AI時代を生き抜く極秘の力

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季節は秋がよろし。春のように、風も強くなく、何よりも、かような色合いを目にすることができるからに。


 私は国語の教師をしていました。
 大学に進学する生徒が多い学校でしたので、現代文、古文という科目の授業より、<受験国語>ともいうべき科目での授業が多かったのです。

 <受験国語>というのは何かと言いますと、大学入試問題を解いて、<唯一解>をだすための教科活動とでも言ったらいいかと思います。

 基本、国語という教科での授業のあり方の一つとして、ある文章を読んで、生徒一人一人が感じたことを述べたり、書いたりというものがあります。
 これによって、人間としての総合的な力を獲得するというのが、国語の基本的なあり方であります。
 それゆえ、国語という教科は、単に言葉を学ぶ<日本語>とは異なり、極めて重要な教科として、明治の時代から位置付けられてきた科目であったのです。
 だから、唯一解というより、多くの感性が多くの言葉で語られ、それを聞いて、このような捉え方もあるんだとか、こうした考えかたもあると、それが勉強になるわけです。

 でも、受験国語ではそうはいきません。

 東京大学であれば、縦14センチの一行ないし二行の空欄に、解答となる語句を適切に書き込んでいかなくてはなりません。
 そうでないと、点を取ることはできないのです。
 その得点力を持つ適切な語句を書けるようにするのが<受験国語>であるのです。

 一例を挙げれば、記述問題の多くは、「傍線部分を説明せよ」という出題になります。
 私は、生徒に「説明せよ」とは、<別の言葉で言い換えよ>という意味と考え、傍線部分にある言葉を文節に分けて、その文節と同じ言葉を、与えられた文章の中から探し出し、置き換えることだと説明をしました。

 ゆめゆめ、「国語」で学んできた癖で、自分の言葉で、主観的に論じてはいけない。
 <受験国語>では、主観を排除し、与えられた断片的な文章の中から語句を選び、作文せよ、つまり、客観的な解答をこころがけよと、言っていたのです。

 これまで小中高でやってきた国語の授業のように、好き勝手に、自分の言葉で言い換えても、<唯一解>は出てこない。
 つまり、点数を取れる解答にはならないことを口を酸っぱくして言ってきたのです。
 採点する東大の先生の手元にある模範解答に限りなく近い解答を作る、これはそのための秘策というわけです。

 その証拠に、模擬試験では、この作法を習得しただけで、得点力がアップするのですから、間違いのない<受験国語>指導法であったと思っているのです。

 この指導法は、早慶の選択肢問題でも威力を発揮します。
 微妙な選択肢の文章ではありますが、傍線の文章を的確に言い換えているものを選べば、大概は外すことはありませんから、マークでも、記述でも大いに得点力を伸ばすことができるというものです。

 だからと言って、<受験国語>で、予備校ばりの点数を得る技術ばかりを教えていたというわけではありません。

 むしろ、答えを見つけ出す論理、何が求められているのかを察知する能力、主眼は何であるかを知る力、つまり、社会に入って必要な力を養成していたと考えているのです。

 先だって、OECDの学力調査で、日本の15歳がシンガポールに次いで、高得点をあげたというニュースがありました。
 それはそれで素晴らしいことですが、反面、私の孫が暮らすオーストラリアは振るわないという結果でした。
 ですから、私としては安心と心配が五分五分ということで、この報道に目を通したわけです。

 高成績の日本ではありましたが、細かくデータを見ていきますと、ちょっと気になる点がありました。
 このところ伸びていた「読解力」が一気に下降してしまったのです。
 それについて、文科省はコンピューターの操作で回答する今回の調査だから、不慣れであったと結論づけました。
 その意見が適切な判断であるかどうかは良くわかりません。

  AIが社会の中枢に入ってくる時代に生きる子供たちにとって、読解力は今まで以上に重要な要素になるということは明らかな事実であります。

 というのは、AIは、ファジーな言葉を理解しないからです。

 ですから、曖昧な言語、読解力の足りない言語を喋ったり、書いたりすれば、AIに受け付けてもらえなくなるのです。
 ということは、社会生活から弾き飛ばされることにもなりかねません。

  未来のAIばかりではありません。
 今現在、いじめで学校がとんでもない事態に陥ることがあります。
 これなども、読解力の欠如がそこにあると言っても差し支えないのです。
 生徒と生徒の間はもちろん、生徒と教師、あるいは、生徒と親、これらの間においても読解力の欠如により人間関係や相互理解が不十分となり、そこから問題が派生してくるということなのです。

 子供というのは、時に、ずる賢く振る舞うものです。
 それは悪さとかではなく、配慮する気持ちがまだ十分ではないために起こりうる出来事なのです。
 ですから、膝を詰めて話し合うことが最も大切で、そうした話から、物事を読解していく段取りを学ぶこともできるのです。
 読解ができれば、配慮も可能です。
 配慮は、いうまでもなく、相手のことを思うことです。

 相手への気配りや思いやりは、自分の心持ちを読解することで可能になるものでもあります。
 先ほど、受験国語での秘策を披瀝しましたが、あれと同じで、膝詰で話をすることで、その子の中にあった断片的な言葉が連接し、もっと、簡便でわかりやすい言葉に置き換えられ、物事が理解できるようになるのです。

 それが理解できれば、それが取るに足らないこと、構っても仕方のないことに、持っていけるのです。
 つまり、自分の心を開放して、余計なものを取り払っていけるのです。

 問題を抱え、鬱々とする子というのは、その問題を一身に背負い、身もだえしているのですから、風穴を開けてやることが大人の務めなのです。
 読解力というと、何か専門用語のようでとっつきにくい言葉ですが、人生を歩んでいく上では最も基本となる生きる力であると言えると私は思っているのです。

 ですから、論理に裏打ちされた<読解力>をつけて行くことが、これからの社会をよりよくしていける陰の力になると考えているのです。




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