ラインから叫び声が

食べられるものを栽培するーこれが夏の農業活動の楽しみです。中でも、バジルはトマトの栽培と相まって大切な作業になります。生で美味しい葉っぱを食べて、ニンニクや松の実を加えてソースも作り置き、結構な経済活動を展開しているのです。今年も見事な香り高い葉っぱがつきました。
ゴールドコーストでは、GOKUという名を持つ孫とよく散歩に出かけました。
ゴールドコースト名物のカナルにいる黒鳥の群れ、それがいる岸辺に行くときは、パンを持って行きます。近所の皆で餌を少しづつ持ち寄って、与えているからです。
ロビーナ・コモンに通じる小道を散策するとき、GOKUはリュックに小さなジュースをいれて出かけます。
暑さが厳しいからです。熱中症にならないよう母親が入れるのです。
その小道に古びた井戸があります。
もう使われていない枯れた井戸です。
GOKUはいつもその井戸を覗き込んで叫びます。
「トトロ」って。
iPadで見た日本のアニメに感動して、この小道にある枯れた井戸のなかに、あの世界を幼児なりに見出しているのだと私は目を細めて眺めているのです。
そんなGOKUもまだ幼子ですから、散歩に疲れるとしゃがみこみます。
抱っこの合図なのです。
でも、私はそれを無視して、探検に行こうと彼を誘います。
「トトロの住処が向こうにもあるかも知れない」って。
すると、トトロに反応したのか、疲れていたことも忘れ、走り出してくるのです。
しかし、何を言ってもしゃがみこんで動かなくなるときがあります。
こうなるともうダメです。
眠たくもなってきたのでしょう。
じっと、しゃがんだままで、地面を見つめています。
私は、抱っこで、家に帰ろうと言うと、すかさず抱きついてきます。
そして、数秒で、私の腕の中で重くなります。
もう、全身の力を抜いて、私の肩に顔を乗せ、よだれを流して寝込むのです。
すれ違うオージーたちに、いつものように挨拶をします。彼らもすっかりと寝込んでいるGOKUを見て、微笑えんでいます。
そんなことを今朝の新聞を見ながら思い出したのです。
また、親によって子供が、死んでしまいました。
何故だろうって、いつも不思議に思うんです。
孫でさえ、自分に似ているのです。
まして、親ならば、その笑顔に、泣き顔に、仕草に、自分の分身を見出すのは容易なはずなのに、その分身を手にかけるのですから。
学校にいるとき、いつも問題が起きるときというのは、教師が教師優先でものごとを図ったときでした。
生徒を第一にしないがために、問題が起きるのです。
例えば、修学旅行なり研修旅行で、教師が旅行気分でゆっくりと食事をしていれば、問題発生を防ぐ絶好の機会を失います。
何か問題を孕んだ子供たちというのは、皆が和気藹々としている場面で、その本当の姿を見せることが多いからです。
食欲のないこと、笑いの中に入り込めないこと、周りの子供たちがその子に、目に見えない一線を引いてしまっていること、などを教師は我優先の中で見逃してしまうのです。
もし、早くに食事を終えるか、自分の食事は後回しにして見回りをしてそうした状況把握に勤めれば、数分後に起きうる問題は払拭されるのです。
だから、私はいつも、先生方に、食事はそこそこに生徒と接するようにと言ってきたのです。言うからには、自分もさっと食べて、できる限り生徒の様子を見るようにしました。
それでも、教師の中には、そこまで生徒を信頼しないのはどうかと反論をしてくるものもいました。教師に、恨まれても、けなされても、生徒第一が私の本分です。
問題が起これば、預けてくれた親御さんに申し訳が立ちません。
だから、私はそう言う教師とは、徹底的に戦ってきたのです。
しかし、家庭に、生徒第一を標榜する教師は入って行くことができません。
問題を誘発する可能性を持つ、問題ある親をあるべき道に導く教育の手はそこにはないのです
そして、そういう親は、あの反論した教師の姿と重なるのです。
自分を第一にして、子供のことを思わない。
むしろ、子供に自立を与えると言う方便を振りかざして、教育活動を放棄する、それと同じことをこの一連の悲しいニュースを見聞きするとき、思ってしまうのです。
だとするならば、そこにおかれた子は、親の子ではなく、教師としての生徒ではなく、もはや、自分勝手をモットーにする親や教師の餌食そのものなのです。
そんな新聞記事を読んで、腹立たしく、情けなく思っていた私のiPhoneが着信を告げるメロディーを発しました。
画面にGOKUの間近に迫った顔と叫び声がしました。
何やら興奮しています。
まさか、娘がGOKUに、と一瞬思いましたが、叫び声は日本に行くことが決まったという連絡でした。
車を買うため、お金が必要だから、今年は行かれないと言っていたのですが、GOKUがどうしても行きたいと飛行機が飛んでいるのを見るために悲しそうなそぶりを見せるのを娘は見ていられなくなったというのです。
安いジェットスターのチケットは手に入れられないけれど、生まれたばかりの子のパスポートを手に入れ、梅雨明けには来るというのです。
いつも、この娘はギリギリでものごとを決断し、綱渡的活動で、行動を起こします。
考えてみれば、それも私と同じなのです。
親の仕打ちで亡くなった子供たちの冥福を祈りながら、私はGOKUの来訪を待ちわびる日々を過ごすことになったのです。


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