私は案山子

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 今朝
 虫たちのしっとりとした音色で
 目が覚めました

 西の国では
 雨風が戸板を震わし

 空はきっと
 逆巻いていることを思うと
 なんか
 秋の風情を感じて目覚めた
 自分が申し訳ないように思えたのです

 


 夏だねぇ
 そうさ 夏だぁ

 筑波のお山が今日はきれいだんべぇ
 今日はいくらか涼しいけぇ

 そうさなぁ いくらかなぁ
 ……
  そろそろ仕事にかかるべぇか
 ……
 何言ってるだべぇ この人
 わしら 
 仕事しているべぇ

  そおかぁ 
  わすれてたぁ

 わしら案山子だったなぁ

 SNSで、折々におつきあいをさせてもらっている方が、これまた折々に「うたまつり」を開催して、私にも一つってお誘いを受けて、作ったものなんです。
 お誘いを受けた時、撮ってきたばかりの写真を整理していて、その写真の一枚に、今日の写真があったのです。
 
 ロードバイクでつくばのアグリ・ロードを走っていると、こんな光景があって、この畑の持ち主はなかなか洒落た人だっていつも感心して、そして、時折、写真に撮ってくるのです。
 田畑をやりながら、芸術も手がけている素敵なお百姓がいるぞって。

 その素敵なお百姓の案山子を後に、我が宅に向かいながら、頭に浮かんできた一句がありました。

  ときは今 あめが下知る さつきかな

 信長の逆鱗に触れて、家康の接待役をはずされた光秀は、秀吉の援軍に向かうよう命令を受けます。

 光秀は、心にモヤモヤ、いや、激しい憎悪を秘めて、居城丹波亀山に戻るのです。
 そして、秀吉の援軍として、出陣する準備を進めます。

 五月二十七日、光秀は、近くにある愛宕社に詣でます。
 もちろん、愛宕社はいくさの神が祀られていますから、戦勝祈願のための参詣です。
 同時に、当時、何やかやと口実をつけては開催されていた連歌会も催されました。
 
 その折に、光秀が詠んだ歌がこれなのです。

 表の意味は、単なる季節の歌です。しかし、裏の意味がそこには隠されていました。
 連歌会に参加した名うての者たちは、光秀の覚悟を、この時知るのです。

 「とき」は、時であり、土岐に通じます。
  土岐氏は光秀の出身の家の姓です。
 「あめ」は、五月雨の雨であり、同時に、天下をも意味します。
  そして、「下知る」は、天下に号令するという意味を持ちます。

 すなわち、土岐氏である自分が、気ままな信長に変わって天下を動かすと歌ったというわけです。

 SNSなどなかった時代、連歌を通じて、人はそれとなく本心を何かに託して詠み、それを周囲に知らせたのだと思うと、背筋がぞくっとします。

 令和の出典となったあの筑紫の歌会での大伴家持にも似たような歌があります。

 咲く花は 移ろふ時あり あしひきの
 やますがの根し 長くはありけり

 これもまた、自然のありようを謳った一首ではありますが、これが作られた時代の一大事件を想起すれば、単純に自然詠歌とは言えなくなるのです。

 その一大事件とは、橘奈良麻呂の乱です。

 橘奈良麻呂という貴族が、当時、実権を握っていた藤原仲麻呂を滅ぼして、自分がとって代わろうとした事件です。
 しかし、あまりの大それたありように怖くなった仲間がそれを密告して、ことは露見、橘奈良麻呂ら謀反に参画した者たちは捕縛され、首を切られます。

 奈良に都が置かれた時代、貴族たちは年がら年中、そんな争いをしていたのです。
 
 大伴氏は、その名が示すように、天皇に大いに伴って、これを守護する役目を代々になってきましたが、大伴からも一族の何名かが嫌疑を受けて、島送りになっています。
 当然、家持もその嫌疑から取り調べを受けたとしても不思議ではありません。

 そんな折に、この歌は詠まれたのです。

 だとするなら、この歌にも裏の意味があるに違いないと想像するに何の問題もありません。
 
 乱を企んで拷問を受け無残な死を受けた橘、それを行なった藤原、そこにあるのは、それぞれ咲く花の名です。
 花は盛りもあれば、衰えもあるのです。
 橘が衰えれば、それを絶滅に追いやった藤だって、いつかは同じような命運をたどるって、そう言っているのです。

 そして、奈良の以前から、根っこのように天皇家を支えてきている大伴はそうではない、地中に深く根を下ろし、長く存続させていくのだと、そんな風にも詠めるのです。

 冒頭の私の歌には、さほどの政治的意味など、さらさらありませんが、それでも、裏の意味があるとすれば、いや、心底から何の衒いもなく、これがすぐに出てきたということは、私は案山子であることをその心情に持っていたからではないかと思っているのです。
 
 案山子のように、じっと空を見て、周りを見て、何もしないようで、何かをしている、そんな今の自分を重ね合わせているではないかと思ったのです。

 私は、案山子……

 存外、いいではないかって。



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《8 / 18 💦 Sunday 》
 
🦅 昨日、<カクヨム>にて『まぼろしのフランクフルト中央駅』を発信しました。

 縦横無尽に 

 意識の中を駆け巡るのは 
 人の持つ感性なるもの



この世に、二つの世界があり。
それは、現実世界と仮想世界。

かつては、そんなバカなと思える仮想の世界が、詩になり、絵になり、物語になって、現実世界で堪能されていました。
今、 AIがその仮想世界を現実世界に組み込み、私たちはその境目さえも不明の中で、仮想世界で遊ぶことができるのです。

なんともややこしい時代になったものです。

しかし、仮想の世界、昔から、人間の中にある何かのスイッチに刺激を与えてきました。
想像というスイッチ、さらに進んで、創造というスイッチにも、時には、幻想に、あるいは空想のスイッチとなり、私たちを楽しませてくれたりもしているのです。

フランクフルトの革ジャン男も、我が庭の山法師の木も、そして、日本語の二人称も、すべて、私にとって、現実世界と仮想世界を行き来する契機となったものたちなのです。

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