πを切り捨てる生き方があってもいい

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早朝、洞峰公園という大きな公園に行った時のことです。ランニングロードを覆うようにある並木の向こうに、野球場の芝が陽の光を浴びて輝いていました。とても清々しい気持ちになりました。


 メジャーでもサッカーでも、ビデオ判定が今や常識となっています。

 選手からすれば、誤審により、スポーツ選手としての生命線が断たれることもあるわけですから、ビデオ判定で白黒をはっきりさせることは極めて大切なことで、そういう意味では、この新しい技術は有効性を持っていると言えます。

 しかし、試合の流れが止まるとか、それなりの訓練を積んだ審判に判定を委ね、それがたとえ誤審であろうが、人間のすることなんだから、それも試合のうちだとする考えもあり、ビデオ判定でそれを覆すというのはいかがなものかという意見もあるのは、これも当然のことです。

 そんなことを考えていると、科学技術の発達で、究極まで、白黒の判定を推し進めていった先には、いったい何があるのだろうかと思うことがしばしばあるのです。

 きっと、私たちの仕事も、コンマいくつまでを求められ、息苦しいことこの上ない状況になるのではないかと気が重くなるのです。
 だからと言って、スピードを競うスポーツで、いい加減で良いというのではもちろんありません。技術がコンマいくつまで判定可能なら、それはその競技にいかさなくてはなりません。

 陸上100mで、9秒台をコンマいくつで判定し、人間の走る力の限界を見極めること。
 競馬では、写真判定で、鼻先の差だとか、鼻の先の毛一本で勝敗が決することも。
 
 スポーツばかりではありません。
 
 あのサイコロのようなリュウグウと名付けられた星に、これから着陸して、その表面を探査するという探査機「はやぶさ2」にあっては、大雑把な計算では到底着陸して探査することは不可能です。
 そこには緻密な計算があって、はじめて、探査が可能なのです。

 そうではなくて、私たちが日々暮らすこの世界で、コンマいくつの計算が必要か、そして、その先に何があるのかという思いなのです。

 いつだったか、マスコミが円周率が「3.14」から「3」になると囃し立てた時がありました。
 そう囃し立てられて、私自身大雑把なのに、そりゃ困るなどと勝手に思っていたものでした。
 さて、いったい、何が困るのかと自問して行くと、うん?と頭を傾げて、自分がマスコミの報道に動かされていることに気がつく始末なのです。

 寺社などに行って、そこにある大太鼓の大きさを問いますと、大抵は、一番太いところで何メートルですと言われることが多いようです。
 あまり、太鼓の皮面からもう一方の皮面までの長さを言って、その大きさを表現することはありません。
 時には直径はいくついくつですと言って来ることもありますが、太鼓の大きさをなんと言っても、その太さにありますから、きっと、一番太い所の、いうならば幹回りを答えるのです。

 幹回り9メートルの大太鼓であれば、それを3で割って、直径は3メートルぐらいだとわかればそれでいい、くらいなものなのです。
 いちいち、3.14で割る人なんていないはずです。
 
 私たちは、実に大雑把に、3.14、すなわちπを端折り、しかし、それでもなんら支障なく生活をしていけるのです。

 はやぶさがリュウグウに着陸したり、コンマいくつで勝負を決したりするのと違って、私たちの日常は、結構、大雑把なものだということです。

 いや、結構厄介なことも、会社で発生する面倒臭い事情でも、それゆえにこそ、私たちは端折ることでそれを切り抜けていることが多々あるものです。
 あれこれと細かいことを言ったらきりがなくなる、だったら、ある程度のところで妥協して、話をまとめようというのです。
 それも、それと分からぬように、あれこれと御託を並べて、そうしているのです。

 でも、これって、大切なことだと思うのです。
 
 ですから、人間である審判が、プレーの最中に、愛すべき彼女との別れ話で虚ろであっても、それはそれで人間的と言えるわけです。
 そんなあやふやな人間に、判断を委ね、ゲームをして行くという、人間が編み出した審判という制度は、完璧ではなくても、黒白をつけるには最も納得のいく方式であると思っているのです。

 それをわかっていれば、きっと、無理難題を押し付けてきたり、独りよがりの主張を声高に言ったりする、あちらこちらに生息するモンスターもいなくなると思っているのです。





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《 11/13 🍁 Tuesday 》
 
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<時の感覚というのは、実に不思議です。
縄文と弥生の人々が共存して、互いに文化を交流させている姿を思うことも、時には争いに発展することも、私は、想像をするのです。
さらには、世代間の違いにも思いをいたしたり、文化を異にする外国の地で、思いにふけったりもするのです。
人間なんて、人類の歴史から見れば、この世で活動する期間などわずかなものにすぎません。
しかし、そのわずかな時間でさえ、永遠に記録に残すことも可能なのです。
今回の作品はそうした意図を反映した作品なのです。>

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