、その心の闇の深さが思い知られます。
 光の愛したその女性の名を六条御息所と言います。
 美貌に満ちているだけではありません。気品、知性にも満ち溢れた女性です。それため、光にとっては、少々窮屈さを感じた女性であったのです。
 そして、幾分、年上でもありました。

 源氏の減退する想いとは裏腹に、六条御息所の光に対する想いは高揚していきます。

 玉のようなおのこである光を自分一人のものにしたい、しかし、その想いは、彼女の高貴な心、そして、自分はおのこより年上のおなごであるとする引け目、さらには、気品あるおのれの心が傷つくことを恐れるあまり、六条御息所は素直に自分の気持ちを表現し得ません。
 その「心」のありようが、彼女を生霊にさせて、光の愛する女性の命を奪っていったのです。

 なんとも恐ろしい女の執念ではあります。

 先だって、とある村の家々からサンダルがなくなるという事件が夕方のニュースで大き取り上げられました。
 設置されたビデオカメラが狐がサンダルを加えて持って行く様子を捉えて、この件は落着をしました。でも、なんで、狐がサンダルを自分の巣穴に持っていったのかについては確たる説明はされていません。狐は死肉を漁る動物です。あまりの餌不足で人間の履いていたサンダルが死肉の香りがあったのだという見解もありましたが、今ひとつ納得ができません。

 だって、村人たちは生きているのですから、そこから死肉の匂いを醸し出すことは不可能だからです。

 きっと、狐は何かを私たちに知らせているに違いないのです。
 狐は人を化かすと言います。でも、それは人に気づきなさい、早く気づきなさいと何か得体の知れないことが起こることを予知して伝えてくれているのです。
 それが昔の人の狐が人を化かすというモチーフだったのです。
 でも、現代に生きる私たちには、もはや、それを察知する心がありません。
 
 その日の夕刊紙面に、私は三つの同じような記事を読むことになりました。

  一歳児を衰弱死させた両親が起訴されたという記事。
  わずかに三ヶ月のになった次男に暴行を加え殺人未遂で逮捕されたという記事。
  五歳の少女を放置し、遺棄致死の容疑で両親を逮捕したという記事。

 親に愛されることなく、わずかな期間、この世での生を生きたかわいそうなお子たちを思うと、狂おしい気分になり、気が滅入るのです。
 この子たちは、きっと、どこか素晴らしいところで生きて、ほかの誰よりも幸せに、満面の笑みを浮かべて暮らしていると、だから私は思うようにしているのです。

 そして、この親たち、きっと、そのわずか二十数年、三十数年の人生の中で、何かがあったに違いないと思っているのです。

 人間であれば、自分の子にあれほどまでに残酷な仕打ちなどできないはずです。
 それをするのですから、彼らは人間ではないのです。

 鬼であり、妖怪であり、化け物であるのです。
 憎んでも、憎んでも足りない物の怪なのです。

 きっと、いにしえの日本人であれば、この親たちの本性を見抜いていたはずだと思います。

 光源氏のことを再び思い起こします。
 のちに光は准太上天皇となり、六条院という豪壮な住まいを作り、四人の大切な女性をそこに住まわせます。
 春の町には紫の上、夏の町には花散里、秋の町には秋好中宮、冬の町には明石の方といった具合にです。
 そして、秋の町の場所こそ、あの六条御息所の住まいであった場所であり、その御息所の一人娘が秋好中宮なのです。

 母六条御息所はすでに亡くなりましたが、その執念く想いは健在で、今度は死霊として、紫の上に取り付き、光に恨み言述べるのです。
 それでも、光はその六条の住まいを大切にし、一人娘を大切に養育するのです。
 
 我が子にぞんざいな仕打ちをした彼らに、そうした心優しい方が現れ出ることを望むばかりです。




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そして、自らの、他者に影響されない、あるいは、政治的に作用されない、自分だけの風を見出すことにつながっていくことにも気づくのです。
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